13話 がんばれ田中
田中は、少女と別れ、ゆっくりと自転車を押しながら歩いていた。
踏切の警報音はすでに鳴り止み、街はいつもの日常を取り戻している。
通りを行き交う人々は、何事もなかったかのように、忙しなく歩いていた。
だけど——
田中の心には、さっきの少女の言葉が、深く残っていた。
彼女の悲しい顔。
か細い声で語られた、兄の死の話。
「……なぁ、神様。」
田中は、誰にともなく呟いた。
「神様がいるんなら、なんでこんなことするんだろうな。」
住吉は、その言葉を聞いて、少し驚いたように田中の背中を見つめた。
「……ボクに言ってるのかい?」
もちろん、田中には住吉の姿は見えないし、声も届かない。
でも、まるで住吉がそこにいると知っているかのように、田中は呟き続けた。
「俺が神様なら、絶対こんな悲しいことしないんだけどな。」
住吉は、少し目を細めた。
「……うーん、どうだろうねぇ。」
田中は、まだ何か言いたげに空を仰ぐ。
「……あの子の顔、忘れられそうにない。」
住吉は、黙って田中の横を歩く。
「なぁ、神様。」
田中の声が、少しだけ震えた。
「……残酷だよな。」
その言葉が、住吉の胸に深く刺さる。
そして——
去り際に聞いた、少女の言葉が田中の脳裏にフラッシュバックする。
「どうしてお兄だったんですか。」
「どうして、お兄がこんな目に遭わないといけないんですか。」
住吉は、ふっと目を伏せた。
田中の握る自転車のハンドルが、少しだけ強く握られていた。
翌日のことだった。
朝日がゆっくりと街を照らし始める中、田中はいつものように自転車を押しながら家を出た。
通学路の風景は変わらず、駅へ向かう人々の足取りもいつも通り。
そして、田中の足は自然と、いつもの神社へと向かっていた。
「……彼女ができますように。」
田中は、いつものように小さな賽銭を投げ入れた。
——チャリン。
硬貨が落ちる音が、境内に響く。
神社は相変わらずの寂れた様子だったが、それでも田中は何かを期待するように手を合わせた。
それを横目で眺めながら、住吉はふぅ、と息を吐く。
「いやぁ、キミも懲りないねぇ。」
もちろん、田中には住吉の声は届かない。
だが、住吉はまるで彼の後を追うように、いつものように自転車の荷台に乗った。
田中は何も知らずにペダルを漕ぎ出す。
「……いやぁ、キミは祈ってばかりだねぇ。」
住吉は、のんびりとした声で呟いた。
田中の自転車は、踏切へと差し掛かる。
カンカンカン——
遮断機が降り、踏切の向こうに、昨日と同じ場所にある花束が見えた。
田中は、ふっと自転車を止めると、昨日と同じようにそっと手を合わせた。
住吉は、それを静かに眺める。
「……」
田中は何も言わない。
ただ、昨日と同じように花に目をやり、静かに祈るだけ。
住吉は、そんな田中の横顔を見ながら、小さく笑った。
「ほんと、キミは祈ってばかりだねぇ。」
遮断機が揺れ、電車が轟音を立てて通り過ぎる。
朝の空気に、今日もまた、線香の香りがわずかに混じっていた。
二限目が終わった休み時間——
教室の中は、いつものようにざわついていた。
椅子を引く音、廊下を走る生徒たちの足音、誰かの笑い声。
友達同士で談笑しながら、次の授業までの束の間の時間を過ごしている。
しかし、田中は違った。
彼は、じっと窓の外を見つめていた。
「いやぁ、ボクは感心しないな。田中よ、いつにもなく不真面目じゃないか。」
住吉は、田中の肩越しに外を眺めながら、ぼやいた。
もちろん、田中にはその声は聞こえない。
「窓ばっか見てさ、ほら天神様もこっち睨んでるよ。」
黒板の端に立つ紅学天神は、腕を組みながら、今まさに数学の問題を解こうとしている生徒を睨みつけている。
彼の無言の圧に耐えられなくなったのか、生徒は慌てて問題の続きを解き始めた。
「いやぁ、あれはあれで大変そうだねぇ。」
住吉はのんびりとそんなことを呟きながら、再び田中に視線を戻した。
田中は、微動だにせず、窓の外を見ている。
その目の先——
校庭の渡り廊下を歩く少女の姿があった。
昨日、踏切で出会った少女。
田中の目が、わずかに見開かれる。
その瞬間——
「おい田中、お前さぁ、昨日さ——」
友達が話しかけてきたが——
田中は、それを無視した。
バンッ
ガラッと席を立つ。
「……え?」
友達は、驚いたように田中を見つめる。
「おい田中……なんだあいつ?」
田中は、一言も発さず、廊下へと向かう。
住吉は、そんな田中の背中を見ながら、肩をすくめた。
「やれやれ、田中ってば、いつもあぁなのかねぇ?」
もちろん、田中にはその言葉も届かない。
彼は、ただ無言で教室を飛び出し、少女の後を追っていた。
「なぁ、待ってくれよ!」
田中の声が、渡り廊下に響いた。
少女が足を止め、ゆっくりと振り返る。
「……はい?」
田中は、息を切らしながら、少女の前に立つ。
いや、なんて言うのかな。
落ち込んでいるとこ、言うべきじゃないんだけどさ。
どう言葉にすればいいのか、わからない。
「いや……その……」
田中は、焦ったように言葉を探す。
住吉もまた、ぜぇぜぇと息を切らせていた。
「いやぁ、ボクも走ったら疲れるんだよぉ……」
もちろん、田中にはその声は聞こえない。
彼はまだ、自分の中で気持ちを整理できずにいた。
焦燥と、迷いと、何か言いたいのに言葉が出てこないもどかしさ。
だから——
住吉は、そっと田中の耳元で囁いた。
「落ち着いてね、落ち着くんだよ!」
田中は、一度深く息を吸い込む。
そして、ゆっくりと目の前の少女を見つめた。
「なんか……後味が悪くなるっていうか……」
少女は、じっと田中を見つめている。
「そのまま手を合わせているだけだと……俺の気がすまないというか……」
言葉にするのが難しい。
でも、このまま放っておくのは、どうにも納得がいかない。
田中は、一度視線を落として、それからまた顔を上げた。
「踏切の花束……撤去される前にさ。」
「……?」
「飾りたい場所があるんだ。」
少女は、一瞬、戸惑ったようにまばたきをした。
住吉は、その様子を見ながら、静かに彼女の表情を伺っていた。
少女は、少し答えに詰まりながら、田中をじっと見つめた。
彼の言葉の意図を測りかねているのか、それとも単純に驚いているのか——少しの間、無言が続く。
やがて、少女はゆっくりと口を開いた。
「……放課後に、時間ありますか?」
田中は、即答した。
「もちろん……!!」
彼の声は、思った以上に力がこもっていた。
少女は、そんな田中の反応に少しだけ驚いたようだったが、すぐに小さく頷いた。
「……じゃあ。」
そう言って、彼女はくるりと背を向け、再び歩き出した。
田中は、それを見送ったまま、深く息を吐く。
住吉は、その様子を静かに眺めながら、ふっと口元を緩めた。
「……さて、田中は何をするのだろうかねぇ?」
彼自身も、まだはっきりとはわかっていなかった。
でも、一つだけ言えることは——
田中は、もうただ手を合わせて終わるつもりはないということだった。
田中は校門の前で、落ち着かない様子で足を揺らしていた。
秋の夕暮れが空を橙に染め、影が長く伸びる。
やがて、少女がゆっくりと歩いてきた。
「……待たせちゃいましたか?」
「いや、全然。俺も今来たとこ。」
ぎこちなく答えると、少女は一瞬迷ったような顔をしたが、やがて静かに頷いた。
「……行きましょうか。」
田中も頷き、二人は並んで踏切へと向かった。
踏切のそばには、昨日と同じように花束が供えられていた。
まだ新しいものもあれば、少しずつ萎れ始めた花も混じっている。
田中と少女は、無言で手を合わせた。
遮断機の音が響く中、線香の香りがほんの微かに鼻をかすめる。
ふと、田中が目を開ける。
「……花ってさ、こうやって置いても、いずれ撤去されちゃうんだよな。」
少女は、田中の言葉に静かに頷いた。
「……うん。」
「誰かが手を合わせてくれるうちはいいけど……そのうち、こうやって置かれたことすら忘れられて、片付けられるんだ。」
田中は、供えられた花をじっと見つめながら続ける。
「そう思うとさ、なんか悲しいんだよな。」
少女は、その言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
田中は、自転車のカゴに手をかけ、花束を一つずつ詰めていく。
それを見て、少女もそっと手を伸ばした。
「……全部、持っていくんですか?」
「入るだけ、な。」
田中は慎重に花を整えながら言う。
「ここに残しておくのもいいんだけどさ。どうせ撤去されるなら、ちゃんとした場所に飾ってあげたいと思って。」
「ちゃんとした場所……?」
「住吉神社。」
少女は、意外そうに目を瞬かせた。
「住吉神社……?」
「うん。あそこなら、ずっと残ると思うし、誰かが手を合わせるかもしれない。」
田中は、花を積み終えると、自転車のハンドルを握り直す。
「それに、神様がいるならさ……あの人を見守ってくれるかもしれないし。」
少女は、それを聞いて何かを考えるように視線を落とした。
そして、静かに頷く。
「……うん、そうですね。」
田中は、軽くペダルを踏みながら言う。
「じゃあ、行こうか。」
少女は、一瞬迷ったような顔をしたが、すぐに田中の横を歩き出した。
境内は、夕暮れに染まり、金色の光が柔らかく差し込んでいた。
田中は、自転車のカゴから慎重に花束を取り出し、一輪ずつ並べていく。
「……ここなら、ずっと残るかな。」
「……そうだといいですね。」
少女もまた、そっと花を整えながら呟いた。
住吉は、その様子を少し離れた場所からじっと眺めていた。
「いやぁ、こんなことするとはねぇ……」
彼の視線の先で、田中と少女は最後の一輪を並べ終え、並んで手を合わせた。
風が境内を吹き抜ける。
住吉は、そんな二人の姿を見ながら、小さく笑う。
「いやぁ、神社も、少しは華やかになるかねぇ。」
手を合わせる二人の影が、夕暮れの中で静かに揺れていた。
田中と少女は、供えた花の前に立っていた。
秋の夕暮れが境内を染め、風が静かに木々を揺らす。
少女はふとポケットに手を入れ、何かを取り出した。
田中は、その動きを見て目を向ける。
彼女の手のひらに乗っていたのは、小さなお守りだった。
紺色の布地に、金糸で「交通安全」と刺繍された、どこにでもあるようなもの。
しかし、それは擦り切れ、色褪せ、長い時間を誰かと共に過ごしてきたことを物語っていた。
「……お兄が、ずっと持ってたお守りです。」
少女は、小さく微笑んだ。
「私が、小学生の時に買ってあげたんです。お兄が高校に入ったときに。」
田中は、それをじっと見つめた。
「事故の後も、ずっと私が持ってたんです。でも……」
少女の指が、お守りの端を優しくなぞる。
「ここに、置いてもいいですか?」
田中は、一瞬驚いたように彼女を見た。
「……いいのか?」
少女は、お守りをそっと両手で包み込みながら、小さく頷いた。
「ずっと持っていたけど、私だけが持っているよりも、ここに置いたほうが、お兄も寂しくないかなって。」
田中は少し考え、それから静かに頷いた。
「……そうだな。」
少女は、花束の間にそっとお守りを置いた。
まるで、そこが最初からその場所だったかのように、静かに収まる。
「お兄が、ちゃんと帰れるように。」
田中は、その言葉を聞きながら、もう一度手を合わせた。
住吉は、その様子をじっと見つめていた。
「……なるほどねぇ。」
少女の手から離れた小さなお守り。
それは、ただの布切れではない。
そこには、確かに“想い”が込められていた。
田中は、ゆっくりと息を吐き、もう一度目を閉じた。
住吉は、その姿を見ながら、そっと目を細めた。
「さてと……」
境内の花の前で手を合わせたまま、ふと彼女に目を向けた。
「……何を願ったんだ?」
彼女は、手を合わせたまま、静かに答えた。
「お兄が……生き返りますように。」
田中は、思わず眉をひそめる。
「……それは、無理だろ。」
少女は、ゆっくりと目を開けた。
「……わかってます。」
彼女の声は、どこか静かで、どこか儚かった。
田中は、その横顔をじっと見つめる。
「……じゃあ、なんで?」
少女は、田中を見上げて、小さく微笑んだ。
「だから……生まれ変わって、また会えますようにって。」
田中は、彼女の言葉を聞いて、何も言えなかった。
ただ、じっとその瞳を見つめる。
「お兄が……またどこかで、生まれ変わって、ちゃんと幸せになれるように。」
少女は、そっと花の間にお守りを押し込むように置いた。
「今度こそ、もっと優しい世界で……もっと、長く生きられるように。」
田中は、彼女の言葉を聞きながら、ゆっくりと手を合わせた。
住吉は、その様子を少し離れた場所からじっと見つめていた。
「……なるほどねぇ。」
夕暮れの風が、境内を静かに撫でていく。
住吉は、目を細めながら、そっと呟いた。
「生まれ変わり、か……」
住吉は、そっと花束を抱えた。
ボクは神様、例え神通力がなくても、奇跡は起こせる。
……桜というのは不思議なものでございます。
春になれば咲き誇り、風が吹けば散っていく。
ですが、散った花は無駄になるのかと言えば、そうではありません。
土に還り、養分となり、また次の年、新たな花を咲かせるのでございます。
「散る桜 残る桜も 散る桜」
——良寛様の一句ですが、人もまた、いずれは散る身。
されど、散ることは終わりではございません。
——そう、桜は散っても、また咲く。
さて、ここに一人の神様、住吉命。
供えられた花束をそっと手に取り、ふと鳥居を見上げました。
「いやぁ、高いねぇ。」
そう言いながら、軽々と鳥居によじ登る。
神様とはいえ、いつものだらけた様子からは想像もつかぬ身のこなし。
鳥居の上に腰を下ろし、供えられた花束の花びらを、一枚、また一枚と摘んでいく。
ひらり、ひらり——
風が吹き、境内を抜け、
石段を降りる二人の頭上へと、花びらが舞い降りる。
まるで、見送るように。
まるで、祝福するように。
ひとひら、ふたひら、頬を撫でるように。
髪に触れ、肩に落ち、足元に積もる。
田中はふと足を止め、
少女もまた、そっと顔を上げた。
「……え?」
田中の声には、困惑が滲んでいた。
こんな場所に花が咲いていたわけでもない。
それなのに、目の前には、まるで桜吹雪のような花びらが降り注いでいた。
「……なんで、こんな……」
ひとひらの花びらが、少女の手のひらに落ちる。
彼女は、その花びらをじっと見つめた。
そして——
「……お兄……っ」
堰を切ったように、膝をつき、泣き崩れる。
「っ……お兄……」
声にならない嗚咽が、静かな境内に響いた。
田中は、そんな彼女をどうすることもできずに、ただその場に立ち尽くす。
「……いやぁ、綺麗だねぇ。」
鳥居の上で、住吉はそんなことを呟きながら、なおも花びらを摘み続ける。
「さぁて、これは奇跡なのか、ただの風なのか——」
それは、見た者にしかわからないことでございます。
鳥居の上の神様は、ただただ微笑み、ゆっくりと目を細める。
「散る桜が、また咲くように。」
「消えたものが、また巡り来るように。」
「想いは、必ず、残るものなのさ。」
風が吹くたびに、花びらは舞い上がる。
まるで、誰かが「また会おう」と優しく囁いているように——
さぁ、これが奇跡か、そうではないのか。
それは、信じるかどうかでございますな。
ただ、ひとつ言えることは——
「この願い、どうか、巡り巡って、また花開きますように。」
——なんてねぇ。
お後がよろしいようで。




