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第1話

やるだけのことはやろう。

そう思って臨んだ慶仁医科大学の試験日。

アクシデントが起きたのは、2科目目の数学の試験が始まった時のことだった。

天井から低い異音が続いた後、バチッという大きな音とともに教室の空調機が完全に停止した。教室は徐々に冷え込みだし、受験生達も持っているコートや上着を羽織り始めた。それを見た私も、皆と同じようにコートを肩から掛けた。

本当はコートなんか必要ない。シャツ一枚でもいいくらいだ。なのに、こんな時でも皆と同じようにコートを羽織ってしまう自分が本当に嫌だった。自分が普通ではない変わった人間だと思われることは、どうしても受け入れられなかった。


昼休み。

キャンパスのベンチに腰かけた私は、肩にかけたコートを少しずらし、吹いてくる北風に体を当てた。食欲はなく、気分もあまり良くない。鞄から参考書を出して開いてみるが、全く頭に入ってこない。さっきのアクシデントに加え、気持ちの動揺も大きかった。数学の問題が解けた実感もほとんど無い。

どうして私だけがこんな目に合うんだろう。どうして私は人と同じじゃないんだろう。

周りを見ると、何人かの受験生が、熱心に参考書を見ながら、菓子パンやおにぎりを頬張っていた。さっきまで同じ教室にいたはずなのに、まるで別の世界のことのように見える。

自然と溜息が漏れた。肩に入っていた力が抜けて、背中が丸くなっていく。指で押さえていた参考書のページがぱらぱらと音を立てて閉じていった。

もう無理なのかな。

そう思った瞬間、挫折感に襲われ、体が強張っていくのを感じた。涙が零れそうになった。熱がこもり、ますます気持ち悪くなってくる。私は大きく息を吐き、体をくの字にして顔を伏せた。


「あの。大丈夫ですか」

こもったような声がすぐ近くで聞こえた。

「気分、悪いんじゃないんですか」

私の周りでこの呼びかけに応える者はいなかった。

ゆっくり顔を上げると、ニット帽にダッフルコートを着た男性が、屈んでこちらの様子を窺っていた。太い黒縁眼鏡の中の大きな瞳が、心配そうに私を見つめていた。私は慌てて目尻に残った涙を拭った。

「すみません、大丈夫です」

男性は優しく微笑んだ。

「遠慮しないで。俺、医学部生だから。こういうのほっとけないし」

「本当に大丈夫なんです。ありがとうございます」

「顔、真っ赤だけど。今、どんな気分?」

男性の落ち着いた物腰を見て、医師はそういう資質をきちんと備えている人がなるべくしてなる職業なんだなと、妙な納得をしてしまった。

「なんでもいいから、話してみて」

「……熱いんです」

「熱い? 熱あるんじゃないかな。ちょっとごめんね」

男性は、自然な動きで私の額に手を伸ばそうとした。

「触らないで!」

私の発した声にだろう。周りにいた何人かの受験生がこちらに顔を向けた。

「ごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど」

「私の方こそ、ごめんなさい。……あの、ここの大学の方ですか?」

「まぁ。一応」

「じゃあ、将来はお医者さんになるんですよね」

「まだ目指してる途中だよ。君だってそうだろ?」

「私は……」

「受験生でしょ。試験受けられそう?」

「……ダメなんです」

「ダメ?」

「呪われてるんです。生まれた時から」

こんなことを口に出すことが、とても恥ずかしいことなのはわかっていた。それでも、彼の真剣な眼差しを見ていると、自然と話さずにはいられなかった。

「一生解けない呪いなんです。医者になれたら、少しはそういうことがわかると思って頑張ってきたんですけど……」

「うん」

「むしろ、現実がわかっちゃったんです。何やっても変わらないんだっていう現実」

自分の言葉に惨めな気持ちになった。不恰好を隠すように、窮屈な笑顔をつくった。

「だから、私……」

「うん」

「……」

「諦めるの?」

答えようとして口をわずかに開く。だが次の言葉は音にならず、熱い息だけが漏れた。本当は諦めたくなんかない。笑い顔がこわばっていくのがわかった。悔しさで目頭が熱くなった。目をつぶったら、涙が溢れる。涙を隠すように少しだけ俯いた。

「あのさ、思ったんだけど……、諦めたくないから、今何も答えられなかったんじゃないのかな」

「……」

「君自身、よくわかってるんじゃないかな。まだ強い気持ちが残ってるってことに」

私は顔を上げて、目の前の男性の顔を見つめた。

男性は真っ直ぐに私の目を見つめ返した。

「試されてるんだよ。土壇場で踏ん張れるか、それとも諦めるかっていう医師としての資質みたいなものを」

「……」

「自分の気持ち、最後まで信じなきゃ」

優しく、そして力強く背中を押されたような、そんな心持ちがした。自然と背すじが伸びていった。

「……はい」

彼は立ち上がり、少し離れた自動販売機に向かっていった。そして飲み物を買って戻ってくると、私の前に差し出した。

「冷たいの、これしかなかったんだけど」

微糖の缶コーヒーだった。

「そんな……、受け取れません」

「もう買っちゃったから。体に当てると気持ちいいよ」

私はお礼を言って両手でそれを受け取った。缶の冷たい肌触りが気持ちよかった。

「大丈夫かな」

「はい。あの、頑張ります」

「うん。でも無理は禁物だからね」

彼はそう言うと、軽く頭を下げてキャンパスの奥の方に歩いていった。

また体に熱が籠っていくのを感じた。ただ、この熱は今までに体験したことのない、どこか心地良いものを感じさせた。と同時に、勇気ともいえる感情が私の中でふつふつと湧き上がっていくのを感じた。

私は手の中の缶コーヒーを握りしめた。

コートを脱いで、立ち上がった。


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