第61話 捨てられる者
九重雪兎こと俺は日本人である。
九重悠璃こと姉も日本人である。
今まで当たり前のように思っていたことも、実は違うのかもしれない。鎌倉幕府の成立が1192年から1185年に変更されたように、常識とはいつだってきっかけ一つで覆る。
かつてドヤ顔で良い国作ろう鎌倉幕府などと教えていた教員は顔真っ赤になったりしたのだろうか? むしろ顔面ブルーレイかもしれない。
世の中の常識を疑い続ける男、それがこの俺、九重雪兎である。
つまりさ、俺は確かにさっきこう言ったわけ。「お風呂入ってくるね」って。それなのにどうしたことか、入浴中に乱入してきたのは、まさかの姉である。よもや俺達の間に日本語コミュニケーションは成立していないのではないかと疑いを持たざるを得ない。思えばこれまでも俺の言葉が通じていないフシが多々あった。
しかし、幾ら言葉が通じていないとしても、姉さんは女性だ。弟とはいえ、男性が入っていると分かっているお風呂にわざわざ入ってくることなどあり得るだろうか? いや、ない(反語)
だが、待てよ? そこで俺はある一つの可能性に気づいた。これも常識を疑った結果だ。
「……もしや悠璃さんは姉ではなく、兄だった?」
「お姉ちゃんよ」
「考察は振り出しに戻ったか……」
「ほら、頭洗ってあげるからこっち来な」
現実逃避もそろそろ限界なので、素直に聞いてみた。
「あの……部屋風呂だからって混浴ってわけじゃ……」
「混浴よ」
「そんな記載、なかったと思うんですけど……」
「混浴なの」
「ならせめてタオルの一つでも……」
「混浴なのに?」
「やっぱり通じてないじゃないか!」
「は? 大きくなったし嬉しいでしょ?」
「はい」
シクシク……。
豪快に全裸でやってきた姉さんは椅子に座るとポンポンと膝を叩く。こっちに来なさいと言いたいらしい。やはりジェスチャーの重要性は不変である。異文化コミュニケーションにも慣れつつあった。スポンジのように吸収していく。お風呂だけに。
「ところでアンタ。さっきなんか臭かったけど、どうしたの?」
「妖怪顔面ゲロ吐き失禁女にやられました」
「なにそれ?」
「姉さん、妖気を感じます」
「私に言われても困るけど」
ゴシゴシと頭を洗われる。正直、有難い。少しでも会話で気を逸らないと、うっかり見てはいけないものを見てしまいそうになる。でも、実は結構見てる。なんならマッサージしてるときも見てたし今更だった。ありがちな脳内天使と悪魔バトルは常に悪魔が優勢だ。ぐへへへへ
もうそろそろ明鏡止水の境地に目覚めても良い頃だと思うんだけど、覚醒の気配はない。
ちょっと外に出ただけで散々な結果になったが、妖怪は無事部屋に討伐してきたし問題なかろう。酔っ払いに関わるとロクなことにならないのは雪華さんで学んでいる。雪華さんは、ほんの少しのお酒で酔うが、酔うと100%俺が被害に遭う。何故なんだ……。
妖怪との道中記を姉さんに説明すると険しい表情が更に険しくなる。
「はぁ。アンタはもう……。変な女に引っ掛かるなっていつも言ってるでしょ」
「身に染みてます。今まさに」
「は?」
「歓喜に打ち震えております!」
「私は例外処理だから」
ついでに背中も洗ってもらう。なかなかこういうのは自分一人だとできないだけに、貴重な体験かもしれない。その割に自宅ではちょいちょい起こっているような……。
――って、ちょっと待って! 手が。その……それは……ひっ!
「ま、前は自分で洗えるので」
「アンタ、今まで何を学習してきたの?」
「確かに」
「なら、問題ないわね」
「ななな、にゃいわけあるか!」
噛んだ上に全身くまなく洗われた。
シクシク……。
‡‡‡
「ふぅ。気持ちいいわね」
「素直に頷きづらいのなんでろう?」
温泉に浸かる。俺の疲労はピークに達していた。このまま出たくない。刺激の強い源泉が身体を溶かしていく。疲労回復に最適だが、はたしてこの疲労は本来俺が負うべきものだったのか謎だ。
「家族旅行、楽しい?」
隣で一緒に浸かっている姉さんが、ポツリとそんなことを呟いた。
「家族旅行の過酷さを思い知りました」
「……それはアンタだけよ」
楽しい……。俺は楽しかったのかな?
わずか一日だが、振り返れば大変だったのは間違いない。それにこうして温泉に浸かっているのは良い気分だ。
視線を隣に向ける。相変わらず鋭い目をしているが、いつもより少しだけ目尻が下がっていた。それだけで幾分、眼力は緩和される。思えば、母さんや姉さんはとても楽しそうだった。はしゃいでいたような気がする。
それならば家族旅行は成功なのだろう。そこに俺の意見は関係ない。みんなが楽しければそれで良いし、その為に俺はできることをやるだけだ。楽しいと思ってもらえるように尽くすだけだ。
そんなことを思っていると、いつの間にか真正面に姉さんが移動していた。その瞳が俺を覗き込んでいる。何かを探るように、俺を逃がさないように。
「あのさ、聞きたかったことがあるんだけど」
「な、なんでしょうか?」
「――修学旅行、どうして行かなかったの?」
「修学旅行?」
はて? そういえば、夕食のときも姉さんは少しだけそんなことを言っていた。
「うーん。そんなに深い理由はないけど」
「それよ。深い理由がない方がおかしいの。なのにアンタは行かなかった。どうして?」
記憶を遡る。それは約一年前のことだ。
中学の修学旅行に俺は行かなかった。
その選択をしたことさえ忘れていたし、言われなければ思い出しもしなかった。そこに特別な何かがあったわけではない。
だんだんと思い出してくる。本当に些細なことだ。
しいて言えば、それが最適だったから。それ以外に理由など存在しない。
修学旅行の期日が迫り、あるとき担任に「くれぐれも問題を起こさないように」と忠告された。その後、学園主任にも同じことを言われたのだが、先生がそう言うのも当たり前だ。何かと迷惑を掛けてきたし、修学旅行は先生達にとっても一大イベントだ。その気苦労は計り知れない。神経を張り詰めもするだろう。
俺としては申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
自分で言うのもなんだが俺は運が悪い。そこで思った。
そもそも行かなければ問題など起こらない。俺は迷惑を掛けずに済むし、先生も余計な心配や苦労をせずに済む。まさにWin-Winだった。きっと喜んでくれるだろうと意気揚々と提案すると、何故か態度が急変し一転、参加を促してきた。急に謝罪されても俺は困惑するばかりだった。
後から必ず後悔すると言われても、修学旅行にこれといって思い入れもなく、俺が行かないことで誰もが楽しめるなら、それが最適な判断だった。誰も損などしていないし、メリットしかない。実際に後になった今でも後悔するどころか、記憶からも消えかかっていたことを思えば間違ってはいなかったのだろう。
本当にそれだけの、今になって語る価値すらない程つまらないエピソードだ。
思索に耽っている間、視線は虚空を彷徨っていた。
記憶の旅路を終え、意識を戻す。
「……姉さん?」
姉さんの目に涙が溢れていた。
その手が額に触れる。
「――アンタはどうしてそうなのよ! 雪兎が思う幸せに雪兎はいちゃいけないの? 雪兎が誰かの幸せを願うように、雪兎の幸せを願う誰かがいると思わないの?」
激情がぶつけられる。
それでいて、あの時のように突き放そうとする冷たい意思も感じられない。
ワケが分からなかった。
何を言われているのか、何を悲しんでいるのか。
それでも、何かが嵌るような、そんな音がした。
ふいに理解する。
俺はきっと今、――怒られている。
これまで母さんにも姉さんにも怒られたことはなかった。
なら、俺が何かを間違ったとき、誰がそれを教えてくれるのか。
こんなにも真剣に。こんなにも必死に。
姉さんは怒っていた。どうしようもない俺を。
――そして、ようやく気づいた。これが家族だったんだと。