第68話 女神は二人微笑む
「おーい雪兎君。こっちこっち!」
夏休みも残り10日程になり折り返しを迎えているが、まだまだ暑い。今日もまた危険なまでのギラギラとした日差しが照りつけていた。
近年では四季が若干前倒しになっているようなきらいもあるが、9月になってもきっとこのまま暑いのかと思うとウンザリしてくる。
出掛けるのも億劫だが、とはいえ引きこもっているのも不健康だ。目的の場所に向かうと既に先客が待っていた。
「ミトラス先輩、お久しぶりです」
夏らしくワンピースにミュールというラフな格好で迎えてくれたのはミトラス先輩こと女神先輩だった。日陰にいるとはいえうっすら汗が滲んでいる。
「学校以来だね。今日も暑くて嫌になるよ」
「うへぇ。ここまで来るだけでもバテ気味です」
ハンカチで汗を拭いながらペットボトルの水を口に含む。炎天下、水分補給は何より重要だ。かつて存在していた、部活中に水を飲んではいけないなどという常軌を逸した愚かな根性論は淘汰されて久しい。
「ところでミトラスってどんな女神なの? 聞いたことないけど」
「俺が考えた独自設定の女神なんですけど、知ってますか?」
「知るわけないでしょ!」
「人類にギフトを授けてます」
「あーなんか小説とかにあるよね、そういうの。じゃあ良い女神なんだね」
「嫌われてます」
「君、やっぱり私のこと実は嫌いだよね? ねぇ?」
何故か半眼で恨みがましい視線を送ってくるが、ニンマリ笑うと、すぐに何か期待したような視線に切り替わる。
「まぁ、いいけどさ。それよりほら、なにか言うことない? ちょっと頑張ってみたんだ」
服に手をやりヒラヒラさせる。そこまでされれば流石の俺でも相手が何を望んでいるのか理解できる。まじまじと足先から頭のてっぺんまで視線を上下させる。
「先輩、めっちゃ可愛いです! マブい!」
「ほ、ほんと? なんか素直に称賛されると照れるね。えへへ」
「今にもチャラ男か不良に声を掛けられてお持ち帰りされそうなくらい似合ってますよ」
「台無しだよ!」
「そういえばラブコメって、チャラ男とか不良多すぎません? すぐナンパに失敗して暴力沙汰起こしたりしてますけど、どんだけ治安悪いんだよっていつも思うんですよね」
「それ以上はいけない。っていうか、そんな疑問ぶつけられても困るんだけど、そこはお約束みたいなものじゃない?」
「ただでさえヤンキー漫画も減っているこの時代」
「でも、ホラ。今は雪兎君がいるから絡まれても助けてくれるんでしょ?」
「あ、因みにさっきのマブイは沖縄の方言で霊魂って意味なんですけど」
「おいコラ」
夏だからひんやりするジョークは如何かな? 肝が冷えたかい。それはそれとして繁華街だけあって人で溢れている。夏の暑さも活気となっているようだ。
「まだ少し時間あるけど、カフェでも入る?」
「先輩そこ……」
数メートル先にベーカリーショップがあった。思わず気になってしまう。
「ちょっとお腹が空いてるんです。そういえばメロンパンって見た目で得してますよね」
「あそこ入ってみよっか。でも確かにパリッと焼けてて美味しそうだよね。じゃ、じゃあね。私が思う見た目で損してそうなパンはね、レーズン――」
「パンのネガキャン止めてもらって良いですか? 最低だよアンタ。失望しました。一生懸命パンを作ってるパン屋さんに謝ってください」
「今のは明らかに君が誘って言わせたよね!? あーもう。今日という今日は完全に怒ったから。謝っても許してあげないからね!」
「まぁまぁ。アンパンの最初の一口目の餡の入ってない部分あげますから」
「要らないよ!?」
不毛なトークを繰り広げつつ、あーだこーだ言いながら先輩とパンを幾つか物色して店外に出るころにはそこそこ時間が経っていた。
そこで俺はどうしても気になっていることを先輩に聞いてみることにした。
「ずっと疑問だったんですけど、そもそも先輩、こんなところでなにしてるんですか?」
「今更すぎない!?」
‡‡‡
「なるほど、女神先生と女神先輩は親戚だったんですね」
「そうなのよ。待たせてしまってごめんなさいね」
車に乗り込むと、本来の待ち人である女神先生――こと不来方久遠先生に事情を説明してもらっていた。まったくの偶然だがW女神には接点があったらしい。作為的なご都合主義を感じなくもないが、まったくの偶然である。
「久遠さんと雪兎君が知り合いだったなんて驚きだよ」
「私だってそうよ。今日、お礼に食事でもどうかと思っていたんだけど、鏡花も一緒に来たいって言うから。二人、仲が良いんでしょう?」
「ぼっち仲間です。あ、でもぼっちなのは女神先輩だけなんですけど」
「違うからねっ!? 君が知らないだけで友達沢山いるんだから!」
「プッ」
「真顔で変な笑い方しないで!」
「あら、でも鏡花。そういうタイプでもないでしょ?」
「もう久遠さん!」
「ふふっ。ごめんなさいね。そんな風な貴女を見るのはなんだか新鮮だから」
待ち合わせ場所に車でやってきた女神先生はデカいサングラスを掛けている。完全にイケてる女スタイルだ。かつて妖怪顔面ゲロ吐き失禁BBAだった頃の面影はない。あまりのギャップに驚くばかりだ。
「それにしても普段の女神先生はそんな感じなんですね。アスファルトに転がってたときは、あんなだったのに」
「それは言わないでお願いだから!」
「ごめんね雪兎君。久遠さんが迷惑掛けたんでしょ?」
「こ、こら。鏡花!」
「大丈夫ですよ。掛けられたのは嘔吐物と尿ですし」
「ゴホゴホゴホ!」
「夏風邪ですか? 女神先生も気を付けてくださいね?」
「あ・り・が・と・う!」
何故か先程の女神先輩と全く同じような恨みがましい視線を女神先生から向けられるが、どうしてなのか皆目見当が付かない。
「そういえば雪兎君。相談があるのよね? ちょっと事務所に寄っていきましょうか」
「お願いします」
女神先生は余程反省したのか、何か困ったときはいつでも相談に乗ってくれるらしい。弁護士への相談は、本来なら相談料が掛かるところだが、なんと無料な上に回数無制限だ。有難い限りである。
‡‡‡
「危ないことをしては駄目よ? 君は学生なんだから。処分されることだってあるんだからね」
「大丈夫ですよ。それに俺は高校に入ってから、既に一度停学処分を受けてますし」
「え? 君、一年生よね?」
「あの件は雪兎君が悪いんじゃないのに許せないよ」
「珍しく丸く収まったので結果オーライじゃないですか」
「アレで丸く収まってたの!?」
珍しいこともあるものだ。俺ではなく氷見山さんがなんとかしてくれたことが良かったのかもしれない。持つべきものはマドモアゼルである。
事務所で相談を終え、俺達は女神先生おススメのお店に来ていた。相談といっても、俺でなく硯川灯凪の味方になって欲しいというものだ。ついでに幾つか集めた資料も渡しておく。強力な味方がいれば灯凪も安心できるだろう。
「待つのはあまり得策ではありません。相手がいつ仕掛けてくるのか怯えるのも馬鹿馬鹿しいですし、時代は専守防衛ですから」
「なにする気なのか聞きたいようなそうでもないような……」
「ケタケタケタ。2学期にでもなれば分かりますよ」
灯凪もくだらないことにいつまでも悩まされたくないはずだ。そこまで難しいことじゃない。これ以上余計な干渉してこないよう釘を刺すだけだ。うっかり刺しすぎて致命傷にならないよう気を付ける必要はあるが……。
「とにかく。何か困ったらすぐに連絡してね。その子からでも君からでも良いから。それに何か行動を起こす前にも連絡すること。なんとなく君は放っておくととんでもないことしそうだし」
「はい。灯凪にもしっかり伝えておきます。でも、女神先生程とんでもないことはしないので安心してください! 俺、お酒飲みませんし」
理不尽な話だ。俺くらい大人しい生徒はいないというのに。
「その話、本当に止めてくれる? あの夜はどうかしてたの! 私にも尊厳というものが――」
「ねぇねぇ雪兎君。久遠さん、そんなに酷かったの?」
「鏡花、世の中には知らない方が良いこともあるの」
「なぁにが尊厳だ! 今すぐ背中越しのアンモニア臭を思い出してやろうか」
「いやぁぁぁぁぁあ! ホントごめんね? それ以上はね? 私もほら、反省してるし、お礼にお願いだってなんでも聞いてあげるからホントそれだけは勘弁してくれないかなって――」
「俺がどんな気持ちで深夜コインランドリーで黄ばんだTシャツを洗ってたと思うんですか!」
「聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない!」
「エロい気持ちです」
「えっ、そっち!?」
嫌々と耳を塞いで首を振っていた女神先生の目が驚愕に見開かれる。とはいえ、女神先生を抜きにしても、あの夜は色々と渋滞してたからな……。
「気にしてないって言ってたのに、内心やっぱり根に持ってるじゃない!」
「当たり前でしょうが! 頭からゲロぶっかけやがって。胃酸で髪が禿げたらどーすんだ!」
「また髪の話してる……」
「頭から上半身はゲロまみれで酸性、背中から下半身は尿まみれのアルカリ性って、俺はリトマス試験紙か!」
「フッ。なにか上手いこと言ってるのに全然笑えないのは何故かしらね」
「pH言うとりますけど、水を飲ませたから女神先生だけ中性になってるのもポイント高いですよね。そういえば、妙に男を敵視してましたけど、なにかあったんですか?」
「……ちょうど抱えていた案件で酷い男性を見てしまったからかな。荒んでたのよ」
イケてる女風だった女神先生はすっかりいじけていた。見る影もない。意外と自分の事になるとメンタルが弱いのかもしれない。しょうがないので慰める。
「もう怒ってませんから元気出してください。それに俺は心配なんです。あんなこと繰り返してたらいつか危ない目に遭うかもしれない。そんなことになって欲しくないんです」
「……雪兎君、優しいんだね。お友達のことだって、心配して相談を持ちかけてくるくらいだし。私にだって、あれだけチャンスがあったのに何もしなかったし」
「ちょろすぎない!? ちょっと久遠さん! ちょろい女みたいになってるから!」
「美人なんですから、気をつけてくださいね?」
「初めてそんな風に言われたわ」
「いつも美人弁護士とか言われてるでしょうが! はーなーれーてー!」
グイグイと女神先輩が引き剥がしに掛かるが、女神先生は離れない。しっかりと手が握られている。
「これまでのことは水に流して、楽しく食事しましょうよ」
「うん。しゅゆ……」
「久遠さん!? なんで幼児退行してるの!?」
俺が優しいなどと、そんなことはありえない。
俺は痴漢されている人を見捨てようと心に誓い、クラスで話しかけるなオーラを出している陰キャぼっち女子にわざわざ話しかけ、男バスのアイドルであるマネージャーを部活から追放しようとしている男、九重雪兎である。勘違いも甚だしい。
「うーん。でも、お礼といっても何も思い浮かばないんだよなぁ……」
それにしてもお礼か。並べられた料理を食べながら考えるがこれといって良い案が思い付かない。そもそも誰かに何かをしてもらうという経験があまりないだけに困ってしまう。
「思わずなんでもって言っちゃったけど、限度があるからね? その君も高校生だしそういう年頃だとは思うけどまだ未成年なんだし、最近は特にそういうところ厳しいんだから。ましてや私は弁護士なんだし……。でも、本気だったら許されるんだけど……」
「お酒も飲んでないんだから正気に戻って!?」
――こうしてまた今日も騒がしい夏休みは過ぎていくのであった。