43. 化物侍女は忍び込む
宵闇に溶ける小柄な影は、屋根を伝いひた走る。向かうべくは紙切れに記されたガーデルセンなる伯爵家。
(…誰でしたっけ)
基本的に“仕事”の内容はその時々に聞くヨルなので、今回の場所こそ把握はしているものの、ガーデルセンという人物が何者なのか。そしてそこで自分達は何をするのかを理解してはいなかった。
だが、組織とはそういうものだという漠然とした理解はある。逐一報告などしていては、漏洩の危険が高まるのだから、それは正しい行為だ。
巡回する衛兵に見つかぬよう進む事暫く。ヨルは人気のない裏路地へと足を滑らせた。
トンッと軽く降り立てば、直ぐに二つの小さな足音がヨルへと近付く。
「時間通り。流石だな」
「おひさー、ヨルちゃん」
ヨルと同じく黒い外套を見に纏った二人が声を掛ける。声色からして二人とも女だろう。
目の前に立つ二人に視線を向けて、ヨルが口を開く。
「お久しぶりです、カル様。レーベル様」
「相変わらず様付けー…まぁいいや。地図は役に立った?」
「あれはレーベル様によるものでしたか。ありがとうございました、無事に辿り着く事が出来ました」
ヨルが昼間に渡された、冒険者ギルドまでの道標が書かれた紙。それを用意して渡したのは、レーベルだった。
ヨルは“仲間”が用意したということは分かったが、誰かまでは特定出来なかったので、納得という表情を浮かべた。
「ヨル。今回の内容だが…ガーデルセン伯爵家には横領の疑いが掛けられている。杞憂ならばそれで良いが、それが事実だったのならば国の名の元に裁かねばならん」
「実際裁くのは“影”だけどねぇー。やれやれ、【黒蝶】も暇じゃないよ全く」
【黒蝶】。それは彼女らが所属する組織の名称だ。
レコルト皇国の影に潜み、その膿を絞り出す為の存在。この世に存在しない者のみで構成されたその組織の全容を知る者は数少ない。
「ヨルちゃんはいつも通り猫で浸入ね。騒ぎは絶対起こさない事。分かった?」
「承知致しました」
「露顕しても殺すな。薬を飲ませ記憶を飛ばす。持っているな?」
「はい」
「では行動開始だ」
その言葉を最後に二人の姿は掻き消える。彼女らは密偵として動くことの多い存在で、魔術により気配を希薄化させる事に長けている。
その点ヨルは魔術を扱えないが、持ち前の身体能力で気配を同等程度まで希薄化出来る上、猫に姿を変える事が出来るのでこの様に裏を探る場合は重宝されている。
二人を追いかけるようにしてヨルが姿を変化させ、闇に溶ける。黒毛に覆われたヨルの身体は、光のない夜道ではまず視認出来ない。
(あれですね)
目的の伯爵家を視界に収め、さてどう忍び込むかと思案する。猫である為正面から行っても問題はまず無いであろうが、“見られる”という事が問題になる。
ヨルの瞳は左右でその色が異なる。猫には比較的多い特徴ではあるが、印象に残りやすいのは確かだ。
正面の門には門番が二人立っており、侵入するのは厳しそうだという印象をヨルは持った。ならばと爪を仕舞い足音を消して門から離れ人目の無い外壁の側へと近付く。
外壁の高さとしては四メートルはゆうにあるだろうか。足を引っ掛けて登れるような突起も無く、大の大人でも登る事は困難だろう。
───だがそれは人に限った話だ。
ヨルが外壁から少し身体を離すと、ググッと身を縮ませる。そしてその力を一気に上方へと解放すれば、いとも簡単に外壁の上へと降り立った。
……まぁ人形態のヨルでもここまで飛ぶ事が出来るというのは全くの余談である。
高さに重きを置いているのか警戒用の魔術具の類いは見当たらず、するりと伯爵家の中庭へと潜入する。
(今頃上から入っているでしょうか)
先に姿を消した二人の事を思う。彼女達もこの程度の外壁をよじ登る事は容易だ。
……そう、よじ登るだ。ひとっ飛びで越えられるヨルがおかしいのである。
気配の希薄化を得意とする彼女達は、今頃上から屋敷の中へと侵入していることだろうとヨルは思う。
人は地面に接する一階には気を張るが、二階、三階といった常人ならば近付く事が難しい高さにある場所では警戒が緩む事が多い。それ故に無断で忍び込むには上からが最も簡単なのだ。
中庭の生垣をスイスイと抜けて、耳を立てながら屋敷へと近付くヨル。このままヨルも壁を登って屋敷に侵入するのは簡単だが、それでは別行動した意味が無い。
(!!)
ここでヨルの耳が捉えたのは、複数人の足音。恐らく見回りの兵士だと思い、ヨルが近くの草木に身を隠す。すると少ししてその足音の主が姿を現した。槍を手にした男二人組だ。その身はフルプレートで覆われている。
「ふわぁー…ねみぃー…」
「そんな事言うなよ。こっちまで眠くなる」
「だってよぉー…必要ねぇだろ、こんな真夜中まで見回りなんてさ」
「命令だから仕方ないだろ。給料分は働かねぇとなぁ」
「はぁー…もしかして疚しい事とかあんじゃねぇの?」
「ばっかおめー…誰かに聞かれてたらどうする」
「誰も居ねぇよ気にすんな」
「だが」
「だってよぉ、おかしいだろ。伯爵家サマってそこまで金あるのか? 俺ら以外にも結構な数雇ってるだろ」
「それは…人によるだろ。ほら行くぞ、正門の交代の時間だ」
「へいへーい」
(…………)
黒猫に話を丸々聞かれていたとは露知らず、男達がヨルの目の前を過ぎ去っていく。その後ろ姿を見つめつつ、先程の会話をヨルが思い起こしてみる。
(口ぶりからしてかなり金払いは良いようですね…ガーデルセン伯爵家がどのような役職に就いているのかは存じ上げませんが、恐らく伯爵家としては過剰なまでの護衛の数…その金の流れは気になりますね)
ヨルが猫の姿で忍び込む事の利点として、先程のように関係者の会話や噂を安全に盗み聞く事が出来るという点がある。
人の口に戸は立てられない。
何処に有益な情報が転がっているかは誰にも分からないのだ。
(カル様とレーベル様が屋敷を探っているでしょうから…私は少し彼らの様子を探る事にしてみましょうか)
◆ ◆ ◆
ガーデルセン伯爵家は、そこまで大きな役職に就いている貴族では無い。なのでそこまで金銭面で余裕のある家では無いと言える。だが実際はかなりの豪遊っぷりが耳に届く。それ故に【黒蝶】が派遣される運びとなった。
カルとレーベルは【黒蝶】の中でも同じ部隊に所属する者達だ。だからこそ共に行動する事は珍しくなく、連携に問題が生じる可能性は極めて小さかった。
二人で一人とも言えるその連携は屈指の物で、あっという間に監視の目を掻い潜り屋敷の中へと潜入を果たした。
「ヨルちゃん大丈夫かねぇ」
レーベルが気にするのは、自身よりも遥かに小さな身体を持つ少女の事。新参者でありながらその名は【黒蝶】全体に広まる程の腕であるとレーベルは知っている。だがそれでも後輩には目を掛けたいのが先輩としての心情だ。
「彼女の優秀さは知っているでしょう。寧ろ今回の事でヘマをする可能性が高いのは私たちの方だわ」
「だねぇ…一応私達の上官だもんねぇ…」
【黒蝶】には細分化された部隊が存在している。それぞれが番号で識別されているが、その順序で序列が決まっている訳では無い。得意とする分野で分かれているだけという事だ。
カルとレーベルが所属しているのは第八番隊で、主に諜報を担当する部隊だ。そして、ヨルが所属しているのは───
「───第十二番独立自由遊撃部隊隊長、かぁ…名前長ない?」
「知らないわよ」
【黒蝶】の中でも“独立”し、“自由”に行動する事を認められた部隊。それがヨルの所属にして、肩書きだ。
だが隊長ではあるものの、基本的には他部隊の補佐として活動する事が主となる。……まぁ要するにピンチヒッターである。
その為隊長でありながら全ての部隊に属する部下という、何とも変な立場にある。
「ヨルちゃんの手が空いてて助かったぁ…」
「関係者から安全に素の話を聞き出すにはうってつけの人材だからね。その分“中”は私達が動かないと駄目よ」
「はぁい」
影に生きる者は闇に溶けその姿が人の目に捉えられる事は無い。
この後ガーデルセン伯爵家の名前が歴史上で途絶えたとしても、一人の侍女からすればどうでも良い話だった。
これにて第二章はお終い。第三章は今暫くお待ち下さい。