第67話 君と俺の正解
「元カレ?」
「……うん」
酷く辛そうにゆっくりと灯凪が言葉を吐き出す。声が震えていた。どれほど認めたくなくてもそれは事実で、変えられない過去でもある。パチパチと淡い光球がフッと消え、ポトリと地面に落ちた。
既に23時近い。幾ら今日が花火大会だったとは言っても、未成年がこんな時間に出歩いているのは好ましくない。ましてや硯川灯凪は女子だ。両親だって心配しているだろう。
にも関わらず俺達はこんなところで何をしているのかというと、花火で遊んでいた。立派な不良である。
そのままさっさと送って帰ろうと思ったのだが、灯凪がどうしても花火がやりたいというので、仕方なくコンビニで花火を買い、近くの公園でこうして二人で遊んでいるわけだ。
硯川灯凪は非行に走ってしまった。俺にはどうすることもできない。灯織ちゃんごめんな!
深夜に大騒ぎするわけにもいかず、花火といっても線香花火である。二人してしゃがんだ姿勢のままただ静かに落ちゆく閃光を眺めるのみだ。夏の風物詩よ、いとあはれなり。
「で、なにかされたのか?」
「ううん。でも怖いの。きっとまた、なにかあるんじゃないかって……」
硯川灯凪が待ち合わせに遅れたのは、どうやら先輩達に絡まれていたからしい。先輩というのは、中学のとき灯凪と付き合っていた一年上の吉川という人物だ。通っている高校が違う為、これまで遭遇することはなかったが、偶然再会したそうだ。
それだけならなんでもないが、どうやらそれだけでは終わらない何かを灯凪は感じ取っていた。漠然とした不安を抱えている。中学時代のことは彼女にとってそれだけトラウマなのだろう。
俺の知らないところで彼女が苦しんでいたことは、これまでの灯凪の態度からも十分に伺える。それこそ性格すら変わってしまう程に、彼女は深い闇の中を彷徨っていた。
「なら、もっと友達作れ」
「……友達?」
「俺が言うのもなんだが、君、友達あんまりいないだろ」
「雪兎は友達多いもんね」
「えっ」
「えっ」
「…………」
「…………」
「えっ」
「えっ」
友達多い? 誰が? 俺が? そんな記憶はまるでない。思い浮ぶのは爽やかイケメンくらいだが、一人では多いとは言わないだろう。灯凪も俺も不自然に首を傾げていた。白けた空気が漂う。大きな認識の相違があるようだが、今はそんなことはどうでもいい。
「とにかく味方を増やせ。それにもう高校生だからな。あまり強硬なことができるとも思えない」
「どういうこと?」
「洒落じゃすまないってことだ。それは君にも言える」
「私……?」
「次に選択を間違えたら、今度こそ取り返しが付かなくなる」
「――!?」
「君が今こうして俺に相談してるのは正解だ。絶対に一人で抱えむな。味方を増やして頼れ。家族だって協力してくれる。迷惑を掛けるかもなんて思うなよ」
「う、うん。分かった」
健気にそう返事する硯川灯凪はやはり変わった。それこそ少し前の灯凪は俺の言葉を否定してばかりだったからな。だからこそ付け込まれた。そしてギリギリのところで踏みとどまった。
しかし、次もそれで済むとは限らない。なにも知らないまま、なにも気づけないまま手遅れになってしまえばどうにもならない。だが、そうなる前なら、幾らでもやりようがある。
「だいたい相手が誰か分かってるんならどうとでもなるだろ。目には目を歯には歯を、バケモンにはバケモンをぶつけんだよと偉い霊能力者も言ってる」
「失敗して死んでるじゃない」
「とにかく。そんなに心配するな。君は正しい選択をした。成長したな」
「あのときだって、ちゃんと相談してれば、あんなことにはならなかったのかな……」
「そりゃそうだろ。そもそも君が俺の幼馴染だと知られていれば、何かしようなどと到底思わなかったはずだが」
「自分で言うのそれ?」
中学の頃になると灯凪とは距離ができていた。その頃には彼女は俺に辛辣に当たるようになり、クラスも別で学校では殆ど絡むこともなかった。俺と灯凪が幼馴染だと知っているのは小学校の頃から一緒の同級生くらいだろう。
どういうわけか俺は先輩達から避けられがちな生徒だった。目を逸らされることも多々あったしね。そんな俺の幼馴染だと知られれば灯凪も色眼鏡で見られるだろうが、少なくとも余計なちょっかいを掛けようとは思わないはずだ。
灯凪は不安がっているが、実際には俺はそこまで心配していない。彼女は同じ失敗を繰り返さなかった。もう大丈夫なはずだ。それにもう高校生になる。何かすれば十分に責任能力を問われる年齢。子供がやったことでは済まされない。相手が強硬な手段が取れると思わないとはそういうことだ。
無理矢理何かを仕掛けて失敗すれば人生即終了になるのは相手の方だ。今の時代、スマホで音声を録音したり動画を撮影したりと証拠に残すことも簡単にできる。
ファンタジーの世界には良くNTRビデオレターというものがあるが、あんなものは相手に自分が犯した犯罪の証拠を転送する極めて愚かな自爆行為にすぎない。
やったことを隠し通すことは存外難しい。俺は人生が地獄の黙示録すぎて慣れていることもあり処分などまったく意に介しないが、一般的にはそうではない。
学生ともなれば、退学や停学の危険性があることをそう易々とは実行に移せない。その分別が付くから高校生なのだ。そしてそうしたハードルは高く、そこから逸脱するのは難しい。
だとすれば自ずと相手の動きは絞られてくる。それでもなお、リスクを侵して強硬な手段に出るのだとすれば、むしろやり易い相手とも言えた。
そこでふと思い出す。そういえばこんなときにうってつけの人物がいるじゃないか!
「そうだ。妖怪顔面ゲロ吐き失禁クソBBAこと女神先生を紹介してやろう。散々迷惑掛けられたんだし相談くらいタダで乗ってくれるだろ」
「その女、誰?」
「有名な弁護士の先生らしいぞ」
「ねぇ。その女、誰?」
「名前は不来方久遠って言うらしい。キラキラネームかよウケる」
「だから。その女、誰?」
「今度、会うんだけどその時にでも伝えとくよ。灯凪の連絡先渡しとくぞ」
「ありがとう。それはそれとしてその女、誰?」
「あれ? おかしいな。通じてないぞ」
「答えて。その女、誰?」
「灯凪さん?」
おーい、灯凪さんどうしたの?
そこはかとなく姉さんと共通する暗いオーラを発しながら灯凪がジト目になっていた。
苦しまぎれに説明するがイマイチ納得してくれない。押しが強い。というかこんなに押しが強いならそんなしょうもない先輩なんて相手にならないと思うが、悪意をぶつけられることに慣れている人間は存外多くない。不安になるのも分かる。
最後の線香花火が落ちるのを見送って立ち上がる。キッチリとゴミを始末し残っていないか確かめる。時代はエコだよエコ。いい加減、夜も遅い。流石にこんな時間まで連れ回してるわけにはいかない。
「足、大丈夫か?」
「平気。ここからは歩けるから」
ここでバイバイするわけにもいかず、そのまま灯凪の家まで向かう。静寂の中、隣を歩く灯凪がそっと口を開く。
「このまま家、泊まる?」
「ばばば、馬鹿言うな! そんな恐ろしいことででで、できるか!」
「なんでそんな動揺してるのよ……。昔は泊まったこともあったじゃない」
ぶつぶつと不満そうに灯凪が呟くが、あまりの恐ろしい提案に戦慄を禁じ得ない。そんなことしたら確実にお仕置きされる。既に寄り道をして遅くなっている。これ以上、遅いと本格的にヤバい。
それに灯凪は知らないが、俺は灯凪の母親である茜さんによって硯川家を出禁になっている。
前回は灯凪のあまりに必死な様子に誘いを受けざる得なかった。そのときも茜さんとは直接会っていないし、会っていれば咎められただろう。
俺は茜さんの期待を裏切った。あんなことになる前に灯凪を助けられたはずだと、そう言われてしまえば反論はできない。そういう意味では、茜さんにとって俺も灯凪を傷つけた当事者であることに変わりはない。
「あのさ。本当はね、聞きたいことがあったんだ。今日、どうして誘いに乗ってくれたの?」
「理由がいるか?」
「なんとなくかな、分かったんだ。言おうとしてること」
「なるほどメンタリズム」
「違うわよバカ」
想定外の一件で有耶無耶になりつつあったが、確かに俺は灯凪に言おうとしていたことがあった。それは汐里に伝えたものと同じモノだ。
「灯凪、俺は――」
「さっき、私は間違ってないって言ってくれたよね?」
言葉を遮り灯凪が言葉を重ねる。彼女の手がそっと俺の手を握った。
「もがいてもがいてもがき続けた。そして暗闇を照らしてくれた。もう二度とこの手を離さないから」
「君には君の人生がある。もっと周囲に目を向けてみろ。きっと君の事を――」
「雪兎。私には私の人生がある。だから私が決めるの」
灯凪の家に着く。その手からダイレクトに熱に伝わってくる。火照った身体を夜風で覚ますように、頬にそっと口づけされる。
「私は諦めないよ。いつだって助けようとしてくれる。――そんな貴方だから」
数時間前、出会ったときは真っ青だった表情は、今では高揚したように朱色に染まっている。恥ずかしそうにはにかんだ表情。久しぶりに見る――あの頃の硯川灯凪だった。
「今日はありがと。また今度ちゃんとお詫びとお礼するね」
灯凪の姿が家の中に消える。その背中に声を掛けた。
「灯凪」
「…………」
「――その浴衣、似合ってる」
「ありがと」
これだけは言わなければならないと咄嗟にそう思った。灯凪は振り返らない。ただきっと彼女は笑っていたのだと、なんとなく伝わってくる。それが今の俺達の距離感。小学生の頃より遠くて、中学生のときより近い。
完全にいなくなるのを見送って、深くため息を吐いた。
「どーすりゃいいんだ……」
向けられる敵意と悪意には滅法強いが、好意にはどうすれば良いのか分からない。答えを見つけられないまま足取り重く引き返す。
きっとそれは一人では見つけられないものだと心の奥底で理解していた。
‡‡‡
「すみませんでしたぁぁぁぁぁぁぁあ!」
平身低頭。自宅のリビングにて土下座で必死に許しを請う。だが圧力は強くなる一方だ。はわわわわわ! えらいこっちゃえらいこっちゃ!
「遅くなったら許さないって言ったよね?」
「疚しいことなんてないんです! ただ帰りにお腹が痛くなって多目的トイレで――」
「は? 多目的トイレであの女とヤッてたわけ?」
「断じて違う! 多目的トイレにそんな用途はない!」
「どうやらアンタも近親処分に課せられたいようね」
「き、謹慎処分?」
「そう。当面の間は、近親処分ね」
「クソ! なんかニュアンスが違っているような気がするのに怖くて確かめられない!」
「さ、一緒に寝ましょうか」
「どうしてパジャマを脱ぎ始めるのでしょうか?」
「暑いから」
「ぐうの音も出ない」
「来なさい抱き枕」
「!?」
横暴だ! 俺のヒエラルキーは無生物にまで成り下がっていた。だがこの場には母さんもいるのだ。ニコニコと満面の笑みをこちらに向けている。助けを求めて視線を送った。
「貴方達が昔みたいに仲良くなってくれて嬉しいわ」
「老眼か?」
「ふふ……ふふふ……まだそんな老け込む歳じゃないと思ってたんだけどな」
「つい口走ってしまっただけで本心ではないんですお母様」
「ちょっと遅い反抗期なのかしら? でも安心したわ。子供らしいもの」
「さっぱり安心できない! それとどうしてお母様もパジャマを?」
「今日は暑いでしょう?」
「ぐうの音も出ない」
「じゃあ、一緒に寝ましょうか」
「うんうん。やっぱりこの二人って親子だよね。俺だけ違う気がする」
「そんな悲しいこと言わないで」
両脇からガッシリとホールドされ連行される。見事なコンビネーションだよねこの二人。
「これを言うのも何度目だって話なんですが、ここは俺の部屋だって知ってる?」
「エアコンも一部屋だけで良いし、電気代の節約になるでしょう?」
「それを言われると本当にぐうの音も出ない」
扶養家族だからね! 母さんには頭が上がらないのだ。熱中症も怖いし。
「なにをしてたのか素直に白状しなさい。言うまで寝かさないから」
「俺は無実だぁぁぁぁぁああああああ!」