第116話 さよならおっぱい その9
バタンとドアを閉める音と共に、僕の中の全ての神経回路に電気信号が走り、遂に声が出せるようになった。
【待って! 行かないでください、魔王!】
懸命に叫ぶも、久々の発声は非常にか細く、ドアの向こうまでは到底届かなかった。何とかしなければならないと焦るも良い考えは思いつかず、しかもしばらく人間関係がご無沙汰だったため、来訪者も期待出来そうになかった。しかし僕は魔王に告げねばならなかった。これは、おそらく罠だと。
【行くと確実に捕まります! 戻ってきてください!】
何度呼んでも返事はない。既に彼女は戦地に赴いてしまった。この僕のために。だとしたら、それを止めるのは僕の役目だ! こんなところでグダグダ鬱に浸っているのはもうやめだ!
【ん? 身体が……動く!】
どうにかならないかと、色々試行錯誤しているうちに、僕は少しずつだが自分が前進していることに気がついた。ひょっとして、今夜は……!?
【そうか、満月なんだ!】
僕は魔王が何故今晩決死の作戦を決行しようと思い至ったのか、唐突に理解した。この世界では紅い満月の夜に魔力が最高潮に達するので、魔法を使う者にとってはチートデーなのだ。しかし、もうあのモーラスとの戦いから一ヶ月も過ぎていたってことか……。
【ええい、今は前に進む時!】
僕は軋む車輪をジリジリと回して亀の歩みだが徐々にドアへと向かっていく。僕を信じ、僕を愛していると言ってくれたあの人を、むざむざと敵の毒牙にかけるわけにはいかない!
【うおおおおおおおおーっ!】
渾身の雄叫びとともに、ようやく目的地に到達した僕はガチャリとドアを押し開き、階段下に躍り出た。そこには魔王はもう影も形もなかったが、案の定窓に映る真っ赤な円盤が、先ほどの推測が正解だと教えてくれる。さて、これからどうしたものか……。
「一体こんな夜更けに何事ですか……って白箱?」
声の方向を見ると、そこにはメイド服姿のメイド長ことミレーナが生あくびをしながら廊下を歩いてくる姿があった。どうやら夜間の巡回業務らしい。
【ミレーナさん、大変です! 魔王が敵の城に行ってしまったんです! しかもたった一人で!】
「ななな何ですってーっ!?」
彼女の眠気は完全無欠に吹き飛んだ。