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第59話 捨てられない者

「悪いね。時間は大丈夫かい?」

「はい。もうこんな時間ですし、後は寝るくらいなので」


 幸い時間は有り余っている。しかし今は迂闊に部屋に戻るわけにはいかない。


 案内された部屋で、お茶とお茶菓子を出してもらう。餡蜜だった。今いるのは、本来お客さんが立ち入らない裏側、つまり従業員達の部屋だ。といっても、この時間ここにいるのは俺と、俺を連れてきた男性だけである。いや、誰?


「なにか俺に用事なんでしょうか?」

「そういうわけでもないんだけど、ほら憶えていないかい?」

「ま、まさか小さい頃、一緒に甲子園に行こうって約束したよっちゃん?」

「全然違うけど誰なんだいそれ!? 年齢も違いすぎるだろう」

「イマジナリーフレンドです」

「目の前にいるんだが……」

「まぁ、俺も野球はやったことないですし」

「じゃあなんで甲子園を選んだのかな?」


 じゃあ誰なんだよ! 呆れたように言われてもまったく見覚えがない。確かに俺は知らぬ間に知り合いが増えていることが良くあるが、だからといって知らぬ増えた知り合いなど管轄外だ。


「美咲のところで会っただろう? 君が電気屋さんと名乗っていたときだよ」

「電気屋? 俺は学生ですが誰かと勘違いしてませんか?」

「名乗ったのは君だよ! 美咲――氷見山さんの家で会っただろう。そのときは会話なんてなかったから憶えてないかもしれないが」


 そこまで言われてようやく思い出す。


「あぁ、思い出した。あのときの不倫相手!」

「不倫じゃない!」


 人の恋路を邪魔するつもりはないが、とはいえ道理は通すべきだ。


「大の大人にこんなことを言うのは失礼だと思いますが、氷見山さんも悲しみますし、不倫は止めた方が良いですよ。最近は芸能人でも一発退場ですし」

「だから不倫じゃないんだが……。もしかして、俺が帰った後、美咲が何か言っていたのかい?」

「そういえば、ちゃんとしますとか言っていたような……?」


 うろ覚えだが、確かそんなことを言っていたような気がする。


「ちゃんとしますか。どういう意味なのやら。それにしても君は随分美咲と仲が良いんだな」

「むしろ天敵です」

「逆にどういう関係なのか気になるな……」


 一つため息をつくと、改めて男性が自己紹介してくれる。なんとこの人、社長だった。海原旅館の社長で名前は海原幹也さん。年は氷見山さんより少し上くらいだろうか。若社長といった風体だが、何処か疲れているようにも見える。


「いやなに。見掛けた顔だったから気になった。それだけなんだが……」


 社長は言いづらそうに言葉を濁すと、唐突な質問を投げ掛ける。


「この旅館、どう思う?」

「ユニバーサルデザインで素敵じゃないでしょうか。温泉はとても気持ち良かったですし」

「難しい言葉を知ってるね。ありがとう」

「本人の前でなかなか悪くは言えませんよ。そういうのは家に帰ってから旅行サイトの口コミに書き連ねます」

「それは出来れば止めて欲しいかな? それで心折れる同業者も多いからね」

「ネット社会の闇ですね」

「君の闇だと思うが……。まぁ、いい。君は施設内に違和感を持たなかったかい?」

「違和感ですか? うーん。外国語の表記が多いのが面白かったくらいで他は特に……」

「問題はそれなんだ」

「はい?」


 社長は滔々と語り出した。なんで俺、お悩み相談されてるんだろうと思いながらも、餡蜜の分だけ真面目に聞くことにする。これめっちゃ美味しい!


「なるほど。つまり不倫ではないと。なら最初からそう行ってくださいよ。氷見山さんがバッシングを受けたりしたらどうしようと心配してたんですから」

「誰も言ってなかったと思うんだが。まぁ、そういうわけでこの旅館は今、困っているというわけさ」


 海原社長は正式に離婚しているので不倫ではないらしい。なんだそうだったのか!


「よかった、これで解決ですね」

「雑に話を切り上げようとしないで欲しいな」

「そんなこと俺に言われてもどうしようもないのですが……」

「それはそうなんだが、美咲と仲が良い君ならと思ってな。もし良かったら協力してくれないか」


 既に餡蜜分の義理は果たした。

 キッパリ断る。


「無理ですよ。そんなこと氷見山さんに頼めませんし、結局貴方はどっちなんですか? 氷見山さんを好きで一緒になりたいのか、それともただ利用したいだけなのか」

「彼女と一緒になれれば良いと思っているよ。また昔みたいに」

「でも、貴方は捨てたんですよね?」

「捨てたわけじゃない。あのときは、それ以外の選択肢がなかったんだ」


 苦悶に満ちた表情で吐き出された言葉には後悔が詰まっていた。詳しくは知らないが、氷見山さんのコネクションは非常に強力だ。味方になってくれるなら大きな力になる。だからこそ、おいそれをそれを利用するわけにはいかない。


「話を聞いていると、旅館を外国人向けにシフトしたのも、お母様の判断なんですよね?」

「そうだな。こういったリスクを考えていなかったわけじゃない。それでも甘く考えて、リスクマネジメントが出来ていなかったというのも事実だ」

「氷見山さんと別れたのも、お母様に言われたからですか?」

「そうじゃないと胸を張って言えていれば、きっと違っていたのかもしれないね」


 懐かしむような眼差しにはどんな光景が映っているのだろうか。それでも、ただ分かるのは過去は変えられないということだけだ。


「俺が口を挟むような話ではないので恐縮ですが、そんなに後悔するなら、どうして守ってあげなかったんですか?」

「まだ若くて我武者羅だった。未熟だったんだろう」

「なら今だったら、全てを敵に回して守れるんですか?」

「それは……」


 どちらか一方しか選べない。そんな選択は誰にだってある。この人は婚約者より、母親を旅館を地位を取った。背負うものが大きければ大きいほど、それを捨てることは難しい。


 天秤に掛けて、そう判断せざるを得なかった。それはしょうがないことだ。どれほど悔やんだとしても、それを非難することはできない。


「今になって頼るのは間違っていると思います。それでも、もしどうしてもと願うなら、今度は全てと戦う覚悟がないと、きっと何も伝わりません」

「そうなんだろうか……」

「俺から氷見山さんに何か言うのは無理です。というか、もし俺にこんな話をしたことがバレたら、激怒されて二度と会ってくれないような気がします」

「それは困るな……。旅館のことがなくても、まだ彼女のことを――」

「だったら、もう一度良く考え直してみてください」


 当たり前だ。こんな間接的な手段を取れば、間違いなく怒らせる。ただでさえどういうわけか好感度が振りきれているのだ。俺に何しら頼んだことがバレたら良い顔は決してしないだろう。


 餡蜜のお礼を言って、その場を後にする。

 旅館のこと、二人の関係、いずれにしても俺は部外者だ。深入りすることはできない。後は社長と氷見山さんが解決する話だ。


 少し散歩でもして、もう一度夜中に温泉でも入ろうか。俺はそのままラウンジを出て、外に向かった。

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