シャンプーの香りとあい言葉
重々しいヒールの音が佐倉 澪の心情を現すように夜の住宅街に響く。
今日はプレミアムフライデーだが、私が勤めている会社には関係のない話だ。いつも通りに残業をした。
ポケットから携帯を取り出して時間を見ると、今は二十三時になったところだ。大きなため息とともにどっと疲れが押し寄せてきた。
携帯の受信フォルダにはお付き合いしている彼からのメールが二件入っていた。一件目には「本文:澪へ。先に帰っています。晩御飯作って待っています。」と書いてある。二件目には「残業お疲れさま。」とだけ入っていた。その言葉がささくれだった心にじんわりと染み渡っていく。
彼とは同棲し出してから二年は経つが、私にとって彼は本当に居心地の良い存在だ。
「本文:しーちゃんへ。もうすぐで着きます。」しーちゃんと愛称で呼んでいる彼へ返信をした。
彼のことだからきっとご飯を食べずに待っているだろう。彼と囲む食卓を想像しただけでお腹が鳴った。そんなこんな考えている内にアパートが見えてきた。アプローチから自分の家の明かりがついているのが見える。しかめ面だった顔が綻ぶ。私は小走りで帰路に着いた。
玄関前で鞄から鍵を取り出す。可愛らしいストラップが鍵につられて鞄から顔を覗かせた。
フェイクスイーツのマカロンのストラップ。この手の可愛らしい物は、私には似合わない感じがして落ち着かない。男っぽい性格だからだろう。男兄弟の中で育ち、サッカー三昧だった青春時代。お洒落とは無縁だった。可愛らしい小物など尚更である。
けれど、合い鍵を作るときに彼が、せっかくだからお揃いのストラップをつけたいと言い出したのだ。私は正直どうでも良かったが、彼が楽しそうに私の鍵と自分の鍵に買ってきたストラップをつけているのを見て、まぁ、こうゆうのも良いかと思えた。色は私がミントグリーンで彼がピンクである。
ああ、やばい。突っ立ったままだった私。
慌てて鍵を回してドアを開けた。
「お帰りなさい♡ご飯にする?お風呂にする?そ・れ・と・も~ア・タ・シ?」
フリフリレースのエプロンをつけた男が、人差し指を唇に当てウィンクを飛ばして誘ってきた。
この出迎えてくれた男がしーちゃんこと平井 昌平。私の彼氏でオネエ系男子だ。
「ただいま。しーちゃん。」
おどけた彼を見て気が緩んだのか、私は笑おうとしたけど泣きそうになって、顔を見られたくなくて彼に抱きついた。
「おっと。あらあら。・・・色々あったのね。澪。よく頑張ったわね。」
私を抱きとめると心地良いリズムで背中をさすってくれた。
しーちゃんは何も言わなくても察してくれる。会社であった嫌なことも、自分への苛立ちも。抱え込んで窒息しそうな感情が、彼にさすられるごとに流れ出していく。涙が零れ落ちそうになって、私はさらに彼の胸に顔をうずめた。
しーちゃんは私が落ち着くまで優しく撫で続けてくれた。
しーちゃんのおかげでやっと息ができるようになった気がする。一度深呼吸してみる。
するとよく知った香りが鼻をかすめた。
「・・・しーちゃん。私の好きなシャンプーの香りがする。」
「汗かいちゃったから先にお風呂に入っちゃったわ。」
しーちゃんは、気分ごとにシャンプーの香りを変えている。そのうちに私もシャンプーの香りで相手の調子が分かるようになった。機嫌が良いときや元気なときはシトラス、機嫌が悪いときや調子が良くない日はカモミール。
私の好きなラベンダーのシャンプーの香りの日ということは。
ふと悪戯心が芽を出した。
「じゃあ、一緒にお風呂に入れないね。」
背中に両手を回したまま、上目遣いで誘い返してみた。案の定、しーちゃんは林檎みたいに顔を一気に真っ赤にした。
「ちょっ?!あんた何を言っているのよ!」
普段はそんなこと言ってくれないくせに、とブツブツ言いながら口元を手で隠して顔を背けた。耳まで真っ赤だ。
つい私は吹き出してしまった。
「何、笑っているのよ!もう!!・・・ふふっ。」
しーちゃんもつられて笑い出した。それに答えるかのように私の腹の虫が緊張感のない音を二人の間に鳴り響かせた。
しーちゃんがクスッと笑って両手を合わせた。
「さ!お腹が空いているなら先にご飯食べちゃいましょう!」
「うん。」
笑顔で返した。
「それから、一緒にお風呂に入りましょう♡」
「えっ?」
「澪から誘ったんだろ?後で覚悟しとけよ?」
少し低くなった色っぽい声と悪戯っ子の顔。
心臓がドキリとはねた。今度は私が赤くなる番だ。からかわなきゃ良かった。しーちゃんにはいつも勝てない。
しーちゃんを解放して靴を脱いで部屋の中に入ると、台所に向って先を歩いていたしーちゃんがくるりと踵を返して「忘れ物。」と言って満面の笑みを浮かべて私の顔を覗き込んできた。
これは・・・お帰りなさいのアレだ。
意を決し顔を上げるとしーちゃんの手が私の頬に優しく触れた。息がかかりそうなほど顔が近づいている。しーちゃんの瞳に、顔を赤らめた女の子の顔になった私が映っているのが見えて、恥ずかしくて私は目を瞑った。
しーちゃんの前髪が私の額に落ちてきてくすぐったい。私達は額と額を合わせあう。お互いの温度が交わる頃にしーちゃんは顔を離して少し傾けると、滑るように唇を重ねた。
角砂糖が溶け出していくように心の中が甘いもので満たされていく。
軽いキスをしてまた額を合わせあい、お互いの顔を見つめてどちらともなく微笑んだ。
「改めてお帰りなさい。澪。」
「ただいま。しーちゃん。」
しーちゃんに手を引かれて、私達はリビングに入っていった。
何やら愉しげなしーちゃん。この男・・・絶対に悪戯を考えているな。
明日が休みで良かった。これは覚悟しておかなければならなそうだ。
色々悪さをされるのであろうこの後のことを少し想像して赤くなった。
ラベンダーの香りのシャンプーのあい言葉は、「甘えて良いよ。だから、甘えさせて。」