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14話 仲裁役

 澄んだ朝の空気が境内に満ちていた。

 神気は張り詰め、静寂の中にわずかな緊張が漂う。


 紫尾久利大社。

 格式と威厳を誇るこの神社は、朝日を受けてなお、どこか冷たい光を放っていた。


 その境内へ、ひとりの神が歩いてくる。


 住吉命。


 軽い足取りで鳥居をくぐり、のんびりとした表情で境内へと進む。

 しかし、その姿を見た途端、神々の間に不穏な空気が広がった。


 「……あいつ、本当に来たのか?」

 「昨日の件、まさか……」

 「いや、さすがにあれは……」


 ひそひそと交わされる声が、微かに耳をくすぐる。

 それもそのはず——


 住吉は、昨日「不可能な願い」を叶えたのだ。


 「死んだ兄を生き返らせてください。」


 そんな無理難題を前に、彼は何をしたのか?

 神々は、疑念と興味の入り混じった視線で住吉を見つめる。


 しかし、本人はそんな空気などまるで気にしていない。

 むしろ、まったくの他人事のように——


 「いやぁ、いい朝だねぇ!」


 などと、のんきに呟く。


 ——その瞬間、境内の空気が変わった。


 「住吉。」


 低く、静かに名を呼ぶ声。

 その声には、凍てつくような冷たさがあった。


 紫尾武尊しおたけるのみこと


 白き衣をまとい、金の髪をなびかせ、

 まるで太刀のような鋭い眼光で、住吉を見据える。


 彼女の周囲には、紫尾派の神々が控えていた。

 彼らもまた、住吉を警戒するように見つめている。


 住吉は、まったく動じることなく、ニコリと笑う。


 「いやぁ、おはよう紫尾! 今日も凛々しいねぇ!」


 「……ふん。」


 紫尾は、表情を崩さずに住吉を見下ろす。


 「貴様が来るとは、予想していた。」


 「そりゃあ、ボクが来なきゃ話にならないからねぇ。」


 住吉は、のんびりと境内の真ん中へと進んでいく。


 神々の視線が、その一挙手一投足を見つめる。


 そして——


 「紫尾、キミにお願いがあるんだよぉ。」


 「……何だ。」


 「ボクと一緒に大鈴天満宮へ行こうかねぇ?」


 その言葉に、境内が凍りつく。


 「……何?」


 紫尾の目が細められる。


 「ボクはねぇ、昨日、願いを叶えたんだよ。」


 「叶えた、だと?」


 「そうさぁ。」


 住吉は、ふぅっと息を吐いて空を仰ぐ。


 「まぁ、死んだ人をそのまま生き返らせるなんて、ボクにも無理だけどねぇ。」


 「……ならば、何を叶えたと言う。」


 紫尾は、その目で真意を探ろうとする。


 住吉は、ゆっくりと視線を戻し、静かに言った。


 「“生まれ変わって、また会えますように”——って願いさ。」


 「……!」


 神々の間に、驚きのざわめきが走る。


 住吉は、続ける。


 「昨日、踏切の前で祈っていた少女がいたんだよぉ。」


 「彼女はねぇ、最初は“お兄を生き返らせてください”って願った。でも、本当に願っていたのは……」


 「“お兄が、またどこかで生まれ変わって、幸せになれますように。”」


 住吉は、目を細める。


 「ボクは、それを叶えたんだよぉ。」


 「……どうやって。」


 紫尾は、低く問いかける。


 住吉は、ひらりと手を広げた。


 「いやぁ、簡単さ。」


 「“生まれ変わり”っていうのはねぇ——信じる者がいれば、それだけで成立するんだよ。」


 「人間はさぁ、過去を変えることはできない。でも、“未来に希望を持つこと”はできるんじゃないかねぇ?」


 「ボクはねぇ、ただそれを、ほんの少しだけ手助けしただけさ。」


 神々は、しんと静まり返った。


 「……胡乱なことを。」


 紫尾は、僅かに眉をひそめる。


 「貴様、それを願いを叶えたと言うつもりか?」


 「もちろん。」


 住吉は、にこりと笑った。


 「ねぇ、紫尾?」


 「……何だ。」


 「キミが言ってたよねぇ。」


 「“願いを叶えた者こそ、伊勢へ行く資格がある”——ってさ。」


 紫尾の目が鋭く光る。


 住吉は、肩をすくめる。


 「ならさぁ、もう争う必要なんてないじゃないかねぇ?」


 「ボクは願いを叶えた。紫尾も願いを叶えた。大鈴も、きっと何かしら叶えてるんじゃないかねぇ?」


 「だったら——もう争う理由なんて、どこにもないはずじゃないかねぇ?」


 境内が、静寂に包まれる。


 紫尾は、住吉を見つめたまま、長く沈黙していた。


 やがて——


 「……住吉。」


 紫尾は、低く口を開いた。


 「貴様の言い分は、確かに一理ある。」


 「おお、それは光栄だねぇ。」


 「だが——」


 紫尾は、凛とした声音で続ける。


 「……あの下賤な輩と、馴れ合うつもりはない。」


 その言葉に、住吉は目を瞬かせた。


 「いやぁ、紫尾、相変わらずだねぇ……」


 「当然だ。」


 紫尾は、住吉を冷ややかに見下ろす。


 「私は誇り高き神である。大鈴のような成金神と肩を並べるつもりなどない。」


 「ふぅん?」


 住吉は、肩をすくめた。


 「でもさぁ、紫尾。」


 「……何だ。」


 「それでも、キミはボクと一緒に来るんじゃないかねぇ?」


 紫尾は、一瞬目を細めた。


 そして——


 「……貴様の身勝手な行動を、放っておくわけにはいかぬからな。」


 住吉は、ゆるりと笑う。


 「いやぁ、それは頼もしいねぇ!」


 紫尾は、溜息をつきながら、ゆっくりと歩を進めた。


 ——さて、神々の大移動が始まる。


 次の目的地は、大鈴天満宮。


 紫尾と住吉、その背には、数多の神々が続いていた。


 紫尾久利大社の鳥居をくぐり、住吉命と紫尾武尊が歩き出す。

 その後ろには、紫尾派の神々が静かに続いていた。


 人の目には映らぬはずの神々。

 だが、それでも、彼らが歩けば——世界はわずかに歪む。


  異質なものが、街を歩く。


 街はいつも通りだった。


 通勤通学の人々が歩き、バスが発車し、自転車のブレーキが軋む。

 何の変哲もない、いつもの朝。


 ——そのはずだった。


 住吉たちが足を踏み入れた瞬間、街の空気がわずかに変わる。


 道を行く人々が、ふと足を止めた。

 なぜか、その道を通りたくなくなる。理由はわからない。

 だが、自然と進路を変える。


 イヤホンをつけた学生が、唐突に背筋を伸ばし、周囲をきょろきょろと見渡す。

 まるで誰かに見られているような——そんな気がして。


 ビジネスマンが歩きながら急に咳払いをする。

 すれ違った女性が、寒くもないのに腕を抱きしめる。


 理由はない。

 ただ、何かがいる気がするのだ。


  この世のものではない”何か”が——。


「いやぁ、なんだか朝からみんな忙しそうだねぇ。」


 住吉はのんびりと歩きながら、横を行く紫尾に話しかける。

 紫尾は黙ったまま、前を見据えていた。


「ボクたちが歩いてるせいかねぇ?」


「当然だ。」


 紫尾は冷たく言い放つ。


「貴様はともかく、我らは神威を放つ存在。人の本能がそれを察知し、違和感を覚えるのも無理はない。」


「いやぁ、ボクも神様なんだけどねぇ……。」


 住吉は肩をすくめる。


 道端のカラスが、突如として騒ぎ出した。

 ギャアアッ!!と甲高い声で鳴き、電線の上で羽をバサバサと広げる。

 まるで怒りの叫びのようにも聞こえた。


「おいおい、歓迎されてないみたいだねぇ。」


 住吉はカラスを見上げながら苦笑する。


 紫尾はチラリとも見ずに歩き続けた。


「低きものが、高きものに畏れを抱くのは道理。」


「まぁ、カラスからしたらボクたちの方が異質なのかねぇ?」


 角を曲がると、商店街へと出る。


 朝の市場は活気に満ちていた。

 魚屋が威勢よく声を上げ、八百屋が店先で野菜を並べる。


 しかし——


 住吉たちが足を踏み入れた途端、場の空気が微かに揺らいだ。


 一瞬、ぴたりと音が止む。


 誰かがラジオのスイッチを切ったように、会話が途絶えた。

 八百屋の店主が手を止め、客が野菜を手に取る動作を忘れる。


 次の瞬間、何事もなかったかのように動き出した。


 八百屋の店主は再び大根を並べ、客は「あれ、何を買うつもりだったっけ?」と首を傾げる。


 気のせい、だ。

 気のせい、にしておきたい。


 路地裏の猫が、背中を丸めて毛を逆立てる。


 「……フシャァッ!!」


 威嚇するように牙をむき出し、尻尾を膨らませる。

 その目は、まるで目に映らないものを睨みつけているかのよう。


「おやおや、猫まで怒ってるねぇ。」


 住吉は足を止め、しゃがみ込む。


「いやぁ、ごめんごめん。ちょっと通らせてもらうだけなんだよぉ。」


 猫は一歩後ずさる。

 それでも瞳を爛々と光らせ、住吉を睨みつける。


 紫尾は呆れたように言う。


「貴様は本当に暇人だな。」


「いやぁ、こういうのも大事なんじゃないかねぇ?」


 神々の行進は続く。


 そのたびに、街の空気がわずかに歪む。

 見えざるものが歩く道。

 人々は意識せずとも、それを避ける。


 気づかぬままに、神々が通る道ができる。


 やがて——


 目の前に、赤い大鳥居が現れた。


 紫尾は立ち止まり、大鈴天満宮を見上げる。


「相変わらず派手だな。」


 金色の装飾が施された社殿。

 境内には、すでに待ち構える大鈴派の神々の姿があった。


 そして、その中心には——


 涼やかな微笑を浮かべ、扇子をゆるりと揺らす 大鈴尊すずなりのみこと の姿があった。


「ずいぶんと賑やかねぇ。」


 大鈴は、紫尾の姿を見て、興味深げに目を細める。


「紫尾まで連れてくるとはね。……一体、何のつもりかしら?」


 住吉は、ニコリと笑いながら答えた。


「いやぁ、大鈴。ちょっと顔を見に来たよぉ。」


「ふぅん? その割には、随分と大勢を連れてきたようだけど?」


 扇子を閉じ、住吉に向ける。


「何を企んでいるのかしら?」


 住吉は、ゆるりと肩をすくめる。


「いやぁ、企みだなんてそんな大層なものじゃないさぁ。」


「ただねぇ、ボクはちょっと話をしに来ただけなんだよぉ。」


 ——さて、神々の対話が始まる。


 人の目に映らぬ場所で、神々は何を語るのか。

 この争いの行方は、どこへ向かうのか。


 朝の光が、大鈴天満宮の境内を照らしていたが。

 大鈴天満宮の境内に、張り詰めた空気が広がる。


 紫尾派と大鈴派、それぞれの神々が静かに睨み合い、微動だにしない。

 紫尾は腕を組み、鋭い眼差しで住吉を見つめる。

 大鈴は扇子をゆるりと揺らしながら、余裕たっぷりに微笑んでいた。


 ——そして、その中心に、住吉が立っていた。


 彼はまるで何も気にしていない様子で、のんびりと手を広げた。


「いやぁ、なんだかすごい空気だねぇ。」


 紫尾の視線が鋭さを増す。


「当然だ。この場は、伊勢行きを決める重要な場所。貴様のような者が軽々しく踏み入れてよいものではない。」


 大鈴も静かに住吉を見つめる。


「それに……あなた、何のつもりかしら? ここまで大層な行列を連れてきて。」


 住吉は、ひらりと手を振って答える。


「いやいや、企みだなんてそんな大それた話じゃないさぁ。」


「ボクはねぇ、ただ“言いたいこと”があって、ここに来たんだよぉ。」


 大鈴がわずかに眉を上げる。


「……言いたいこと?」


「そうそう。」


 住吉は、ふぅっと息を吐き、周囲の神々を見渡した。


「ねぇ、紫尾、大鈴。キミたちは、こうして毎年争ってるけど……本当にそれでいいのかねぇ?」


 紫尾がわずかに目を細める。


「……貴様、何が言いたい。」


 住吉は、ゆっくりと境内を歩きながら、続ける。


「ボクたち神様が、こうして歩くだけでどうなるか、分かるかねぇ?」


 静寂が境内を包む。


 住吉は、片手をひらひらと動かしながら言う。


「人々は、ボクたちが見えなくても、本能的に察する。」


「足を止め、道を避け、鳥は騒ぎ、猫は威嚇する。」


「さっきまで賑やかだった市場が、一瞬、沈黙に包まれる。」


「——そんな異質なものが、毎年ここで争いを繰り返している。」


 住吉は、一歩踏み出し、紫尾と大鈴の間に立つ。


「……そして、その結果は?」


 彼は、境内の外を指さした。


「見てごらんよ。この観光客。」


 神々が視線を向ける。


 大鈴天満宮は、商業的に成功した神社だった。

 大きな鳥居、華やかな装飾、土産物屋に人々が集まり、賑わっている——はずだった。


 しかし、よく見れば……どこか違う。


「みんな、なんとなく落ち着かない顔をしてるよねぇ?」


「せっかく観光に来てるのに、空気が張り詰めている。」


「どこかで“ここにいて大丈夫なのか”って思ってるんじゃないかねぇ?」


 住吉は、肩をすくめた。


「ねぇ、大鈴?」


「……何かしら。」


「キミは、商業的な成功を求めて、神社を盛り上げてきたんだよねぇ?」


「そうよ。」


「でも……今、この神社に人が来るのは、純粋な信仰心からかねぇ?」


「……」


 大鈴は、返答しなかった。


 住吉は、今度は紫尾に向き直る。


「そして、紫尾。キミは誇り高く、神格を保つことにこだわってるよねぇ?」


「当然だ。」


「でも……それが行き過ぎると、どうなるかねぇ?」


 住吉は、紫尾をじっと見つめる。


「神聖であればあるほど、人は近寄らなくなる。」


「敬うことは大事。でも、それが恐怖に変わったら……信仰は離れていくんじゃないかねぇ?」


 紫尾は、沈黙する。


 住吉は、両手を広げた。


「結局、どっちも極端になりすぎたんじゃないかねぇ?」


「大鈴は、人々を集めることに成功したけど、その分、神としての威厳を失いつつある。」


「紫尾は、神としての威厳を守ろうとしたけど、その結果、人々を遠ざけてしまった。」


 住吉は、ゆっくりと紫尾と大鈴の顔を交互に見つめた。


「だったらさぁ——お互いの欠点を補い合えばいいんじゃないかねぇ?」


「……!」


 大鈴の目がわずかに揺れる。


 紫尾も、じっと住吉を見つめていた。


「大鈴は、もっと神格を大事にするべき。」


「紫尾は、もっと人々に寄り添うべき。」


 住吉は、静かに続ける。


「そしたら、この町はもっと良くなると思わないかねぇ?」


「神様ってのはさぁ、人々がいてこそ神でいられるんだよ。」


「ただ祀られるだけじゃなく、信じてもらわないといけない。」


「でも、信じてもらうためには、近づくことを恐れられる神じゃいけないし、逆に安っぽい存在になってもいけない。」


「——だからさ。」


 住吉は、ゆっくりと笑った。


「キミたちは、争ってる場合じゃないんじゃないかねぇ?」


 境内に、静寂が広がる。


 紫尾は、目を閉じ、長く息を吐いた。


 大鈴は、扇子を閉じ、じっと住吉を見つめた。


 そして——


「……なるほどね。」


 大鈴が、小さく微笑む。


「たまには、面白いことを言うのね、住吉。」


「いやぁ、ボクはいつも面白いこと言ってるんだけどねぇ。」


 住吉が軽く笑うと、大鈴はくすりと笑い、扇子を軽く開いた。


「紫尾、どうする?」


 紫尾は、しばらく沈黙していた。


 やがて——


「……下賤な輩と手を組むのは、性に合わぬ。」


 その言葉に、大鈴が「あら?」と微笑を深める。


 しかし——


「だが。」


 紫尾は、住吉をじっと見つめた。


「貴様の言い分には、一理ある。」


「……!」


「信仰を集めることも、格式を保つことも、どちらも神にとって必要なことだ。」


「ならば——」


 紫尾は、静かに言った。


「……少しだけ、大鈴と歩調を合わせてみるとしよう。」


 住吉は、その言葉を聞いて、大きく微笑んだ。


「いやぁ、それはいいねぇ!」


 大鈴も、満足そうに笑みを浮かべる。


「……まぁ、紫尾と完全に手を組むのはごめんだけど。」


 紫尾が睨む。


「私も貴様と馴れ合うつもりはない。」


 住吉は、にこにこと笑いながら、両手を広げた。


「いやいや、それで十分さぁ。」


「大事なのは、“争わない”ことなんだからねぇ。」


 と、その時。


 ——パンッ。


 乾いた音が響く。


 住吉の顔に、何かが当たった。


「……ん?」


 落ちたのは、空き缶だった。

 転がる缶は、炭酸の残りが僅かに滴り、境内の石畳を濡らしていた。


 境内の空気が、変わる。


 紫尾派と大鈴派の神々が、一斉に目を向ける。


「おい……」

「まさか、人間が……?」


 神々の視線の先に——


 観光客の一団がいた。


 彼らは、特に騒いでいたわけではない。

 だが、そのうちの一人、若者の男が、仲間と話しながら適当に手に持っていた缶を投げ捨てたのだ。


 それが、よりにもよって神の顔に当たるとは——。


「……」


 住吉は、転がる缶をじっと見つめていた。


「いやぁ……」


 そして、目を細め、笑った。


「これもまた、難儀なものだねぇ。」


 彼は、何気なく大鈴へと目を向ける。


 大鈴は、その視線を感じ取ると、フッと扇子で口元を隠しながら目を逸らした。


「……なるほどね。」


 住吉は、笑みを浮かべたまま、小さく肩をすくめた。


 「結局のところ、大鈴。この神社の“信仰”って、こんなものかねぇ?」


 その言葉に、紫尾の眉がピクリと動く。


 大鈴は、しばらく何も言わなかった。


 そして——


 「……まったく。」


 低く、冷たい声が響く。


 住吉ではない。

 大鈴でもない。


 紫尾だった。


 「……こんなものを、“神聖な場”に投げ捨てるとはな。」


 ピクリ、と。


 観光客の一団のうち、一人が首筋を掻く。


「……?」


 おかしい。妙に、寒気がする。


 境内は陽が照っているはずなのに、空気がひんやりと肌を刺す。


 風は吹いていない。

 だが、何かが動いた気がした。


 境内に、見えざる何かが。


「……ッ!」


 若者は思わず背筋を伸ばす。

 視界の端に、何かが揺らめいた気がした。


 幽かに響く、不協和音。

 鳥の鳴き声が途絶え、遠くで猫が低く唸る。


 何かが、こちらを見ている——。


「な、なんだ……?」


 若者は周囲を見渡す。

 だが、何も見えない。


 見えないはずだ。


 神々の気配は、通常の人間には知覚できるものではない。


 だが、だからこそ、それは“本能”に働きかける。


 感じる。


 理解できぬままに、肌が震える。


「お、おい、どうした?」


 仲間が心配そうに声をかける。

 若者は、無意識に後ずさった。


 すると——


 ゴトン。


 缶が転がった。


 「……ッ!」


 彼の背筋が凍る。


 転がった缶が、まるで何かに踏みつけられたかのように、止まったのだ。


「……」


 紫尾は、無言でその様子を見ていた。


 彼女の周囲に、淡く、しかし強い威圧感が漂う。


 そして——


 ゴォッ、と。


 空気が揺らぐ。


 何か、見えぬ手が境内に吹き荒れたかのように。


「な、なんだこれ……!」


 若者は、全身を粟立たせ、仲間を振り返った。


 「……やべぇ、なんか、ここ……」


 他の観光客もまた、同じ感覚を覚えたのか、落ち着かぬ様子で足を動かす。


 まるで、見えざる“何か”が、足元から這い上がるような——そんな錯覚を覚えたのだ。


「……おい、行こうぜ。」


 仲間が、若者の腕を引いた。


 「な、なんだよ……?」


 「いいから、早く。」


 彼らは、急ぎ足で境内を後にした。


 背を向け、歩み去る。


 そして、その影が鳥居の外へと消えた瞬間——


 ピタリ、と。


 境内の空気が、元に戻った。


 何もなかったように。


 何も起こらなかったように。


 紫尾は、静かに息を吐いた。


「……これでいいのだろう?」


 淡々とした声音で、大鈴へと視線を向ける。


 大鈴は、扇子を軽く開き、口元に笑みを浮かべた。


「……まぁ、やるじゃない。」


 彼女の目には、僅かながら感心の色が宿っていた。


 住吉は、そんな二人を見ながら、静かに笑った。


 「いやぁ、これで、ちょっとは“大鈴天満宮らしさ”が戻ったんじゃないかねぇ?」


 「神聖であること。」


 「でも、人が訪れること。」


 「そのバランスが、大事なんじゃないかねぇ?」


 住吉は、境内の鳥居を見上げた。


 朝の陽が、その朱塗りの柱を照らしていた。


 新たな光の中で——神々の争いは、一つの終焉を迎えた。


 けれど、それは新たな始まりでもあった。


 住吉は、くすりと笑い、ひらりと手を振る。


「いやぁ……今日も、いい朝だねぇ。」


 長らく続いた小競り合いも、案外簡単に終わるのではないかと思い始めていた。


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