第81話 落日の麗人
「ゆーちゃん! もうすぐ運動会です!」
「運動会?」
フンスフンスと気合の入っている幼馴染の硯川灯凪は今日も元気だった。そんな姿を眩しく思いながらも、そういえばそんな季節だったかと九重雪兎は思い出す。
「おそいけど、がんばります!」
「応援してるから、がんばってね、ひーちゃん」
いつも一生懸命な幼馴染にとっては、足の遅さなど詮無いことだ。頑張ることが重要で、大切なのは向き合い方だ。日陰を歩く自分とは違う、お日様の下を堂々と歩く、それが彼女の魅力であり、その朗らかさが九重雪兎は好きだった。
「ゆーちゃんも応援します!」
「ボクはいいよ。なにせボクは運動会に出ないから」
「え? ゆーちゃんどこかケガしたの?」
あぁ、またこうして悲しい顔をさせてしまった。みるみる泣き顔になる幼馴染の姿に困ってしまう。けれど、どうにもならない。自分はクラスの為にも参加すべきではないのだから。それが正しい選択であり、望まれていることでもある。
自分ができることは、姉と幼馴染の応援だけだ。それで充分だった。母親も姉の雄姿を見るのを楽しみにしているはずだ。わざわざそこに自分が水を差す必要はない。多くを望むことはなかった。大切な家族と幼馴染が笑顔になれるのならそれでいい。折角の運動会、それくらいの価値はあるはずだ。
「だから、楽しんでね。ひーちゃん」
‡‡‡
「お断りします」
「どうしてですか? 君の力が必要なの。君がいないと――」
空き教室に二人きり。三条寺涼香の説得も虚しく、目の前の少年が首を縦に振ることはない。
運動会。生徒達がそれぞれ参加したい競技を決めていく中、特別な競技が一つだけある。それが『クラス対抗リレー』だ。運動会で一番盛り上がる花形競技。こればかりは自由意志ではなく、測定したタイムの早い順に決定されることもあり、すんなり決まるのが常だった。
本来なら選ばれることは名誉だ。目の前の少年、九重雪兎にはその資格があった。運動が得意な子供達が主役なれる特別な一日。だが、
「ボクには関係ないので」
「そんなことありません。君もクラスの一員です。皆で協力して一緒に頑張りましょう?」
チームワーク、仲間、一致団結。必死にそんなお題目を並べるが、三条寺涼香も内心それが綺麗事だと理解していた。あまりにも白々しい。これほどまでに軽薄で薄っぺらい説得が通じるはずがない。
クラスの雰囲気は最悪だ。随分と子供たちの笑顔も減ってしまった。この状態がイジメなのかどうかすらも分からない。クラスメイトが彼を無視しているのではなく、彼がクラスメイトを無視している。解決策が見当たらない。そんなものがあるのかすらも。
「仲間じゃありませんよ。協力なんてできるはずがない。ただそれだけです」
馬鹿馬鹿しい。これで終わりだと言わんばかりに、話を打ち切ってスタスタと教室に戻ってしまう。三条寺涼香は茫然自失のまま、その場から動けずにいた。
仲直りの切っ掛けになればと期待した。双方が歩み寄るチャンスだと思っていた。なのに、その目論見はアッサリと破綻してしまった。心の何処かで、本当はこうなると分かっていたのかもしれない。
「強情なだけ、拗ねているだけ。そんな風に思ってしまうのは現実逃避なんでしょうね」
いつまでも意地を張っている彼が悪いのだと、そう言い訳しそうなり、自分自身の浅ましさに嫌気が差す。正しい主張をしているのは、彼の方だ。
一方的に理不尽を押し付けて、罪を被せて、暴言を吐き、彼の物を隠し、傷つけ、暴力を振るって。それで完膚なきまでにやり返されて。謝ったから仲直りしましょうなどと妄言を吐いたところで、いったいそれを誰が受け入れると言うのだろうか。心情的にも有りえない。
もし、仮に自分が同じ立場だとしても、決して許しはしないだろう。加害者が罪を償ったからと言って、被害者がそれを許すかどうかは別問題だ。慰謝料を払っても、服役して出所しても、それは社会的な責任を果たしただけに過ぎないのだから。
彼がクラスメイトを仲間だなどと思うはずがない。上辺だけの仲間、上辺だけの協力、それを求めることが、教師として正解なのか分からない。出口の見えない袋小路に迷い込んで、三条寺涼香は憔悴を深める。そして自分もまた敵だとしか思われていない。そのことが何よりも心苦しかった。
「また失敗してしまいました……」
膝の上でキュッと拳を握って、溜息を零す。
なにもかもが上手くいかない。教師ぶって彼に参加するよう促したことは失敗だった。大人のプライド、教師としての自負。そんなものが邪魔をして、どうしても取り繕ってしまう。第三者ぶって、大人の目線でもっともらしいことを言っても聞く耳をもってもらえない。自分もまた当事者だから。
しなければならなったのは、対等な立場、同じ目線で、感情をぶつけて心から謝ることだった。それができなかった時点で、彼にとっては相手をする価値もないと思われたのかもしれない。
あれ以来、彼から先生と呼ばれたことはない。彼はクラスの中で一切口を聞かない。静かなものだが、その存在感は決して無視できるものでもない。
「これで他のクラスに負けるようなことになれば、その責任は……」
リレーのメンバーには高山も入っている。打って変わって別人のように気弱になってしまった。ただでさえ高山達のグループはクラスメイト達から反感を買っている。彼、九重雪兎がリレーに参加しないことで、他のクラスに負けるようなら、また更にクラスメイトの高山達に対するアタリは強くなるだろう。止める術もない。
自らは何も言わず、何も行動せず。何もしないことが、これ以上ない仕返しになっている。本当に何処までも憎たらしい。そしてそれをどうすることもできない。
「こんなにも、こんなにも無力なんて!」
誰もいない教室で、涙が零れた。夢を諦めてしまった彼女に申し訳なくて、なんとか必死に頑張ってきたが、それも限界に達しつつあるのかもしれない。
なによりも、これ以上、自分が原因で子供達に悪影響を与えてしまうことが怖かった。未来を歪めてしまうことが、可能性を潰してしまうことが、堪らなく恐怖だった。ガタガタと震える身体を抱きしめる。
「ごめんなさい美咲さん。……私ももう無理かもしれません」