26. 化物侍女は隠す
入学式を終えたその日の夜。部屋へと戻ったヨルは、早速湯浴みの準備を始めた。
「便利なものですねぇ…」
浴槽に備え付けられた蛇口を捻れば、直ぐに湯気が立ち昇るお湯が出てくる。魔術具としてお湯を沸かす物はそう珍しいものではないものの、出て直ぐはまだ水である事が多い。今ヨルの目の前にある魔術具のように直ぐお湯が出てくるものは、かなりの高級品だ。
浴槽にお湯を溜めつつ、浴室もお湯を使って温める。その後床に散らばった水滴は拭き取って、溜まったお湯にはリラックス効果のあるハーブを調合した香油を垂らす。これで準備は完了だ。
熱が逃げないように浴室の扉を閉めて、ティアラが待つ部屋へと戻る。すると―――
「……ティアラ様。流石にそれは淑女としての教育のやり直しを考えなければならないかと」
「あ、いや、その…」
ティアラが顔色を青くして弁解を図ろうとするも言葉にならず、ベッドの上で動けなくなる。
ティアラのベッドの回りには脱いだ制服や本が散らばり、それだけでヨルはティアラが先程まで何をしていたのかを理解した。
普段表情が変わらないヨルにしては珍しくジト目で、ティアラは身を縮ませた。
「…湯浴みの用意ができました。お手伝いしますのでお入りください…と言いたいところですが、私はこの部屋を片付けますので、ご自身でお入りください」
「わ、分かったわ!」
まるで逃げるようにして素早くティアラが浴室横の脱衣所へと消えると、ヨルが一つ溜め息を吐いた。
ティアラが貴族として過ごす事を嫌っているのは理解しているので、部屋の中だけで寛ぐ分にはヨルも何か咎める事は無い。だが、それにも限度というものが存在する。
「…無理かもしれませんね」
散らばった制服をハンガーに掛けて皺を伸ばしつつ呟く。実はキャロルからティアラのだらけてしまう性格を、この寮生活の内に出来うる限り改善しておいて欲しいとの極秘指令があったりするのだが、自分が何を言ったところで改善の見込みがないとヨルは痛感していた。
表では立派な貴族の淑女として振る舞うからこその反動であるとは理解しているが、将来の婚姻などを考慮すると治しておくに越したことはなかった。
無事ヨルが部屋の片付けを済ませて浴室へと向かう。するともう既にティアラは湯浴みを済ませ出てくるところであった。
「お早いですね」
「うん…この後ヨルも使うからね」
側仕えであるヨルは、ティアラの残り湯を使って身体を清める。なので湯が冷めぬうちにとティアラは早めに上がっていた。
「御配慮頂き、ありがとうございます。お拭き致しますね」
「ありがとう…ごめんなさい」
「? 何故謝られるのです?」
「その、部屋…」
少し決まりが悪そうに小さく口にするティアラに、ヨルが「あぁ」と納得した声を出す。
「まぁ分かっていましたから」
「それはそれでちょっと思う所があるけれど…今度は、ちゃんとするね」
「はい」
しかし妙に素直なティアラにヨルが内心首を傾げる。ここまでしおらしく謝る事は無かった筈だとヨルは思い、そして――――思い至った。
「淑女教育はやり直しますよ」
「え゛」
心底嫌そうな声を聞き、やはりかとヨルが納得する。痛みを伴わない教訓に意味は無い。今更やり直す内容は無いが、罰則としてこれ以上適切なものは無かった。
「終わりましたらお菓子を用意いたしますので、頑張ってください」
「お菓子っ!?」
「はい」
飴と鞭。その言葉が良く似合った。
◆ ◆ ◆
「ふぅ…」
ティアラの身支度を済ませ、一時の休息に息を吐く。残り湯ではあるが、ティアラが手早く済ませた為にまだ温かい。その事を有り難く思いながらも、側仕えとして主にはゆっくりしてもらいたいとヨルは思う。
身体を軽く濯ぎ、残った少ない湯に浸かる。ヨルの鼻に残った香油の香りが入り込み、その透き通る匂いに頬を緩める。
「良い出来です」
学園内に持ち込める物には制限があり、特に液体状の物は厳しく取り締まられる。これはかつて学園内に液体状の毒を持ち込み、魔術によって無差別にばら撒いたという事件があったからだ。なので香油もまた制限の対象であり、外部の決められた店で購入され封が切られていない物しか持ち込む事を許されていない。
だが、それはあくまで市販品。求める香りには程遠く、それ故に独自にハーブを調合し主の好む物を作り上げる。それが側仕えとして、ヨルとしての仕事の一つだった。
「はぁ…うっ、ゲホッゲホッ!」
突如、苦しげにヨルが咳き込み、浴槽の縁に手を掛けて顔を水面に向ける。はぁはぁと荒い息を吐けば、少し水面が汚れる。
「……まだ、持ちますかね」
小さく呟いたヨルの言葉は、波打つ水面の音に掻き乱され、響く事は無い。
少し重くなった身体を水から引き上げ。視界に垂れる黒髪を後ろ手に集めて絞る。ポタポタと垂れる水滴が浴槽の水を薄め、ヨルはその光景に目を細めた。
「片付けなければ…」
排水に関しても魔術具で済ませる事が可能だ。だが、その処理は時間が掛かり、万が一“見つかれば”問題になりかねない。
「……」
ヨルが徐に水面に手を伸ばし、その場所が消える。
「これで…良し」
後は何処かに捨てれば良いだろうとヨルが排水の為の魔術具を動かす。その水面は、澄んでいた。
「―――あの子が、“動いていれば”良いのですがね」




