15話 神の矜持
紫尾久利大社。
その格式と威厳は今も変わらない。
しかし——
その神社に、ひとつの変化が訪れていた。
「ふーん、写真撮影が解禁されたんだねぇ。」
住吉は、境内の掲示板に貼られた新しいお知らせを見ながら、のんびりと呟いた。
そこには、簡潔にこう書かれていた。
「神前式における撮影について」
従来、式中の撮影は控えていただいておりましたが、今後は許可制にて撮影を認めることといたします。
ただし、神事の妨げとなる行為は慎むこと。
住吉は、お知らせの紙を指で軽く撫でながら、ふっと微笑む。
「いやぁ、これは大きな変化だねぇ。」
「……貴様、いちいち感慨深そうに言うな。」
紫尾が住吉の背後から静かに歩み寄る。
住吉は、振り返って彼女を見た。
「いやいや、ボクからしたらすごいことだよぉ。だって紫尾、ついこの間まで『神事の神聖さを乱す行為は断じて許さぬ』とか言ってたじゃないかねぇ?」
「……言った。」
紫尾は淡々と認める。
「しかし、考えを改めた。」
「おぉ、それはまたどうして?」
住吉が興味深げに身を乗り出すと、紫尾はわずかに目を細めた。
「神前式に臨む者たちの想いを、私は軽んじていたのかもしれぬ。」
住吉は、少しだけ驚いたように目を瞬く。
紫尾は、視線を境内の奥へ向けた。
そこでは、ちょうど神前式の準備が進められている。
白無垢を纏った新婦と、紋付袴の新郎。
親族が厳かに座り、神職が式の流れを確認していた。
そして、境内の片隅には、控えめにカメラを構えるカメラマンの姿がある。
「……この場で結ばれる者たちにとって、神前式はただの儀礼ではない。」
紫尾の声が、静かに響く。
「彼らは、この神の前で誓いを立てることを、一生の節目とする。」
「……」
「ならば、その瞬間を残すことを、頭ごなしに禁じるのは違うのではないかと、そう思ったのだ。」
住吉は、ゆるりと微笑んだ。
「いやぁ、紫尾。やるじゃないかねぇ。」
「……からかうな。」
紫尾は、住吉を睨む。
住吉は肩をすくめながら、再び神前式の方へと目を向けた。
「いやいや、でも本当にいいことだよぉ。」
「……そうか。」
紫尾は淡々と答える。
住吉は、しばらく式の様子を眺めていた。
神職が祝詞を奏上し、新郎新婦が玉串を捧げる。
カメラマンは、静かにシャッターを切る。
その光景を見ながら、住吉はふと、呟いた。
「……いいねぇ。」
紫尾が、わずかに目を向ける。
住吉は、少しだけ遠くを見るような目をしていた。
「これならさぁ、この式に立ち会った人たちは、何年後でも思い出せるじゃないかねぇ?」
「……」
「“あのとき、紫尾久利大社で結婚したんだ”って、そう思い返してもらえるんだよ。」
紫尾は、ゆっくりと目を伏せた。
そして、小さく息を吐く。
「……それも、信仰の形か。」
「そうそう。」
住吉は、にこりと笑った。
「神様ってのはねぇ、人々の記憶の中に生きるものなんだよぉ。」
「写真が残ることで、紫尾の神社も、人々の記憶に深く刻まれる。」
「それって、すごく素敵なことじゃないかねぇ?」
紫尾は、再び神前式に目を向けた。
そして、白無垢の新婦が静かに微笑むのを見た。
——それは、とても優しく、幸福な笑顔だった。
紫尾は、ほんの少しだけ目を細めた。
「……悪くはないな。」
住吉は、嬉しそうに頷いた。
「いやぁ、紫尾。やっぱりキミも変わったねぇ。」
「……貴様がうるさいだけだ。」
紫尾はそう言いながら、住吉を睨む。
だが、その表情は、どこか穏やかだった。
風が吹く。
新たな流れが、神社を包み込む。
神々の争いは終わり、そして、新たな信仰の形が生まれようとしていた。
……さてさて、こんな具合で、町の神様方にも変化が訪れたってぇわけでございます。
紫尾久利大社は、今までカタくなに禁止してた神前式の写真撮影を解禁しましてね、いやぁ、時代も変わるもんですなぁ。昔は「神聖なる儀式の最中にシャッター音などもってのほか!」なんて言ってましたが、今や「記念写真は一生の宝だからな!」ってな具合に、なんとも丸くなったもんでございます。
一方、大鈴天満宮も、やたらめったら商売っ気ばっかりだったのを少し改めましてね、ようやく「神社は神聖な場所だ」ってことを思い出したようでございます。今まで、ほら、「ご利益あります!」ってデカデカと書かれたお守りをセット販売してたような神社でしたが、今はちゃんと「御神札は心を込めて授与します」っていう、まぁ、当たり前のことをやるようになりまして。
こうして、神々がそれぞれちょいと歩み寄ったもんだから、定例の神々の集まりも、なんだか雰囲気が変わってきたんでございます。
今まで「どっちが偉い」だの「どっちが伊勢に行く」だのとギャーギャー言い合ってた会議が、なんとまぁ、今では「神社運営に関する情報交換の場」になりましてねぇ。
「いんすたぐらむ、とは何ぞ?」
なんて質問が飛び出せば、
「知らんのか? うちの神社はもうやっとるぞ。」
なんてドヤ顔で答える神様がいる始末でございます。
いやぁ、神様も大変ですなぁ。
「時代に合わせるのは大事だけど、『りてらしい』ってのが必要らしい」なんて言って、神々が真面目な顔でスマホをいじる時代になったわけでございます。
さて、そんな町の変化を見て、住吉命も満足げでございました。
「いやぁ、ボクがちょっと動いただけで、こんなに町が変わるんだねぇ。いやいや、神様冥利に尽きるねぇ。」
なんて言いながら、町で一番高い山の公園に登り、のんびりと町を見下ろしておりました。
あっちの神社も、こっちの神社も、まぁ、それなりにうまくやってる。
人の流れも増えて、信仰も少し戻ったような気がする。
いやぁ、よかったよかった、と。
しかし、ですな。
住吉命さん、あんた、大事なことを忘れてやしませんか?
いやいや、町が変わったのは結構なことですが、そもそもあんた、伊勢に行くはずだったんじゃありませんか?
そうそう、伊勢。
なんたって「願いを叶えた神が行く」って話だったんですから。
ところが、住吉命さんときたら、もうすっかり町の変化に見入っちゃって、すっかりそんなことは頭の隅に追いやっている様子。
「あぁ、ボク、もうやることないねぇ。」
なんてのんびりしてるんですから、これはもう呑気というか、なんというか。
そりゃまぁ、神様ってのは悠久の存在なんですから、ちょっとくらいのんびりしても問題ないんでしょうけど、さすがにこのままじゃまずい。
伊勢に行く準備、してませんよね?
時間、大丈夫なんですかね?
「まぁまぁ、まだ大丈夫じゃないかねぇ。」
なんて言ってる間に、伊勢行きの神様たちは、どんどん準備を進めているわけでございます。
えぇい、いい加減にしないと、本当に置いていかれますよ、住吉さん。
さぁ、どうする、住吉命。
いや、どうするっていうか、さっさと行きなさいって話なんですがね。
さてさて、このまま住吉命がボーッとしてたら、一体どうなることやら。
伊勢に無事にたどり着くのか、それとも、また町で何かしらの騒動が起こるのか、それは十月になってわかる事でございます。
「はぁ!? あんた何も準備してなかったってどういうことよ!!?」
「貴様……まさか、本気で忘れていたのか……?」
紫尾の鋭い声と、大鈴の呆れた叫びが、住吉の小さな神社に響き渡る。
住吉は境内の隅、賽銭箱の横でちんまりと座り込み、頭を抱えていた。まるで怒られた子供のように、小さくなっている。
「いやぁ……だって誰かに行けなんてボク言われてないよぉ……」
のんびりした調子でぼやいた瞬間——
「言われなくても分かるでしょうが!!」
「どう考えてもお前が行く流れだっただろうが!!」
二柱の怒声が炸裂する。
10月になったというのに、住吉は伊勢行きの準備を何一つしていなかったのだ。いや、それどころか、山のように積まれた願い事を前に、ただひたすら頭を抱えていた。
「いやぁ……気づいたらもう10月だったねぇ。」
住吉は、ぐちゃぐちゃになった紙の束を指差した。
「だって、ほら見てよぉ。願い事が多すぎるんだよぉ。」
「何を今さら……」
紫尾は呆れ顔で眉間を押さえ、大鈴は大きくため息をついた。
「それをまとめて、伊勢に持っていくのが代表の役目だろう?」
「そうよ。それに、今年は“願いを叶えた神”が代表になるって決まったじゃない。」
「いやぁ、でもねぇ……」
住吉は、ちらりと願い事の束を見やる。ざっと見ただけでも、様々な願いが書かれていた。
「商売繁盛祈願」
「家内安全」
「試験合格」
「……いやぁ、ボクねぇ、どれを優先すればいいのか分かんなくなっちゃって……」
「いや、全部持っていけばいいじゃない。」
「だって、それじゃただの束じゃないかねぇ。」
住吉は、ぐしゃぐしゃになった紙を手に取ると、がっくりとうなだれた。
「願いっていうのはねぇ、それぞれに意味があるわけで……ただ紙束を持って行ったところで、伊勢の神々は聞いてくれないんじゃないかねぇ?」
「はぁ……」
紫尾が深々と息を吐いた。
「貴様は考えすぎなのだ。」
「いやいや、考えなきゃダメじゃないかねぇ。だってこれ、みんなの願い事だよぉ?」
「お前が言うと説得力がないのよ。」
大鈴が扇子をパチンと閉じる。
「で、結局どうするの? あとどれくらいでまとめられるわけ?」
「いやぁ……それがねぇ……」
住吉は、紙束を持ち上げ、ぽそっと言った。
「まだ全然……」
「はぁぁぁぁぁぁぁぁ!!??」
紫尾と大鈴が同時に絶叫した。
「いやいやいやいや、バカなの!? 今日から10月よ!? 伊勢に行く神々はもう準備してるわよ!!?」
「お前まさか、本当に何もやっていなかったのか……?」
「いやぁ、だからぁ……考えてたんだけどねぇ……」
「考えてるだけで終わってるじゃない!!」
「ぐぇぇぇ……」
紫尾と大鈴に詰め寄られ、住吉は縮こまる。
「も、もういい!!」
紫尾が境内の端を蹴り、声を張り上げた。
「皆を呼べ!! 総出で願いをまとめる!!」
「えぇぇ!? 今からぁ!? そんな急に……」
「急だからやるんだろうが!!」
大鈴が住吉の背中を叩く。
「代表としての役目、果たしなさいよね!!」
住吉は泣きそうな顔をしながら、ぐったりと頷いた。
紫尾久利大社から神々が集まり、大鈴天満宮からも神々が駆けつけた。
神社の境内は、急遽開かれた“願い事仕分け会議”で大騒ぎになった。
「これは大事な願いだから、ちゃんと伝えるべきじゃないか?」
「いやいや、それならこっちも重要だ!!」
「神前式の増加に伴い、夫婦円満の願いが増えている! これはしっかり持っていくべきだ!!」
「でも、地元の商店の繁盛祈願も多いぞ!? 経済が回らなければ、人々の暮らしもままならん!!」
「ちょっと待って、推しのライブチケット当選祈願って……これはさすがにどうなのよ?」
「いや、それはそれで大事なのでは?」
「お前、信仰の意義を考えろ。」
「いや、信仰ってのは、人の願いを受け止めることだろう?」
「ぐぬぬ……」
思いのほか白熱する議論。
「いやぁ……これは大変だねぇ……」
住吉は頭を抱えながらも、神々のやり取りを見て、どこか安心していた。
「……みんな、信仰のこと、ちゃんと考えてるんだねぇ。」
「当たり前だ。」
紫尾が冷たく言い放つ。
「これは、我らの務めだからな。」
大鈴も扇子を広げ、ゆるりと微笑んだ。
「……あんたが何もやってなかったおかげで、大騒ぎになったけどね。」
「いやぁ……申し訳ない……」
「なら、次からはもう少し準備しなさいよね。」
「うぅ……」
住吉はしょんぼりと肩を落とす。
けれど、それでも、何とか間に合いそうだった。
願い事は整理され、それぞれに意味が持たされ、伝えるべき形になった。
「さて……」
紫尾が住吉を見据える。
「これで、お前は堂々と伊勢へ行けるな。」
「いやぁ……なんとか、ねぇ……」
「……さて、時間がない。」
大鈴が扇子を閉じ、にっこりと微笑む。
「じゃあ、駅まで行きましょうか。」
住吉が「あれ?」と首を傾げた瞬間——
「どぉりゃあ!!」
「ぐえぇ!!?」
二柱が左右から住吉の腕をがっしりと掴み、強引に神社の境内から連れ出す。
「ちょ、待って!! なんかすごい強引じゃないかねぇ!? 」
「当然だ!! 貴様がぐずぐずしていたせいだろう!!」
「さっさと新幹線に乗りなさい!!」
駅の改札まで担がれ、切符を渡され、荷物を持たされ——
「え、ちょ、これ……!」
「さぁ、乗れ!!」
「いやぁ、もう少し余韻があってもいいんじゃないかねぇ……!」
その叫びが届くよりも早く、紫尾と大鈴の強引な手によって、住吉は新幹線の座席に押し込まれた。
「熊本行き……発車しまーす。」
「いやぁぁぁぁぁぁ!!!」
秋の朝、新幹線は静かに動き出すわけです。
いやはや、神様ってのも、楽じゃないもんでございますなぁ。




