第百八十話 懐かしい少女
意志力を試す、といわれても俺の前にあるのは謎の黒い球だ。俺が不思議がっていると、
「ラーザ」
後ろからそう呼ぶ声が聞こえた。その声はまるで鈴を転がしたような声だった。俺はどこか既視感を覚えながら振り向く。
「おま…え…」
そこには白眼白髪の少女がいた。年は今の俺と変わらないくらいだろうか。後ろが少し透けているところを見ると実体はないただの幻覚だろうか。
「溺結…か?」
その姿は神級怨霊である溺結に似ていた。細部に違うところはあるが、一見すると本人そのものだ。俺の問いには答えないが、その代わりといわんばかりに少し儚げな表情をする。
「ラーザ、君の試練はただ一つ、その精霊が作り出す幻覚を攻撃することだ。君ならできるだろう。」
上空からオベイロンの声が聞こえる。そりゃあ殺す、じゃなくて攻撃するだけなら簡単だ。しかし俺の意志に反して体が動かない。
「じゃあ、お前は誰だ?」
俺は少女に向き直り、もう一度質問をする。先ほど俺の名前を呼んでいたのだ。声が出せないわけではあるまい。
「大きくなったね。私が見ない間に。」
今度も俺の質問に答えず、そう言う。大きくなったと言っても俺はこいつのことは何も知らない…
「いや、なんだ…これ。知ってる、、、のか?」
こいつを、いや彼女を見るたびに魂が大きく跳ねる。そしてそれは興奮しているというよりどちらかといえば安心という部類だ。その声が、姿が俺に安心を与えてくれる。
「知ってるよ。私は全部。ラーザは頑張り屋さんだからね。いっつも、みんなの陰に隠れて自分のことを追い込んで、そして高みに登ろうとしてる。」
「やめろ」
俺は彼女の言葉に割り込むように声を出す。しかし相手は何があろうとも続けるつもりらしい。
「それでさ、いざその成果が出たとしても自分の努力を口外しなくてさ。何もせずともできました、みたいなさ。最初はみんな君をほめるんだよ。すごいねって、才能があるねって。でも、次第にみんなそれに慣れてくるんだ。人々は稀代の天才よりも泥臭い秀才に感情移入できるし、そっちを好む。」
見れば彼女のその白い目に涙が浮かんでいる。なぜ俺の話をしているのに泣いているのだろう。それに俺のことをなぜここまで知っているんだ。それは、俺が人間に転生する前、つまり魔族であった時の話だ。確かに俺はそのころ、あえて自らの努力は隠していた。しかしそれはそれの方が魔帝領の統治に有利だと考えたからであって深い意味はない。
「だからね、今は私が褒めてあげる。」
彼女はそう言うと両手をこちらに向けて広げる。まるで小さい子供を扱うように、その表情は慈愛にあふれている。俺の目にもいつの間にか涙が浮かんでいた。
「ほら、今だけは私の甘えていいんだよ。今までよく頑張ったよ。少しくらい、休憩してもいいんじゃない?」
俺は彼女のことを知らない。普通見ず知らずの人に褒めてあげるといわれても何も心に響かないだろう。しかし今は違った。俺は、いや、俺の魂がゆっくりと動き出した。それは生まれたての赤子のように、泣きながら保護を求めているようだった。
「そう、そうやって。私の中で泣いていいだよ…」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
私たちはオベイロンが作った画面を食い入るように見つめる。ラーザ君はゆっくりとした歩みだが着実にあの少女に近づいていく。
【オベイロン、あの疑似精霊はいったい何なのだ?」
「うーん、こうなるとは思ってなかったけど…まあいいか。あの精霊は本人が一番欲しているものを具現化する精霊だよ。記憶の中の最も深いところにある欲求を感じ取ってそれを幻影として写すんだ。大抵の場合は財宝だったり、大きな権力だったり、はたまた愛する異性だったりするけど。あとはまあ本人にはそれが本物に見える。」
なんとも性格の悪い精霊だ。対象に人が意識していない欲望をさらけ出すのか。では、あの少女はいったい誰だろう。この中に唯一外見が似ているのは、
「溺結さん、何か知っていませんか?」
私が聞いてみるが、溺結さんは何も言わない。うつむいたままその手をぎゅっと握ったままだ。少ししてアンディさんが発言する。
「どう考えても恋人、には見えないよな。あの感じ。さっきラーザが誰だ、とか聞いてたし。」
「でも関係のない人間ではなさそうです。彼のことを彼女なりにですがよく知っているようでしたし。」
アリアさんがそう続ける。そう、ラーザ君は確かに頭がいい天才だが、それを手に入れるための努力を隠すということはしてない。私たちはそれを知っている。
「シャー」
アルケニーさんが声を出す。気が付くといつの間に彼はあの少女の目前にまで迫っている。オベイロンがそれを見てため息をつく。
「うん。まああの少女の正体は不明なままだけど、彼はこの試験は突破できないね。あの様子だと。」
確かにそうだ。この場にいる全員が諦め、彼が少女の腕の中に入るのを見守る。
「ん、どうしたんだ?」
彼は直前で立ち止まる。そのまま数秒が経過する。そして彼は手刀で、少女の胸を貫いた。
「俺は、お前が誰か知らない。多分、俺が覚えてないだけで大切な存在だったんだろう。でもな、」
「今ここで立ち止まったら、ずっと立ち止まったままになる気がする。だから俺はお前を受け入れられない!!」
彼はそう告げると手刀を少女の胸から抜く。少女の顔には悲しみはない。それどころか少し嬉しそうだ。
「そうだよ。それでこそ、ラーザだ。私の自慢の…」
最後まで言い切ることなく少女は消え去る。その瞬間彼がいた空間が崩れ去り、彼が私たちのいる場所へ帰ってくる。
「はぁ~、なんだったんだよ。本当に。」
彼はそう小言を言っているが、その目は少し濡れているような気がした。