11話 住吉、おまえさんちょっとは巻き込まれてみなさい
境内の空気が、張り詰める。
大鈴の目は鋭く、紫尾は冷ややかに睨み返す。
「下品な神だな。」
紫尾が、静かに、しかし確かに言い放った瞬間——
ビキッ
音が聞こえた気がした。
いや、それは気のせいではない。
大鈴のこめかみが、ピクリと跳ねたのだ。
彼女の笑みは消え、扇子がギリ、と音を立てて握りしめられる。
「……アンタ、それ、言い過ぎじゃない?」
ゆっくりと足を踏み出す。
肩が震えている。
「下品、ねぇ……ふぅん……ふぅん……!」
ギリッ
大鈴の足元に落ちていた五百円玉が、踏みしめられ、わずかに跳ねる。
「なら、言わせてもらうけど——」
「……あっ、これはマズいやつ……」
住吉は、ほんの一瞬で悟った。
このままでは、殴り合いが始まる。
間違いなく、始まる。
「お前の神社は、ただ古いだけのボロ神社じゃない!!」
大鈴の怒声が響くと、紫尾の目が細まり、拳が音を立てて握られた。
境内の神々が息を呑む。
今まさに、戦が始まろうとしている。
——その瞬間。
「わぁぁぁ待った待った待った!!」
住吉は、勢いよく飛び出し、とっさに大鈴の手を掴んでいた。
「はぁ!? 何よ、住吉!!」
「いやぁ、落ち着こうよぉ!! ねぇ!? いやぁ、ボクもびっくりしたよぉ!! なんか、こう、ねぇ!? ほら、みんな仲良くしようよぉ!!!」
「離しなさいよ!! こんなこと言われて黙ってられるわけないでしょ!!」
「いやぁ、離したらアンタ、絶対いくよねぇ!? いくでしょ!? いくよねぇ!??」
大鈴の腕をぐいっと引きながら、住吉は慌てて笑う。
境内の空気は、まだ冷え切ったまま。
紫尾は何も言わず、ただ静かに睨んでいる。
大鈴の派閥の神々も、紫尾派の神々も、全員が固唾を呑んで見守っている。
「あんたねぇ、下品な神様って言われて平気な奴がいるの?」
「そ、それはぁ!!」
そして、住吉は、焦りながらも、とっさに言葉を探し——
「あ、あってるよぉ!! アンタのとこの神社、ゴミだらけだろう!?」
言った瞬間。
「………………」
「………………」
大鈴の動きが、ピタリと止まった。
紫尾の目がわずかに見開かれる。
神々が、一斉に息を呑む。
——そして、住吉は、その場で固まった。
「……あっ、いや……」
言ってしまった。
言ってしまった。
やばいやばいやばいやばい。
しまったぁぁぁぁぁぁぁ!!!
慌てて口を押さえる住吉。
大鈴は、ゆっくりと住吉の方を振り向いた。
「……今、何つった?」
「いやぁ……その……えっとぉ……」
「……住吉?」
「……ご、ごめん、今のナシ!! 今のナシで!! いやぁ、ボクもちょっとテンパっちゃってねぇ!? あの、その、違うんだよぉ!!」
「ナシじゃないわよ!!!!」
「ひぃぃぃぃ!!!!」
境内に、住吉の情けない悲鳴が響き渡った。
そして、沈黙を破るように——
また、賽銭がジャラジャラとこぼれ落ちる音だけが響いた。
住吉は必死だった。
「いやぁ、違うんだよぉ!! ボク、そんなつもりで言ったわけじゃなくてねぇ!? その、ほら! 大鈴!! ボクは君の味方だよぉ!!」
「……どの口が言ってんのよ?」
大鈴の目がすぅっと細まり、扇子がギリッと鳴る。
やばい。やばい。やばい。
住吉は慌てて両手を振り、大鈴をフォローしようと必死に言葉を探した。
「ほら、紫尾もさぁ!? そんなエラそうに言ってるけど、あんたの神社も相当ボロいじゃないかねぇ!? いやぁ、格式はあるかもしれないけどさぁ、あれだよ!? あのぉ……ほら……!」
「…………」
「柱、めちゃくちゃ傾いてるしぃ!? 雨降ると拝殿の床、しっとりするしぃ!? そもそも灯籠の片方、崩れかけてるしぃ!? えっと、あと……あと……!!」
「……住吉?」
紫尾の低い声が響いた。
住吉は、ようやく自分が何を言ってしまったのかを理解した。
あ。
やってしまった。
「……あっ、いや……その、フォローのつもりだったんだけどねぇ……」
「ふぅん……」
紫尾の目がさらに鋭くなり、大鈴は一瞬きょとんとした顔をした後——
「あははははははははは!!!!」
腹を抱えて大笑いした。
「ちょっ……!! 何笑ってんのよ!!」
「いやぁ〜〜〜住吉ったら最高じゃない? ほらほら紫尾、神域の格式がどうとか言うけど、ボロ神社なのは間違いないわよねぇ〜〜?」
「……住吉。」
紫尾の声が、さらに冷たくなった。
住吉は、急に肌寒くなった気がした。
「お前、今の言葉……どう責任を取るつもりだ?」
「あっ、いやぁ、その……ボクはねぇ、ただ、そのぉ……」
「……なるほど、神社の柱が傾いていると?」
「……」
「拝殿の床がしっとりしていると?」
「……」
「灯籠が崩れかけていると?」
「……えぇと……?」
「よく見ているな? 住吉。」
「…………ごめんてぇぇぇぇ!!!!」
住吉は、両手を合わせてひたすらに謝った。
しかし、大鈴はそれを見てケタケタと笑い、紫尾は拳を握りしめたまま無言で住吉を睨みつけていた。
境内の空気は、再び張り詰めたまま動かない。
大鈴はケタケタと笑い続け、紫尾は住吉をじっと睨んでいる。
そしてその間に挟まれた住吉は、ただただ頭を抱えていた。
「いやぁ、違うんだよぉ……その、ボクはねぇ、ちょっとこう、場を和ませようと……」
「場を和ませる?」
紫尾が、冷たく問い返す。
「いやぁ、そういうつもりじゃなくてねぇ……あっ、いやいや!! 違う違う!!」
「……なるほどな。」
紫尾は静かに息を吐き、境内に視線を戻した。
そして、ゆっくりと住吉の方へ顔を向ける。
「ならば、お前も選抜に参加しろ。」
「…………は?」
一瞬、住吉の頭がついていかなかった。
いや、理解できないわけがない。
分かる、分かるんだけど——
「いやいやいやいやいや!!!!!!」
住吉は、声を裏返らせながら、思いっきり両手を振った。
「ちょっと待ってよぉ!? なんでボクまで選抜に参加しなきゃいけないのかねぇ!? いやぁ、これはおかしいよぉ!!!」
「おかしいか?」
紫尾が静かに言い返す。
「いやぁ、だってねぇ!? そもそもボク、伊勢に行くつもりないしぃ!? そもそも大鈴と紫尾の争いでしょ!? なんでボクが巻き込まれるのかねぇ!!」
「まぁまぁ?」
大鈴が、楽しげに笑いながら扇子をひらく。
「ここまで口を挟んだんだから、ちゃんとケジメつけなさいよ?」
「いやぁ、それはそれ、これはこれっていうかねぇ……?」
「おい、神々よ。」
紫尾が、境内を見渡して声を張る。
「ここで逃げるような者が、北薩摩の神を代表できると思うか?」
「思わぬな。」
「そうだな。」
「今更逃げるつもりか?」
「よもや、口だけの神ではあるまいな?」
住吉の周りに、いつの間にか神々がじわじわと集まってきていた。
「……あ、あれぇ……?」
気づけば、退路がない。
完全に、囲まれている。
住吉は、じりじりと後ずさるが、後ろにいたのは大鈴。
「ほらほら?」
ニヤリと笑う彼女の後ろには、さらに神々がびっしりと並んでいた。
「……こ、これは絶対おかしいよぉぉ!!! ボクはそんなに目立ちたいわけじゃないのにぃ!!!」
しかし、もはや逃げ場はない。
大鈴は笑い、紫尾は冷たく見下ろし、神々は住吉が逃げ出さぬよう周囲を固める。
「今年の選抜方法は——」
紫尾が、重々しく口を開く。
「最も難しい願いを叶えた者が、伊勢行き代表とする!」
境内が、一瞬静まり返る。
そして、住吉は、ゆっくりと目を瞬かせた。
「……えっ、ちょっと待って、それってつまり……?」
「言っただろう。信仰は賽銭の多寡では決まらぬ。」
紫尾は、真っ直ぐ住吉を見据えた。
「本当に人の願いを叶えた神こそ、伊勢に行くべきだ。」
「そういうこと。」
大鈴が、扇子をゆるりと振りながら続ける。
「まぁ、これなら紫尾も文句言えないでしょ? うちの神社には、めちゃくちゃお願い事が集まってるんだから!」
「いやぁ……なんでそんな面倒なことにぃ……」
住吉は、ため息をついた。
これ、完全にボクが不利なルールじゃないかねぇ!?
神々、それぞれの願いを選ぶ
「さて。」
紫尾が、静かに口を開いた。
「私は、神前式を成功させることこそ、神としての務めだと考える。」
「私は、商売繁盛を願う人間を、さらに儲けさせるわ!」
大鈴が笑う。
そして、住吉は——
「えっとぉ……ボクの神社、お願い事自体少ないんだけど……元気な赤ちゃんが産まれますように?」
「あぁ?」
大鈴が、わざとらしく眉をひそめる。
「それじゃあ面白くないわねぇ?」
「では、こうしよう。」
紫尾が、冷ややかに言う。
「住吉には、人間が絶対叶わないと諦めている願いを選んでもらおう。」
「……えぇぇ!? それ、絶対負けるじゃないかねぇ!!!」
「弱き神にこそ、強き願いを。」
紫尾は静かに言い、周囲の神々もざわめく。
「まぁ、ダメ元の願いを叶えられたら、認めてあげてもいいわよ?」
大鈴は、どこか余裕の笑みを浮かべる。
「いやぁ、完全に罠だよぉ……」
住吉は、頭を抱えた。
「ほら、クジ用意したから引け」
——そして、住吉が引き当てた願いは。
「死んだお兄さんを生き返らせてください」
「…………」
「…………」
「…………」
紫尾も、大鈴も、そればかりか両陣営の神は一瞬黙る。
境内にいた神々が、一斉に硬直した。
「……それ、無理じゃない?」
「いやいやいやいや!! そんなの叶うわけないよぉぉ!!!」
住吉は、頭を抱えて天を仰ぐ。
「なんでボクだけこんな無理ゲーな願いを引くのかねぇ!!??」
「まぁ、これを叶えられたら、間違いなく勝ちだな。」
「待って待って待って!! そもそもボクは安産の神なんだよぉ!? 生き返りなんて絶対無理だよぉぉぉ!!!」
「まぁ、やってみなさいな?」
大鈴が楽しげに微笑む。
紫尾は、腕を組んで静かに言う。
「……神とは、祈られるものだ。叶えるか否かは、貴様次第だ。」
住吉は、顔を引きつらせた。
「無理無理無理無理!!!!!!!」
そして、境内には、住吉の悲鳴だけが響き渡ったのだった——。
さぁさぁ、死に戻りというのをご存知でしょうか。
生き返る——そう聞くと、皆さまはどんなことを思い浮かべるでしょうな。
神仏の奇跡か、それとも昔話か。
昔の人は、よくこう言いました。
「人の運命は、まるで川の流れのようなもの」
つまり、一度流れ出したものは、そう簡単には戻ってこないということです。
ですが、人というものは欲深いもので、「流れてしまったものをもう一度手元に引き寄せたい」と願ってしまうんですなぁ。
これは何も、死んだ人間に限った話ではありません。
「若い頃に戻りたい」
「過ぎた青春を取り戻したい」
「後悔したあの瞬間をやり直したい」
そう願ったことが、一度もないという人は、まぁいないでしょうな。
ですが、世の中というのは不思議なもので、過去を取り戻そうとすると、たいていろくなことになりません。
たとえば、畑に蒔いた種。
「もっと早く芽を出させたい」と思って、無理に引っ張ったら、根ごと抜けてしまう。
「早く実をつけさせたい」と言って、水をやりすぎたら、かえって枯れてしまう。
要するに、時というものは、無理に引き戻せるものではないんですなぁ。
——さて、ここで問題なのが、住吉命でございます。
彼のもとに舞い込んだ願いが、「死んだお兄さんを生き返らせてください」。
おやおや、これはまた、大変な注文でございます。
願いというものは、本来「先を望む」もの。
「商売繁盛」も、「良縁祈願」も、「家内安全」も、みんな未来を願うものですが……
これは「過去を取り戻す願い」ですな。
はてさて、住吉命は、このどうにもならない願いを、どうやって叶えるのか?
この神様の行く末や、いかに。
まぁ、こればっかりは、続きを聞いてのお楽しみでございます。




