その教室は、桜色に染まっていた
カチッ、カチッ、カチッ、という針の動く音がした。
何の針が動いているのだろう、と僕は考える。
上皿はかりは独りでに動かないし、コンパスはそんな音はしない。
じゃあ、一体なんだろうと、僕はひたすら記憶を洗い出して、それらしい物を挙げていった。
けれどやっぱりどれも外れている気がして、そうしている間にもカチッ、カチッ、という音は止まらない。
眼を閉じて、こんなにも考え込んでいるのに、わからない……慣れ親しんだ音のはずなのに。
「……時計」
そうこうしていると、どこからともなくそんなボソッとした声が聞こえてきた。
僕の好きな――君の声だ。
僕は後ろへと振り返って、「時計?」と訊き返す。君を見て、きょとんとしたように。
すると君は、こちらを向くことなく諭すように答えるんだ。
「そう、時計……時計の針が動く音だよ」
カチッ、カチッ、カチッ……音は鳴りやまない。止まることを知らない。
進むばかりで、戻らない。
僕は前に向き直って、再度訊いてみた。
「時計って、こんな音だったっけ?」
そして君は、やはり言い聞かせるように答える。
「うん……こんな音。こんなにも――嫌な音」
「……そっか。これが、時間の進む音なんだ」
僕は納得した。頷いて、理解して、知識として蓄えた。少しだけ、悲しそうに俯いて。
後ろにいる君の手を握り直す。そこにいることを確かめる。そしたらやっぱり君は……そこにいる。
見なくとも、触ったらわかる。この手の感触は、君のものだと。
「けど、どうしてかな」
納得したはずなのに、頷いて、理解して、知識として蓄えたはずなのに……僕は後になって否定した。
「この音を聴いても、時間が進んでいるように感じないんだ」
――眼が熱くなるのを実感しながら――声の起伏を殺しながら。
君と指先を絡めて、絡め返される。
「でも、それでも、これは時計の針が動く音なんだよ」
君は言う。
限りなく――苦しそうに。
「時間の進む――音なんだよ」
――風が吹き荒れて、僕たちの髪や衣服を盛大に揺らした。
桜が一斉に芽吹き、舞った桜の花びらが僕たちの世界を覆いつくす。
上を見れば、そこには満開な桜があって。
下を見れば、大きい根っこに散乱した花びらがあって。
後ろには――背中合わせの、君がいる。
――その存在に気付けないほどに、透き通った君が。
彼女と再会したのは、桜色の教室。木の机も、緑の黒板も、何もかもが桜色に染まった場所だった。
そんな僕の好きな桜色の教室で、君は――君の好きな雪柄の黒いワンピースを着て、会いに来てくれた。
――天高くから、舞い降りた。
僕がそれとない理由で開けた窓。その窓から吹き荒ぶ風と共に、君は現れたんだ。
長すぎるほどに長い黒髪をなびかせて。体重がないかのように身軽すぎる足取りで。粉雪が消えて消えて、また積もってを繰り返す見たことのないワンピースを身に着けて。
すっかり君は変わり果ててしまっていたけれど、それでも僕は、すぐに君であることがわかったよ。
美しすぎる君に見惚れながらも、懐かしすぎる君にぼうっとしつつも、僕は思ったんだ。
やっぱり今までの全てが夢で、これが現実なのだと。
――そうであってほしいと、強烈なまでに思った。
でも……そんな僕に、君は残酷に告げる。
「私はもうこの世にはいない」と。「私は約束をしに来たんだ」と。
そして――。
「桜が散りきったその時、私のことは忘れて」――って。
君は死んでないと、僕は手を握りしめて言う。
死んじゃったんだよと、君は優しく握り返す。
「じゃあ……これは夢だっていうのか? あまりに幸せで、悪夢でしかない夢だと?」
眼を細めて空を見上げる僕に、君は眼を眇めて地面を見つめた。
「……夢じゃないよ。でも、現実じゃない。奇跡、なんだよ」
君は今、奇跡を見てるんだ――そうとだけ、君は口にする。
だれの仕業とか、どんな原理とか、良いとか、悪いとか、全部ひっくるめて――奇跡だと。
「なら僕は、いつまでも奇跡にこの身を沈めていたい」
そう言って、僕は――ゆっくりと視線を下げた。ふたりだけのこの世界に、永久に閉じこもっていたいと。
「無理だよ。だってここは、夢でも現実でもないんだから」
……なのに君は、ゆっくりと視線を上げる。満開な桜の向こうを――雲よりも更に高い所へと。
「嫌だよ。僕はずっと、ここにいたい。ふたりで桜を眺めて、海を眺めて、紅葉を眺めて――もう一度、雪景色を眺めるんだ」
「……良いね。それ」
きっとすごく楽しくて――すごく幸せな気分になる。
……けど、
「今ある奇跡じゃ、とても足りない――」
「……」
わかってる。わかってるよ。それくらい、わかってる――でも。
こんな奇跡を体験してしまったら、もう元の生活には戻れないよ。
「だから君は、私を忘れるの」
――風が静かに君の髪を揺らし、君は言葉を紡ぎきった。
君がどういう考えで、どういう意図でそんな行いをしているのか、僕にはわからない。
「……どうして、どうして君は、そんなことを言うんだよ」
握っていた手の力が増して、離したくないと思ってしまう。ここに繋ぎ止めていたいと、ギュッと握る。
そんな僕の手を、君は包み込むように繋ぐんだ。そっと、ふんわりと、僕がいつでも離せるように。
「今のままじゃ――ダメだから」
君は告げる。何度でも告げる。
「いつまでも君を泣かせてしまう。君の時間が、止まったままだ」
辛抱強く、僕がうんと頷くまで。
だから僕は――何度でも否定した。
「……泣いていい。止まっていてもいい――忘れたくない」
君の名前を、声を、思い出を、僕の中に残していたい……。
すると決まって、君は憂いのある顔をする。どうすれば君を助けられるだろうと。
でも、それでも僕は、君を忘れたくなかった。
だって――
「だって、僕はこんなにも、君のことを想っているから」
他には何も要らない。君さえいれば、それでいい。
そう伝えると、君は曖昧な表情をしてこちらを向いた。
嬉しいような――困ったような――それでもやっぱり、嬉しいような。そんな顔。
「……ありがとう。私も君のこと、何よりも大切に想うよ」
ふんわりと包んでいたその手に――君は少しだけ力を入れた。
……でも、それだけだった。
それだけで――終わってしまった。
「……だからこそ、忘れないといけないんだ。苛烈なまでのその想いは、君を縛ってしまっているから」
その想いは別の人に向けてあげてと、君は僕に微笑みかける。
その笑顔が――僕には耐えられない。
「嫌だ」
と、僕は拒絶した。
「この想いは僕と君だけのものだ。他のだれにも、言うもんか」
だれにも侵されたくないから、だから君にだけに伝えてきたというのに。
今更別のだれかに言うものか。
「……そんなにも……そんなにも私は、君に何かを与えられていたのかな?」
驚いたように、君は呆然とする。
そしてすぐに、「ごめんね」と謝った。
「君を置いていってしまって、ごめんね……」
「……何言ってるんだよ。君はまだ、死んでないだろう?」
君はまだここにいる。君の手の感触があって、声が聴こえて、振り向いたらそこにいる。
この世界でなら、僕はひとりじゃない。
――その時、だった。
君の手が――するりと抜けてしまったのは。
「――っ!」
僕は慌てて振り向く。まだ桜は散りきってない。満開だ。
まだまだ僕は、君と見るんだ――他の景色だって、いっぱい、いっぱい。
……でも、君の手足は透けていて、少しだけ浮いていた。
どう、して……?
「教室の桜が、散ってしまったから」
彼女がそう口にするのと同時に、すぐ隣にあった大きな桜は消えて、元の――ありふれた僕の教室へと切り替わる。
――桜なんて、桜色なんて、どこにもない。
「もう、お別れの時間だね」
「……っ」
はにかむ君に、僕は思わず視線を逸らした。
こんなの嘘だと、反射的に思おうとした。
……けど、これこそが現実で、今までが奇跡――。
奇跡が解ける、瞬間なのだ。
「……戻ってきてくれよ」
僕は、そんな無茶なことを言う。
「君と共にでなければ、僕にはもう、あの桜の雄大さがわからない。どの景色も空っぽで、色褪せていて、心打たれないんだ。だから――!」
言い切る前に、冷たい感触が僕の頬の温度を下げた。
気付けば浮いていた君が、今度は僕の頬を包んでいたからだ。
――半透明になってしまったその手で、精一杯に触れていた。
君は一度、眼を閉じて――そして、悲し気に開けながら、僕にお願いする。
「私にはもう、君と景色を見ることが叶わない……だから、君が見て」
私の代わりに、あの雪景色の美しさを思い出して――と。
その言葉を最後に、僕の意識は暗転する。
君は夢でないと言っていたけれど、僕は長い夢を見ていたかもしれない。
僕の目の前では風が吹き、木の枝が揺れて、桜が舞っていた。
だけど、どこをどれだけ探しても――君はいなかった。
遠くへ行ってしまったのかな。今の僕には到底届かない、どこかへと――。
――死んで、しまったのかな。あの冬の中で。
もう、君が○○だということを、言えなくなってしまった。
この気持ちは僕と君だけのもので――あの桜は散ってしまったから。
もう、だれにも言うことができない……。
……君のことを、纏えない。
それでも、だからこそ僕は、前を向いた。
人がまばらに点在する桜街灯を、歩くことにした。
君の好きなあの雪景色を、何度でも好きになるために――。