第2話
5月上旬。
大学の授業が終わると、決まって向かうところがある。
キャンパスに併設されている野球場のわきにあるベンチ。
それはちょうど3号館の陰になっていて、日光の当たらない風通しのいい場所だった。
読みかけの文庫本とアイスコーヒーの入ったタンブラー、念のため日傘を用意する。
グラウンドに目をやると、守備につこうと走ってくる先輩の姿が見えた。
合格を知ったのは、来たるべき浪人生活を覚悟して自宅2階で勉強していた時だった。
昼下がり。
1階から母の悲鳴にも似た叫び声が聞こえてきた。その後、階段を上がってくる音が続き、ノックも無くドアが開け放たれた。1段抜かしをしたのだろう。息を切らした母が、
「ご、合格。アンタ、合格!」
と、歌謡オーディションの審査員みたいに叫んでいたことを覚えている。
一瞬耳を疑ったが、母は嘘をつく人ではない。母の持っていた携帯を奪うように手に取り、確かめた。確かに合格と書いてあった。間違いなく自分の受験番号だった。震える指で操作しながら、自分の携帯でも確かめた。
胸の奥から込み上げるような叫びが自然とあがった。涙が溢れ、そのまま床にしゃがみ込んだ。大学生になれる。未来に向かって一歩踏み出せる。そのことが嬉しくてならなかった。
先輩のことは、拍子抜けするくらいすぐに見つけられた。
入学式の日。
式典が終わり、講堂の外に出ると、そこは記念写真を撮る家族でごった返していた。
母と合流した私は、人混みから少し離れたスペースに場所を移した。
スマホを手にした母は、妙に生き生きとしていて、講堂が背景に写るように立ち位置を細かく指示した。
「顔はそのままね。ちょっとだけ、ちょっとだけ、体斜めにして。そう、いいわ。すごく綺麗よ」
早く終わらせたかった私は、言うとおりに体の位置を微修正した。
「撮るわよ〜」
カメラに向かって顔を上げたその時だった。
母のさらに向こう。背の高い、メガネをかけた男性が、キャンパスの奥に向かって歩いて行くのが見えた。
「ちょっとぉ、緊張してるの? 少しは笑いなさいよ。ほら、もう1枚」
見間違えるはずがなかった。入試の日から何度も頭の中でリプレイした、あの人だった。
「ごめん。先帰ってて」
「は? どこ行くのよ。ちょっと。朱里!」
呼び止める母の声を背中越しに聞きながら、私は人混みを縫うようにして、彼の後を追った。
キャンパスの桜並木の中、あの人の背中を追った。すれ違う人は、みな春めいた私服姿で、スーツ姿なのは私だけだった。パンプスのコツコツした音がやけに目立って聞こえた。前を歩くあの人が振り返らないか心配になった。
並木通りを過ぎると、隣接する野球場が目に入った。あの人はフェンスの扉を開け、グラウンドの中に入っていった。そして横切るように進むと、そのまま奥に消えていった。私は立ち止まり、フェンス越しにグラウンドを見渡した。まだ誰もいなかった。
脇にあるベンチに腰掛けると、少しだけ春の匂いを感じた。陰を作る後ろの建物を見上げる。どこかでチャイムの音が聞こえた。ふと、自分は大学生になったんだという実感が湧いた。
溌剌とした掛け声が聞こえてきた。振り返ると、他の部員とともに、ユニホーム姿でグラウンドに出てくる彼の姿が見えた。
文庫本に栞を挟み、タンブラーを手に取る。
アイスコーヒーを一口飲み終えてから、背伸びをすると、後ろから声をかけられた。
「ルフィじゃん。どうかね? 野球部諸君の調子は」
ベンチの隣に腰かけたのは、2年の由香里先輩だった。
由香里先輩は、サードを守っている同じく2年の衣笠先輩と付き合っている。
ゆえに由香里先輩とはちょくちょくこのベンチで一緒になり、友達になった。
「いい加減そのあだ名やめてください」
「いいじゃない。今じゃ世界的な有名人よ」
5月に入り、徐々に暖かくなってきてから、私は麻のワンピースを多く着るようになった。そのせいか先輩は私のことを、日本で一番有名な海賊王の名前で呼ぶ。もっとも私の場合、単に平熱が高いというだけの地味な特異体質だったが。
「ヘイヘーイッ。シマッテイコーゼー!」
衣笠先輩がエラーをしたらしく、大声で野次る由香里先輩。
衣笠先輩は気まずそうに、こちらをちらちらと振り返っている。
私は由香里先輩の屈託のないところが大好きだった。
「ルフィってさぁ、野球好きなの?」
「父が野球好きで、小さい頃よく試合に連れていかれたんです。実はルールとか、よくわかんないですけど」
「ふ〜ん。あたしはてっきり、好きな人でもいるのかと思ったけど」
「え!? 何ですか急に!?」
由香里先輩は、目を細めてニヤリと笑った。
「どうなの? 実際のところは」
私は、思わずレフトに視線を送った。
「やっぱな」
「何がですか!?」
「バレバレなのよ、君は。凛太郎のこと、好きなんでしょ」
伊瀬凛太郎。それが私の片想いの先輩の名前。
「さっきから凛太郎しか見てないじゃん」
「そんなことないです」
「ボール、今誰が持ってるか言ってみ」
「ええっと、審判さんですか?」
由香里先輩はやれやれといったふうに肩をすくめた。
「凛太郎ってモテるんだねぇ」
「やっぱりモテるんですか」
「何回か告られてると思うよ」
「あの……」
「んん?」
「付き合っている人、とか、いるんでしょうか」
「とか、どう思う?」
思わず下を向いた。仮にいたとしても、それは仕方がないことだと覚悟していた。
「いないよ。多分断ってると思う。衣ちゃんが言ってた。あいつはいろんな意味で守りが固いって。それに凛太郎、忙しいからね」
確かに先輩は忙しそうだった。
大学の最寄り駅、反対のホームで先輩を見かけたことがある。先輩は、分厚い医学書を片手に、カロリーメイトを食べながら、電車を待っていた。
「あいつ、一人暮らししてるけど、家賃も自分で払ってるみたいだしね。バイトも結構やってるんじゃない。ま、恋する暇もないってことかもね」
恋する暇もない。
由香里先輩の一言は、ほんの少しだけ私を暗い気持ちにさせた。と同時に、今のこの距離感がしばらくは変わらないままでいることにホッとしたのも事実だった。
「飴、舐める?」
由香里先輩は小さな袋に入った飴を差し出した。
「いただきます」
口の中で飴玉をころころと転がしながら、由香里先輩と一緒に練習風景を目で追った。
「ルフィはさ、あいつのどこが好きなの?」
「どこって言われても……」
説明するのは難しいことだった。
私は、自分の体質には触れないように受験の時のことを話した。
「そういうとこ、全然変わんないんだな」
誰に聞かせるでもないように由香里先輩は独りごちた。
大きなフライが上がった。顔を上げたのは私だけだった。由香里先輩が伊瀬先輩を見つめているのが横目で見えた。
しばらくして、ガリガリと飴を齧る音が聞こえた。
「じゃ、バイトあるから行くね」
由香里先輩は立ち上がり、ぱんぱんとお尻を手ではたいた。
「ヴォン、ヴォヤージュ」
私に向かってそう言い残し、由香里先輩は左の拳を突き上げながら帰っていった。
ひとりになって改めてグラウンドにいる先輩を見つめた。
伊瀬先輩。
グラウンドに入るとき、必ず帽子を取って一礼する。どの選手よりも大きな声を出す。笑顔を絶やさず、心から楽しそうにプレーする。
先輩がチームメイトから「ヘイヘーイ」と囃したてられているとき、私もベンチから、小さな声で「へいへーい」と声を出した。先輩がレフトから「ッチコーイッ」とバッターを煽るとき、私も小さな声で「っちこーい」と声を出した。
聞こえないくらいがよい。見つめてるくらいがよい。
それが私の精一杯のロマンスだと思っていた。