第74話 番外編:いと哀しみのマントラ
発売直前ということで番外編です。2章の後くらいの時間軸となっています。
「えー、ヨガを極めれば炎が吐けるようになったり、テレポートできるようになるというのは俗説であり、決して真に受けないようにしてください」
「はい、先生」
おかしい。鉄板ネタなのに一切ウケることなく聞き流されてしまった。手も足も伸びません。なんなら今すぐテレポートでここから逃げ出したい俺です。でも許してくれそうにない。目の前には母さんと氷見山さんが期待した目でこちらを見ていた。
俺達がいるのは自宅マンション隣にある24時間営業のフィットネスクラブだ。母さんは運動不足解消とプロポーションを維持する為にジムに通うようにしていたのだが、そうは言っても仕事の都合で中々時間を取れずにいたらしい。
だが、最近になり在宅ワークに切り替わったことから、時間に余裕ができ、こうしてまた通い始めることにしたんだって。へー、そうなんだね。だからスタイル抜群なんだね! えっへん、息子として誇らしい限りだ。
じゃあなんでそこに俺がいるのかって?
まぁ、聞いてくれよ。そこにはさりとて深くもない理由がある。
俺は中学時代バスケをやっていたのだが、その過程で肉体をケアする方法を一通り学んでいる。もっと遡れば他にも理由はあるのだが、そうした経緯もあり、一般的な筋トレといったトレーニングはもとより、昔からとにかく怪我することが多かった為、入院中あまりにも暇ということもあり、有り余る時間を使ってストレッチやヨガ、ピラティスといったものについても一通り勉強した。
人体の基本構造を知ることこそが、身体を上手く扱う上で必須と言える。現代を生きるターヘルアナトミア、それがこの俺、九重雪兎である。
そんなわけで、講師として母さんにジムまでついてくるよう頼まれたのだが、俺に断る選択肢など存在しなかった。一家の大黒柱である母さんに少しでも貢献できれば恐悦至極にございまする。
だが、そこに落とし穴が存在していた。途中で氷見山さんと遭遇してしまい、何故か一緒に行くことになってしまったわけだ。俄然、嫌な予感がしてくる。俺は直感に微塵も期待を抱かないが、何故だろう、今すぐこの場から逃げ出したい。
受付を済ませて中に入る。ジムには俺達以外にいないので静かなものだった。しかし、問題は更衣室から出てきたばかりの二人の格好だ。フィットネスウェアを着ているので当たり前だが色々と薄い。R指定しなくて良いのか、X指定の可能性すらある。CEROならZは免れない。
邪念を振り払いつつ個別メニューを考える。ジムなのでエアロバイクやラットプルダウンなどトレーニング器具は充実しているが、二人とも筋トレを望んでいるわけではないので、ここは素直にヨガを選ぶのが無難だろう。
「母さんは座っての作業が多いから肩こりが気になるんだよね? 氷見山さんは何処か気になる部分がありますか?」
「私はこういうの初めてだから、お任せするわ。右も左も分からないもの」
「身体のことで困っていたり、悩みはありませんか?」
「そうね……。冷え性だから、それをなんとかしたいかな?」
「なるほど。じゃあ、まずは安楽座になってゆっくり呼吸法からやっていきましょう。慣れたら徐々にポーズを取っていきます。俺の真似をしてくださいね。自律神経を整える効果があるので、快眠効果が期待できます」
俺はヨギーインストラクター九重雪兎である。第3のチャクラ、マニプーラ・チャクラを活性化させつつ、母さんは上半身、氷見山さんは下半身を重点的にやっていこう。ひとしきり呼吸法について伝えた後、効果を交えながらポーズ取っていく。
「猫のポーズは肩こりに効きますのにゃー」
四つん這いになる。こうして伸びをしたりねじったりしていると気分は完全に猫だにゃ。
「胸のせいなのか、肩が凝っちゃって。軽減されるのは嬉しいわ」
「あら、私もですわ。ね、雪兎君?」
「あの、美咲さん。それ息子に何の関係があるんですか?」
「うふふふふふふふふふ」
「ふふふふふふふふふふ」
あの、早くやってくれない? 俺一人だけ虚しいのにゃ。
「次はラクダのポーズです。最初は完璧にできなくても構いません。疲労回復の効能があり、鼠径部や腹部、太ももなど下半身の部位に効果があります。膝に気を付けてくださいね」
「む、難しいかも……」
「片方ずつゆっくりやりましょう。そうですそのまま呼吸してください」
「これって、体型にも変化があるのかしら?」
「そうですね、3ヶ月くらい継続的にやれば効果が出ると思いますよ。身体が柔らかくなりますし、腰痛とか肌にも良いので頑張りましょう!」
「期待していてね!」
「うん?」
自分の為にやるものだが、俺がいったい何を期待するのだろう? なんか氷見山さんが怖いので母さんに視線を向ける。
「母さんは猫背気味かな。背骨を伸ばすポーズやる? 俺がそっちに座るから背中合わせて」
「分かったわ。手を雪兎の膝に置くの?」
「そう。俺は母さんの膝に手を置いて、そのままグーっと手を置いた方にねじって」
「なんだか気持ち良いね。背中ピッタリくっついてるから安心感があって好きよ」
「そうかな?」
一見すると背中合わせに座っているだけに見えるが、これが意外とキツかったりする。
「雪兎君、私とも一緒にやりましょう」
「一人でできるポーズだと――」
「一緒にできるポーズにしてね」
笑顔の圧がすごい。母さんはともかく、氷見山さんは赤の他人だ。じわりと冷や汗が流れる。
「格好も格好ですし、直接触れるのは……」
「差別は反対だわ! それにやましいことなんてないわよね。だって、フィットネスだもの」
「なんてこった! それが狙いだったのか……」
「純粋に興味があっただけよ?」
最初は真面目にやっていた二人だったが、時間の経過と共に何を張り合っているのか、徐々にヒートアップしていく。二人とも夜なのに元気だね。俺の疲労は溜まる一方なのにさ。
こんなの俺の知ってるヨガじゃない! 火でも噴きたい気分だ。
「だから、前屈・後屈ポーズは背中合わせで相手の上に乗るポーズだと何度言えば――見えないけど、反対向いてません? 柔らかい何かが俺の背中に乗ってる気がする!?」
前屈している俺の上で氷見山さんが後屈しているはずだが、俺の視界からは床しか見えない。しかし、背中越しの感触をみるに、明らかにそのまま圧し掛かられている。当然効果はゼロだ。俺が嬉しいだけである。
「どう、気持ち良い?」
「それはもう。って、そうじゃない!」
「息子が困ってるじゃないですか! どいてください、今度は私が乗るんです!」
「待てやコラ。おかしい、ちゃんと説明したはずなのに伝わってないぞ?」
「じゃあ乗るね。ドーン!」
「ぬぉぉぉぉおお! あ、母さんちょっと重たくなったね。良かった。あんまり痩せすぎは良くないからさ。BMIという数字があって、適正体重というものが――」
「ふ、ふと、太っ……」
体重の増加は必ずしも悪いことではない。痩せすぎな人にとっては、それだけ健康になったとも言えるからだ。そもそも日本人の肥満率の低さは世界でもトップクラスであり、アジア圏は全般的に低い。因みに肥満大国アメリカなどと比べると10倍近い差がある。
「そうか! 最近は家でしっかり決まった時間に夕食を取ってるから、母さんも健康になってるんだね!」
「どうして、どうして今になって急に息子が反抗期を!?」
「ふふっ。もう、そんなこと言っては駄目よ雪兎君。それが明確な事実だとしても女性には禁句なんだから」
「あらぁ? 今何か聞き捨てならないこと言いませんでしたか?」
「視界が塞がれて見えないけど、背後から禍々しいオーラを感じるのはいったい……? あと、そろそろ俺の上からどいてくれる?」
「ほら、重たい桜花さんはどいてください。交代ですよ」
「いつからそんな制度に!?」
「駄目ですぅ! 私のですぅ!」
「俺の話、聞いてる?」
ウェア越しの感触は最高だったが、曲がり間違っても口には出せない。こっそり堪能するだけにした。
その後も何かと張り合おうとする二人の間に挟まれて、フィットネスクラブを出る頃には、俺の体力はライフゲージが赤くなるまで削られていた。超必殺技は撃てそうにない。母さんが申し訳なさそうに謝ってくる。
「ごめんね? 楽しくてはしゃいじゃった」
一応悪いと思って反省しているらしい。母さんと氷見山さんの相性は最悪だった。まさに1+1は200。10倍だぞ10倍。おかげですっかり疲労困憊である。
氷見山さんと別れ帰ろうとするが、運動して小腹が空いていたこともあり、俺と母さんはファミレスに寄ることにした。ファミリーだから問題ないのだ。ファミレスだし。夕食は済ませているので、ポテトなど軽食を中心に注文していく。
「ちゃんとやらないと効果ありません」
「こ、今度は真面目にやるから、また一緒に行ってくれる?」
「それは良いけど……」
「パフェでも食べよっか。甘いモノ好きだよね?」
「あれ、知ってたんですか?」
確かに俺は甘いモノが好きだが、それを誰かに話したことはない。聞き返したのは、そんな単純な疑問からだったが、その問いに甚くショックを受けたのか、ハッと母さんが息を呑む。
「……それくらい知ってるわ。でも、それくらいしか知らないの。駄目な母親だよね」
俯きがちに、寂し気な笑顔。
「言ってませんし、気にしないでください」
「――だから、教えて。どんなことでもいい。学校のことでも、好きなことでも、些細なことでいいの。もっと貴方のことを知りたいから」
怖いほどに真剣だった。何を伝えるべきなのか、一瞬の躊躇。
必死で話題を探すが、何も思い浮ばない。思えば小さい頃は、沢山話したいことがあったような気がする。聞いて欲しいことで溢れていた。
けれど、それがなんだったのか、どんな内容だったのか思い出せない。他愛もないことだったはずだ。取るに足らないまるで無意味な。
あのとき俺は、母さんにいったい何を伝えようとしていたのだろう。何を聞いて欲しかったのだろう。どんな会話を求めていたのだろう?
あの頃、あんなにも話したいことがあったはずなのに、なのに今は、なにも、本当になにも、思い付かない。学校のこと、好きなこと、些細なこと? 提示された話題そのどれもが、話すべきことなどなにもない。人様に聞かせるような価値のある内容なんてありはしなかった。
あるのはただ、余計なことで心配させたくないという気持ちだけだ。
「どうして今になって――なんでもない。無理しなくていいよ。あ、来た。食べよう」
喉まで出かかった言葉を飲み込んで、いつも通りに振舞う。それが正しいと信じて。
働いてくれている母さんを俺が煩わせることなどあってはならない。ただでさえ心配させて迷惑ばかりかけてきた。今が幸福なのだから、これで満足すべきだ。謙虚であれと自分に言い聞かせる。幸せのその先を望むなんて、そんなものは強欲だ。俺にできることは感謝しかないのだから。
母さんが悲し気に表情を曇らせていた。先程までは弾むような笑顔だったのに。正解を選んだはずだ。その結果がこれなのか? 不甲斐ない。申し訳なさでいっぱいだった。
鈍痛を憶える。こうしていることが、まるで、ひと時の夢であるかのように現実感がない。
きっと、これは儚い幻想なのだと、そう言われているような気がした。
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