50. 侍女は懸念する
「……ええ。此方も把握したわ。それにしても貴方が後れを取るとは……そう、現状は待機よ。学園の護衛に関してはあちらに連絡して協力体制を整えるわ。……お願いね」
プツンと通信が切断される。魔術具である通信機は、決まった機器同士でしか通信出来ないという制約があるものの、迅速な伝達手段として重宝されている代物だ。しかしその数は少なく、持つ者もまた少ない。そんな物が優先的に配備されているのが【黒蝶】であり、総司令を下す存在と連絡出来る存在は現時点で三人だけだ。
「それでヨルちゃんは無事?」
「はい。無事撤退し、負傷は無し。そして報告によれば鋼鉄の鎧を纏う暫定:魔物は複数体存在しているものかと」
「そう……」
部屋の主たる女性が憂いを帯びた表情を浮かべ、椅子に深く腰掛ける。その様子を見て受け答えを行っていた侍女が、手早くお茶を準備して目の前のテーブルへと置いた。
「ありがとう」
「いえ。……しかし本当によろしいので?」
侍女が心配しているのは、近く執り行われる学園の学年行事の事だ。
魔物の生息域の変化。そしてその原因と思われる未確認の魔物と、【黒蝶】の精鋭であるヨルがその魔物相手に撤退を余儀なくされた事。普通に考えて、今学園の学年行事を行うべきでは無い。…だが、それでも女性の考えは変わらなかった。
「今露骨に中止すれば、相手の尻尾を掴む事は難しくなる。その為に態々あちらとまで協力する事にしたのよ」
「…【黒鳥】、ですか」
ヨルが所属する【黒蝶】とは別の主を持つ裏の組織、【黒鳥】。仲が悪い訳では無いが、好き好んで関わる相手でもなかった。だが事態は予想以上に深刻であり、迅速な対応が求められると判明した今、使えるものは使わなければ対応出来そうにはなかった。
「ヨルが接触したメルヒ殿からの報告と提案はこちらにも届いてはおりますが…」
「心配?」
「……畑が違う、と申しましょうか。我々【黒蝶】は元々専属隠密護衛ですので、基本的に護衛対象は一人です。学生全体となると中々…」
個人に個人で対応する【黒蝶】
集団に集団で対応する【黒鳥】
その二つの組織は似て非なるものだ。それ故に勝手も異なる。しかしそれぞれがそれぞれのやり方で対処するのならば、協力の意味が無い。
「内部の護衛としてはヨルがおりますが、彼女は」
「命令された事以外には対応しない。そうよね?」
「……はい。ですので万が一何か不測の事態が起こった場合、ヨルはカーナモン家の御息女の護衛から外れることはありません」
「それがあの子らしいのだけれど……まぁ言っても詮無きことよ。…それに、わたくしもその事は了承済みですもの」
ヨルのその異様とも呼べる“命令”に固執する性格は、既に認知されて了承済みである。でなければヨルが未だに【黒蝶】に居る事は不可能だった。
「動かせる子達は?」
「第三番隊と、第五番隊です」
「狙撃部隊、ね……でも第三番隊は今隊長が不在でしょう?」
「副隊長がおります。必要であれば呼び戻しますが」
「いいえ。あそこも重要な防衛拠点ですもの。下手に戦力を動かしたくは無いわ」
「かしこまりました。第八番隊も動かす事は可能ですが…」
「あの子達では戦力に難があるから、今回は後方待機にしましょう」
第八番隊は主に情報収集を行う諜報部隊だ。戦う力は、そこまで高くない。
「基本は裏の護衛に徹底して。ヨルちゃんには最大の援助をお願いね」
「かしこまりました」
◆ ◆ ◆
「ゲホッ! ゴホッゴホッ! …は、ぁ…はぁ……」
壁に寄りかかり、ズルズルと床に座り込む。息は絶え絶えで、瞳は揺らぎ焦点が定まらない。
「ま、だ……もう、少しだけ…」
服の上から胸の真ん中辺りを掴み、不規則に波打つ心臓を押さえ付ける。
間延びした呼吸音が薄暗い小さな部屋に響き、ふと視界に入った窓からは明るみ出した空が窺えた。
「準備…」
時間的には今から始めねば間に合わない。
未だ重い身体を無理矢理動かし、テーブルを支えにして何とか立ち上がる。するとコトリとテーブル上に置かれた銀色の髪飾りが揺れて、優しく光を反射した。その美しい姿に、ヨルが目を細める。
「ふふ…これに誓って、この様な無様な醜態を晒す訳にはいきません、ね」
二回ほど深呼吸を繰り返して呼吸を整え、髪飾りに手を伸ばす。自らの主に贈られた品は、この部屋で何よりも輝いて見えた。
一度髪を解いて水で洗う。どのような状況であれ、不清潔な状態で主の前に姿を現すなどあってはならない。
ギュッと水気を絞り、タオルで残りの水分を拭き取る。若干の土汚れが付いた侍女服は新しいものに変え、歯を磨き顔を洗って気持ちを切り替える。
新調した髪紐で髪を結わえ、髪飾りで横髪を留める。鏡を見て最終確認をすれば、少し顔色の悪さが目に付いた。
「……気付かれますね」
我が主は意外と目敏いという事を知っているヨルは、確実に見抜かれるであろうと直感していた。
そこで部屋の引き出しから何種かの化粧品を取り出して、不自然にならない程度に整える。
「よしっ」
パチンッとファンデーションの蓋を閉じ、次に時計を取り出した。その針が指し示す時刻は、六時前。何とか朝の業務開始時刻に間に合った事に安堵しつつ、腕を回して身体の調子を再確認する。
「…本調子とは言い難いですが、支障は無さそうですね」
そう結論付け、ヨルは一先ず朝食の準備をする為にキッチンへと歩みを進めた。
ヨルの“初めて”の宝物




