12話 気になる女生徒
さて、住吉命が引いたお願い事は、兄を生き返らせる無理難題。
いやぁ、これはまた、とんでもない試練が降ってきたものでございますなぁ。
神様といえど、できることとできないことがある。
「安産の神様」が、いきなり「死者の復活」を求められるなんて、まるで寿司屋に行って焼肉を頼むような話でございます。
しかし、そこは神様の性。
願われてしまったからには、どうにかして応えなければならない。
さて、住吉命がどうしたかというと——
駅前で、人々に声をかけて回る。
涙ぐましい努力でございます。
無理難題を叶えるには、まずは小さなお願いの積み重ね。
考えてみれば、どんな大きなことも、小さな一歩から始まるものです。
たとえば、大工が大きな神社を建てる時も、「まずは土台から」。
田んぼの米が豊作になるのも、「まずは一粒の苗から」。
大きなお願いを叶えるには、まずは目の前の一つの願いを叶えていくことが肝心なのです。
……が、ここで問題が一つ。
住吉命の神社、そもそも人が来ない。
「さて、どうしたもんかねぇ」と考えた結果、彼が取った行動は——
道行く人に片っ端から「なんか悩みないですかぁ?」と声をかけて回ること。
いやぁ、神様がそんなことして大丈夫なのか、と心配になりますが、本人はいたって真剣。
しかし、人の悩みというのも様々でございます。
「今日の晩ご飯、何にしようかなぁ」
「仕事がつらい」
「肩こりがひどい」
いやはや、信仰を集めるのも楽じゃありませんな。
さて、住吉命、この涙ぐましい努力で、本当に願いを叶えることができるのか?
そして、兄を生き返らせるという無茶なお願いに、どう向き合うのか?。
「……いやぁ、ダメだねぇ。」
住吉は、駅前のベンチで頭を抱えながら、ぼやいた。
さっきまでやっていた「道行く人の願いを叶える活動」は、まぁそこそこ成功していた。
「肩こりがひどい? じゃあボクが揉んであげるよぉ。」
「晩飯に悩んでる? だったら耳元で『お雑煮!!』って叫んでおこうかねぇ。」
「仕事がきつい? じゃあ後ろからドンと背中を押して、よし、頑張れってねぇ。」
——その結果、
「……あれ? もしかして神様のおかげかねぇ?」
なんて言ってもらえることはあったけど、それで信仰が集まるかって言ったら、まぁ微妙なところだ。
せいぜい「ありがとう」くらいで、信仰心が湧いてくるほどの影響力はない。
「そりゃそうだよねぇ……ボクは専門外だからねぇ……」
そもそも安産の神様が、肩こりをほぐしてどうするんだって話だ。
住吉は、ため息をついてベンチにもたれかかり、駅前の人の流れをぼんやりと眺めた。
すると、目の前を学生たちが通り過ぎていく。
制服を着た少年少女たちが、楽しげに会話しながら、駅の改札へと消えていく。
「……」
住吉は、じっと彼らの背中を見つめた。
——学校。
「……あぁ。」
そこで、ようやく気づいた。
「学校かぁ……」
田中の通う高校。
「あそこなら、人が集まるし……願い事なんて、掃いて捨てるほどあるはずだよねぇ。」
部活の試合の勝敗、成績、恋愛、友達付き合い、進路——。
学校というのは、願い事の宝庫みたいな場所じゃないかねぇ?
「……いやぁ、気づくのが遅かったねぇ。」
住吉は、がっくりと肩を落とした。
ついこの前まで、小銭を集めていたと思ったら、今度は小さな信仰集め。
「……どうなってんだ、ボクの神様人生は……」
住吉は、頭を掻きながら、立ち上がる。
目指すは田中の高校。
今度は、そこで”神様らしいこと”をやるしかない。
そう考えながら、住吉は雑踏の中へと歩き出した。
住吉は、学校の廊下をふらふらと歩きながら、気の向くままに生徒たちの会話を聞き流していた。
「いやぁ、やっぱりボク、場違いなんじゃないかねぇ……?」
安産の神様が学校に来たところで、果たして信仰が集まるのか。
そんな疑問を抱きながらも、彼は足を止めずに生徒たちの雑談を耳に傾けていた。
「はぁ〜……マラソンとかマジだるい……」
「ねぇ、なんかないかな?」
「いやぁ、明日のマラソン雨にならないかなぁ?」
住吉は、目を細めた。
「うーん……それはボクの管轄外だよぉ……」
そう呟きながら、次の会話に耳を傾ける。
「うーん……どうしよっかなぁ……」
「なんかあった?」
「いやぁ、先輩にLINE送ったんだけどさぁ、既読がつかないんだよねぇ……」
住吉は、目を伏せた。
「それはボクがどうこうできる話じゃないよぉ……とりあえず誤送信と」
「あ!間違えた……あ、既読ついた!!」
次。
「おっしゃ!! 今日の練習、気合い入れてくぞ!」
「なんか目標とかある?」
「いやぁ、明日の試合でホームラン打ちたいなぁ……」
住吉は、ぼんやりとその会話を聞きながら、グラウンドの方へ視線を向けた。
「おぉ! それはいいねぇ! ボクも応援しておくよぉ!」
「お、なんか急にやる気出てきた!!」
バシーン!!
——空振り。
「いやぁ、まぁそういうこともあるよねぇ……」
住吉は、苦笑しながらまた歩き出した。
そして——
階段を上がり、校舎の奥へ進んだ先。
ふと、窓際のベンチに、ひとりの女子生徒が座っているのが目に入った。
彼女は、手のひらの中に何かを握りしめ、じっと俯いていた。
「……」
さっきまで聞いていた生徒たちの願いとは、何かが違う気がする。
住吉は、自然と彼女の方へ歩み寄った。
「悩み事かなぁ?」
住吉は、窓際のベンチに座る女子生徒の横に立ち、ぽつりと呟いた。
しかし、彼女は何も言わない。
周囲の喧騒とは切り離されたように、ただ静かに俯いたまま、手のひらの中に何かを握りしめている。
住吉はしばらく様子を伺っていたが、彼女の沈黙は続いた。
「……」
妙に、静かだ。
まるで、この空間だけ時間が止まってしまったかのような——そんな不気味さすら感じる。
こんなに近くに立っているのに、彼女は一切気にする様子もない。
まるで、住吉の存在を完全に無視しているかのようだった。
「……いやぁ、ここまで何も言われないと、逆に怖いんだけどねぇ……?」
住吉は、軽く笑ってみせたが、それでも反応はない。
「うーん……まぁ、無理に聞き出すものでもないのかねぇ……?」
そう思いながらも、住吉はもう一度だけ声をかける。
「何か、願い事でもあるんじゃないかねぇ?」
すると——
「……お兄。」
突然、彼女はぽつりと呟いた。
住吉は、一瞬言葉の意味を理解できなかった。
「……え?」
しかし、彼女はそれ以上は何も言わず、住吉に目を向けることもなく、立ち上がるとその場を去っていった。
住吉は、その小さな背中が廊下の向こうへ消えていくのを、ただじっと見つめていた。
「……お兄、ねぇ……?」
何か、胸の奥に引っかかるものを感じながら、住吉はふと彼女が座っていたベンチに目を向けた。
そこには、何もなかった。
ただの古びた木のベンチ。
人の温もりも、形跡も、すっかり風に消されてしまったかのように。
なのに——なぜか、寂しさだけがそこに残されているように思えた。
住吉は、しばらくその場に立ち尽くし、ふぅと静かに息を吐く。
「……なんだか、妙に寒いねぇ。」
秋の風が、そっと境内を撫でていく。
昼過ぎの授業中——
教室は午後の眠気に包まれ、黒板に書かれる数字の羅列を、ぼんやりと眺める生徒がほとんどだった。
先生は淡々と授業を進め、ノートを取る音だけが静かに響いている。
そんな静寂の中——
「いやはや田中よ、ボクはね。結構頑張ってんだよ!」
突然の独り言が教室の片隅で響いた。
誰も気に留めない。
なぜなら、それは住吉の声だったからだ。
当然、田中にも聞こえていない。
「いやぁ、ボクだってねぇ、駅前だったり学校だったり!!」
誰に向けるでもなく、住吉は愚痴をこぼす。
「マラソンを雨にしてくれだの、先輩のLINEの既読をつけてくれだの、ホームランを打たせてくれだの!! いやぁ、もうねぇ、願い事が軽いのなんの!!」
田中は、ただ黙々と数学のノートを取り続けている。
当然だ。住吉の声なんて、彼には届いていないのだから。
「いやぁ、でもボクはねぇ、それでも健気にやってたわけだよぉ!! ちょっとは感謝してくれてもいいんじゃないかねぇ!?」
田中は、ペンをくるりと回しながら、黒板に書かれた証明問題をじっと見つめていた。
その黒板の端で、じっと生徒の答案を睨みつけている神様がいた。
紅学天神。
数学の神である彼は、腕を組みながら、ひたすら生徒のノートを監視していた。
そして、ある男子生徒の手が止まり、考え込んだその瞬間——。
「違かろうもん! 馬鹿!」
紅学天神が低く呟いた。
その途端、生徒は「あっ、間違えた!」と大慌てで式を書き直し始めた。
住吉は、その様子をぼんやりと見ながら、感心したように頷く。
「いやぁ、あれはあれで、ちゃんと仕事してるんだねぇ……」
そして、ふと、教室の後ろの窓際に目を向ける。
田中はそこに座り、半分眠そうにノートを開いていた。
住吉は、すっとその背後に立つ。
「……ボクはねぇ、今日は頑張ったんだよぉ。願い事を聞いて回ってねぇ。」
田中は、何も知らずにノートをめくる。
「でもねぇ、なんかちょっと気になる子を見かけたんだよねぇ。」
教室の中で、住吉の独り言だけが響いている。
「ボクが声をかけても、何も言わなかった。でも、最後に、ぽつりとね……」
住吉は、ぼんやりと天井を仰ぐ。
「『お兄』って、そう言ってたんだよねぇ……」
田中は何も知らずに、数学の問題を眺めていた。
住吉は、ふっと小さく笑う。
「いやぁ、これはちょっと、ちゃんと話を聞かないといけないかねぇ?」
授業の鐘が鳴るまで、彼の独り言は、誰にも届くことはなかった。
放課後——。
学校が終わり、田中はいつものように自転車を押しながら昇降口を出た。
夕方の柔らかい日差しが、校舎のガラス窓を淡く照らしている。
その後ろを、まるでストーカーのように付きまとう影がひとつ。
「いやぁ、ボクも今日はついて行こうかねぇ。」
田中には見えないし、聞こえない。
だが、住吉は当たり前のように田中の背中を追いかけ、当然のように自転車の荷台にぴょこんと腰を下ろした。
田中は何も知らず、自転車にまたがると、ペダルを漕ぎ出す。
——が。
「……なんか、今日はチャリが重いな?」
田中は、違和感に眉をひそめた。
当たり前だ。
住吉が後ろに乗ってんだから。
「いやぁ、そりゃ重いだろうねぇ。」
住吉は、涼しい顔で荷台に座りながら、足をぷらぷらと揺らしている。
田中は何も知らずに、無駄に力を込めながらペダルを踏み続ける。
道を進むにつれ、あたりは次第に夕暮れの色を濃くしていく。
田中の自転車は、のんびりと住宅街を抜け、やがて踏切近くの交差点へと差し掛かった。
カンカンカン——
遮断機の警告音が鳴る。
電車が通るまで、田中は一旦自転車を止めた。
その時——
ふと、視界の隅に、交差点の片隅にある花束が映った。
供えられた花。
「……あぁ。」
田中は、そっと自転車を降りると、荷台のカゴに手を置いたまま、静かに手を合わせた。
この近くで、誰かが亡くなったんだろう。
住吉も、それをじっと見つめる。
「……」
花束の周りには、風に飛ばされた線香の燃えかすや、小さな缶コーヒーが置かれている。
田中は、何も言わず、ただ数秒間、目を閉じた。
遮断機の音が響く中、その手向けは、ほんのわずかだったが、確かに心からのものだった。
——住吉は、それを見ながら、静かに瞳を細めた。
「……願い事、かねぇ。」
そんな独り言を落としながら、そっと田中の背後に降り立った。
踏切の警報音が鳴り響く中、田中は静かに手を合わせた。
交差点の片隅に供えられた花束。
色とりどりの花が、まだ瑞々しさを保ったまま、風に揺れている。
ふっと、線香の香りが鼻をかすめた。
燃え尽きた線香の灰が、地面に落ちている。
それは、ほんの数時間前まで誰かがここにいて、手を合わせていた証。
「……」
田中は、しばし視線を落とし、そこにある缶コーヒーや折り鶴を眺める。
小さな追悼の痕跡が、静かに佇んでいた。
ゴォォォォォン——!
遮断機が揺れ、電車が駆け抜けていく。
強い風が吹き抜け、田中の制服の裾がはためいた。
空気が一瞬、乱れる。
車両の影が一瞬、花束の上を過ぎる。
その時だけ、花が静かに揺れる。
まるで、風に撫でられたように——いや、誰かがそこにいるように。
そして——
電車が過ぎ去ると、世界がまた静けさを取り戻した。
田中は、そっと手を下ろし、再び自転車のハンドルを握る。
「よし、帰るか。」
そう言いながら、サドルにまたがろうとした、その時——
「あっ!!」
突然、後ろから小さな声が上がった。
それは、田中には届かない。
しかし、その声の主は——
住吉命だった。
彼は、電車の通り過ぎた先に立っていた一人の少女に気づいていた。
昼間、学校で出会った、あの女子生徒。
住吉は、思わず自転車の後部をぐっと引っ張る。
「……えっ!?」
田中がサドルに跨ろうとした瞬間——自転車がまったく動かなくなった。
「えっ、なんだ!? 壊れたのか!?」
田中は、慌ててペダルを踏むが、まるで何かに引っかかったようにびくともしない。
住吉は、まだじっと彼女を見つめていた。
「……これは、ちょっと話を聞かないといけないかねぇ。」
彼は、田中には見えないまま、そっと少女の方へと歩を進めた。
田中は、自転車のペダルを踏もうとしたまま、不意にかけられた声に驚いた。
「お兄さんに手を合わせてたんですか?」
すぐそばに、少女が立っていた。
昼間、学校で住吉が見かけたあの女子生徒。
制服のスカートが風に揺れ、彼女は田中をまっすぐに見つめていた。
「あ、あぁ……」
田中は、ややぎこちなく頷いた。
「うちの生徒か?」
そう尋ねながらも、彼女が自分より年下であることは、見た目からして明らかだった。
「……」
少女は答えず、ふと視線を落とした。
そして、小さな声で尋ねる。
「お兄さんのお友達ですか?」
「い、いや……」
田中は思わず言葉に詰まる。
「なんか、嫌だったか?」
少女は、少しだけ表情を曇らせた。
「……ううん、ただ、手を合わせてくれてたから……」
田中は、改めて花束を見つめた。
「……そっか。」
彼女の兄——きっとここで亡くなったのだろう。
住吉は、その会話をそっと聞いていた。
もちろん、田中も少女も彼の存在には気づかない。
「……お兄さんは、通勤中でした。」
少女は、淡々とした口調で語り始めた。
「朝、駅まで自転車で行って、それから電車に乗って……でも、その日はちょっと寝坊して……遅れそうだったから、焦ってたんです。」
住吉は、目を細めた。
「それで……踏切を渡ろうとして……」
少女の声が、かすかに震える。
「……トラックが無理に突っ込んできたんです。」
田中は、少女の視線の先を見る。
線路の向こう側。
「それで……兄は、貨物に押し潰されるようにして……亡くなりました。」
風が吹いた。
供えられた花束が、かすかに揺れる。
遮断機が静かに上がり、また街が日常の音を取り戻す。
住吉は、その場に立ったまま、少女の言葉を静かに噛み締めた。
「……そういうことかねぇ。」
兄を亡くした少女。
その願いは、きっと——。
住吉は、ただ、じっと彼女を見つめていた。




