第93話 番外編:〇〇担当、黒金真稀來
「ホント最悪! 病院は風俗じゃないんですよ! 死ね!」
休憩室に入るなり、ドカッと腰を下ろし、盛大に悪態をつく。
苛立たしさを抑えるように、一口サイズのチョコレートを摘まむ。脳が糖分を必要としていた。
「おーおー、荒れてんねー黒金ちゃん」
「またあのセクハラジジイ? とっとと退院してくれればいいのに。やだやだ気持ち悪い」
同僚達の慮るような言葉に少しだけ溜飲を下げる。
嫌悪感を抱いているのは自分だけではないが、他の看護師が同様の目に遭うのも気が引ける。嫌な責任感だと気分悪く自覚しながらも、看護師の黒金真稀來はため息を吐いた。
この仕事は激務だが、ただでさえ精神的な疲労を増幅させるのが、迷惑患者の存在だ。
いわゆるモンスターペアレンツの患者版であり、クズが選り取り見取りだ。とにかく疲れる。
勿論、入院している患者にとって、頼れるのは医師であり看護師である自分達だけなのは確かだが、中には些細なことで大声で怒鳴る患者や、ことさら無理な要求をしてくる悪質クレーマーといったロクでもない患者も存在している。そもそも医療費を払わない患者に至っては、ただの犯罪者だ。
そんなモンスターばかり相手にしていれば、精神を病むのも致し方ない。えてしてこの業界の離職率が高いのも頷ける。
「あの人、昔は大企業勤めだったって自慢げに話してるの聞いたけど」
「知りませんよ、そんなの。それに今の時代だったら、あんな人、セクハラですぐにクビになってるんじゃないですか?」
時代と言えばそれまでだが、あの年代の人間は倫理観が欠如している。ただの偏見であることは自覚しているが、それでも一定の真実味を持っているのではないかと思う。
真稀來が担当している老人もそんなロクでもない人間の一人だった。
顔を合わせる度にセクハラしてくる不快な老人を、自分の手であの世に送ってやりたいと妄想しながらも、実行するわけにはいかない。
つい口汚く罵りそうになって、会話も最小限にドライに接することで堪える。
普通そんな態度を取られれば、嫌われていることを自覚して態度を改めてもいいものだが、モンスター患者にはそんなことは通じない。
とはいえ、流石にそろそろ追い出す必要があるだろう。お尻を触られてしまったが、やってることはただの痴漢だ。被害届でも出して社会的に抹殺してやろうか。とりあえず男の家族には伝えよう。娘さんから白い目で見られればいい。
「そういえばさー、黒金ちゃん聞いた? 有村さん退職だって。ついに結婚らしいよ」
「有村先輩が抜けると、また忙しくなりますね」
真稀來にとって四つ上の先輩であり、これまで何度も仕事を教わった頼れる相手だった。交際しているという話は聞いていたし、喜ばしいことだが、結婚となると退職するのも止む無しだ。
この仕事は夜勤があるし、何より子供が生まれればその状態で育児を続けるのは難しい。産休や育休があるとは言っても、子供が落ち着いてから今後どうするか考えても遅くはない。
人手不足すぎて復帰はいつでもできるのだから。
真稀來もそれなりに交際経験はあるが、最初は自分が看護師だと知ると喜ばれるものの、時間が合わず徐々にすれ違い別れることがままあった。結婚を考えるなら、今のまま仕事を続けるのは難しい。
お世話になった先輩だけに素直に祝福したいが、自分達の負担が増えることだけは間違いない。
「……私も転職を考えようかな」
「待って、黒金ちゃんまで辞めないで!」
同期の同僚には悪いが、本気で転職を考え始める。今更、心機一転異業種に飛び込む気もないが、病院を変えるというのも選択肢の一つだ。
「そういえば、最近黒金ちゃんのオキニが来ないね」
「あー、あの黒金さんがいつも担当してる無表情の彼」
「あの子がいないと、病院も静かよねー」
「変なこと言わないでください! 病院なんて来ない方がいいんですから」
そうは言っても、真稀來も内心ガッカリしていた。
毎年のように大怪我をして入院する男の子が最近来ない。ときには一年に二度三度病院に運び込まれたこともあった。
真稀來からすれば、常に大怪我しているイメージがあるのだが、不良でもないのに、どうすればあんなに怪我できるのだろうか。本人は運が悪かったとしか言わないが、悪すぎるにもほどがある。
そろそろ高校生になったはずだが、流石にいい加減学習して危ないことをしなくなったのかもしれない。
それ自体は一安心だが、真稀來にとって癒しの存在だっただけに寂しい気持ちもある。
モンスター患者がいる一方、彼はエンジェル患者だ。
彼とは真稀來が新人の頃から付き合いがある。右も左も分からず、慌てふためきミスしてばかりだった真稀來のことを決して見捨てず、それどころか励ましてくれた心優しい少年だった。
あれから数年、真稀來も今では新人に教育する立場になったが、あの頃が懐かしく思える。思い返せば、よく彼が怒らなかったものだ。それくらい当時の真稀來は酷かった。
当時はスレておらず、緊張しいだった真稀來にとって、新人の頃にモンスター患者と遭遇していれば、精神を病んで早々にこの仕事を辞めていただろう。
今ではどんな状況でも冷静に的確に判断することができる。
冷めた態度だと言われることもあるが、人は変われば変わるものだ。
「前は骨折だっけ? 何回目? 黒金ちゃん憶えてる?」
「私が知る限りだと、3回……いえ、4回目ですね。出会う前にもしょっちゅう怪我してたそうですが」
「骨、折りすぎでしょ」
「そういえば、カルシウムが足りないとか言って、お姉さんとよく一緒に牛乳飲んでたっけ」
「あーあの、胸のおっきな子ね。じゃああんなに育った原因はあの子なんだ」
「なんて罪深い……」
彼は会話しているだけで楽しく、何より真稀來にとって命の恩人でもある。
患者に寄り添うのは看護師にとって当然だが、どいうわけかそれを勘違いする人間もいる。あるとき、一人の男性患者が優しくされたことで何を勘違いしたのかガチ恋し、真稀來のストーカーになってしまった。
それを解決してくれたのが彼だった。真稀來が襲われそうになっている中、骨折しギプスをしたままの手でぶん殴ってストーカーを撃退してくれたのだ。
ギプスがパカッと割れ、平然とした様子で「そろそろ完治したかな」とか言いながらグーパーしていた彼を見て、腰が抜けてヘナヘナとヘタリ込んでしまった。そんな真稀來を優しく助け起こしてくれた。
お礼がしたいと伝えたが、いつもお世話してもらってるのは自分だからと、やんわり断られた。そういう奥ゆかしいところも真稀來の母性をくすぐるポイントだった。
その後、真稀來がこれまで以上に過剰にお世話することになったのは、当然と言えるだろう。無論、他意はないし邪な感情もない。あるのはただ感謝の気持ちだけだ。天地神明嘘偽りなくそう断言できる。
「いい? 白衣の天使なんて言ってるけど、そんな外見に騙されちゃ駄目。中身は野獣なんだから」
「悠璃さんは何を警戒してるんだろう?」
彼のお姉さんは妙にこちらを敵視していた。真稀來にとっては、ちゃんとお世話していただけなのだが……。
「禁断症状かもしれません。はぁ、彼のお世話したい」
「黒金ちゃんのそれが嫌だから、病院変えたんじゃない?」
「骨折して手足の自由が効かないんだから、お世話するのが当然じゃないですか」
「あの子、トラウマになってなければいいけど……。黒金さん、やりすぎてるから」
「なってません」
「でも、思春期の子にアレは流石に……」
そんな会話をしていると、呼び出し音がなる。
この仕事はとにかく忙しい。もう一つチョコレートを口に放り込む、重たい身体を持ち上げる。
「もう、休む時間もないんだから! 転職……か」
真剣に検討してみるのもいいかもしれない。
もし、違う職業に就くなら、今度は時間が不規則な仕事は止めようと、真稀來は固く誓った。