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第53話 氷見山美咲③

 その言葉を聞いて去来したのは、ただただ疑問だった。


 どうして、そんなことを言うの?

 かつて婚約者だった相手の顔を改めてジッと見つめる。


 やり直す。それはいったい何をだろう。私達2人の関係を? 今になって? 行く道を違えて、そして再開して、そんな数分で。いったい何がやり直せるというのだろう。そんな言葉を聞いて、簡単に頷けるほど、若くはなかった。


 互いが好き合っていても、どうにもならないこともある。恋人同士ならともかく、結婚するとなれば、2人だけの関係では済まなくなる。家族になるのだから、その資格が問われる。それは当然のことだった。そして私にはその資格がなかった。


「まさか今になってそんなことを言われるなんて思わなかったわ……」

「すまない。だが、俺は真剣なんだ! もし今、君に相手がいないなら、考えてみてくれないか」


 どこか空虚に響いていた。熱を持った彼の言葉とは裏腹に、嬉しさや喜びより先にどうしようもなく違和感がつき纏う。彼が嘘を言っているようには思えない。既に離婚して関係が清算されているのなら、これから彼が誰と一緒になっても、それは自由だ。

 

 その相手として私が選ばれたのだろうか?

 どうして――?


 好き――だから?

 でも、でも、でも!


 だからこそ私は彼を信じられない。


「どうして?」


 胸中に浮かんだ言葉を全く同じ台詞が私の口から自然と零れた。


「それは、君が好きだから。美咲のことを忘れられなかったから――」

「なら、どうして!」


 声を荒らげそうになり、寸前で抑える。

 既に気持ちの整理は済んでいた。それなのに、こんなにも心が荒れ狂う。納得していたはずだった。受け入れたつもりだった。諦めた未来だった。きっとこんな風に考えてしまうのも、最近になって、あの子と再会してしまったからだ。


「どうして、幹也さんは戦ってくれなかったの?」

「それは……」

「貴方はあのとき、私を守ってくれなかったじゃない」


 分かっていた。彼には彼の生き方がある。

 彼は旅館の跡取りだ。次期社長として、捨てらないものが沢山あった。


 だからこそ、しょうがない。そう納得していた。するしかなかった。そもそも私が悪いのだから。彼を責めることは出来ない。別れよう。あのときは、その言葉に頷くしかなかった。なにもかもを押し切って結ばれる。そんな道を選べる程純粋では要られないから。


 比べられるはずがない。それでも、思ってしまった。

 全てを敵に回して、たった一人で戦っていたあの子を。傷だらけになりながら、それでも頑なに貫き通した。


 普通はあんな風に振舞えない。大切な何か、捨てられない何か、そんなものが自分をどんどん縛っていく。失う恐怖が人にはある。なら彼には、それがないのだろうか?

 

 でも、そんな少年がいるのだ。1人では戦えなくても、もしかしたら、2人一緒なら、乗り越えられたかもしれない。それでも私達は別れる道を選んだ。それが最善だと信じて。戦わず、周囲に従った。


「そ、それは、違う! 今度は大丈夫だ。母さんだって君の事を――!」


 あのお母様が私の事を?

 あり得ない。直感的に不自然さを覚えてしまう。

 

 私は彼のお母様に認められなかった。結婚に反対され、その理由を覆すことが出来なかった。跡取りに恵まれない。それはなにより致命的な欠陥だ。どうしようもなかった。だからこそおかしい。ならば彼が離婚したにしても、他の相手を探せば良いだけだ。子供が産めない私を、彼のお母様が気に掛けるとは思えない。


 それなのに、どうして?

 思考がまたそこに舞い戻る。


 そういえば、『海原旅館』はインバウンド需要に切り替え利益を伸ばしていた。訪日外国人が3000万人を突破し、観光地は外国人で溢れる。今後も増加を見込み、観光局は4000万人突破を掲げるなど上がり調子だった。


 けれど、世界は一瞬で変わってしまう。現在は外国との往来は制限され、入国規制が掛かるような情勢だ。そんな中で、『海原旅館』は大丈夫なのだろうか?


「旅館の経営は安泰なの?」


 それに一度インバウンド向けに舵を切ってしまうと、今度は日本人離れが進んでしまうという。文化的な相違から、棲み分けが行われるのは至極真っ当なことではあるが、インバウンドに傾倒していたところ程、恩恵だけではなく、その分、今になって大きなダメージを受けている。


「あ、あぁ。なかなか厳しくてね。色々を手は打っているけど。銀行にも融資を頼んでいるところで……」


 そんな状況なのに、彼は私とヨリを戻そうとここまできた?

 不自然さが加速していく。そして、その違和感に気付いた。


「まさか、幹也さん。お母様に言われてここに来たの?」

「――! いや、いや違うんだ。そんなことは!」

「私を利用するつもりだった?」


 権力というものに価値があることを私は身をもって知っている。そういう意味で私は、昔から優遇されてきたかもしれない。なにかしらの思惑を持って近づいてくる人も多かった。だからだろうか。いつからかそういったことに敏感になった。


「貴方はそんな人じゃなかったのに、残念だわ」

「今でも君を好きなことは嘘じゃない! ただ少し力を貸してほしくて」

「欲しいのは私じゃないのでしょう?」

「違う! 俺は美咲のことが本当に――」


 ピンポーン

 彼の言葉を遮るように、チャイムが鳴った。




‡‡‡




「ごめんなさい。今、立て込んでいて」

「来客中でしたか。日を変えましょうか?」

「ううん。いいのよ。もう終わったから」


 氷見山さんが少しだけ悲しそうな微笑みを浮かべて、迎え入れてくれる。玄関には男物の靴があった。来客中とのことだが、知り合いでも来ているのだろうか? 或いは宗教の勧誘か、生命保険の営業かもしれない。そういえば、この前、マンションの前で怪しげなおっさんがウロウロしていたし、氷見山さんは一人暮らしだ。注意するに越したことはない。


「君は……?」


 中に入ると、リビングに一人の男性が座っていた。そこはかとなく深刻そうな雰囲気。決して和気藹々といった状況には見えない。氷見山さんとの間にもどこか緊張感が漂っている。


 え、なにこの状況?

 わけもわからず、とりあえず俺は最も怪しまれない答えを返した。


「町の電気屋です」

「電気屋?」

「PCの設置に来たっス」

「なんでちょっと喋り方を変えたの雪兎君?」

「町の電気屋っぽいかなって」

「そうでもないわよ」

「あ、そうでしたか。じゃあ止めます」


 ぽいかぽくないかはさておき、俺の言葉に男の人は納得したようだった。


「そうか、君は美咲が言ってた用事の子か」

「電気の子です。お取込み中すみません。俺はいつでも良いのですが」

「いいのよ雪兎君。私も早く使えるようになりたいし。幹也さん、今日はもう帰ってくれる?」

「あ、あぁ。でも、美咲、俺は本気なんだ。本気で君と――」

「幹也さん、いい加減にして!」


 被せるように氷見山さんが鋭い声を上げる。

 その剣幕に驚いたのか男性が立ち上がり玄関に向かう。


「また来るよ美咲」

「幹也さんも分かっているでしょう。私達はもう終わったの」


 玄関口で2人が何かを話し合っている。

 迂闊に口を挟むわけにはいかず、視線を彷徨わせると、テーブルの上にマグカップが置かれているのが目に入った。見覚えがある2個1セットのペアカップ。かなり親し気な様子だったし、それが意味するところは一つしかない。


 ははーん、なるほど。さては不倫現場だな?


 なるほどじゃねーよ! ちょっとなんでそんなところにお邪魔しちゃったのボク? 目撃者として消されないかな。昼ドラの世界とかご遠慮願いたい候。もう帰って良い?


 戻ってきた氷見山さんだが、そんな俺の視線に気づくと、急に慌てだす。


「ち、違うの。これは幹也さんに用意していたんじゃなくて――」

「大丈夫です。みなまで言わなくても分かっています」

「絶対に分かっていなさそうだから言うけど、本当なの。幹也さんが今日来たのは偶然で、ここにあるのは雪兎君の為に用意していたものよ」

「俺は察しが良い方なので気にしないでください」

「そういうのは察しが良いと言わないのよ。分かっているのかしら?」


 後ろめたい気持ちも分かる。でも、不倫は良くないと思うんだけどなぁ……。そんなことを思いながら、俺は作業を開始するべく、べりべりと梱包材を破き始めた。



 BTOとは、受注生産(Build To Order)の略であり、ちょうど市販品と自作の中間といったところだろうか。必要に合わせてパーツをカスタマイズするだけで、組み立てる必要はない。そんなわけで、1時間程もすれば、パソコンのセットアップだけではなく、プリンターなど周辺機器の設置も完了する。因みにスキャナー搭載型の一体型だ。氷見山さんは初期投資を惜しまないタイプらしい。


「これでひとまず終了かと。使い方は大丈夫ですか?」

「ありがとう。パソコン自体は何度も触っているから大丈夫よ」


 氷見山さんがマグカップにコーヒーを淹れてくれる。俺の好みに合わせてミルクと砂糖がタップリだ。ソファーに腰を下ろすと、相変わらずピタリと隣に座られてしまう。に、逃げられない……。


「それにしても結構本格的ですね」

「私もね、頑張ってみようかなって思い始めたから」

「そうですか」

「うん」


 深くは聞かなかった。踏み込まれたくないことの一つや二つ誰だってあるはずだ。そういえば塾講師講師の仕事を始めるといっていた。氷見山さんならきっと生徒に人気の良い講師になれるのではないだろうか。


 それでも、俺はどうしてもこれだけは言っておかなければならないと思い、心を鬼にする。


「差し出がましいようですが、不倫は止めた方がいいかと」

「やっぱり全然分かっていなかったようね雪兎君」


 うふふふふふと笑顔が怖い。

 しかし、ここで苦言を呈さなければ、最後に傷つくのは本人だ。氷見山さんには以前助けて貰った恩もあるだけに、ここで嫌われたとしても、言わなければならない。


「不倫は不幸になります」

「だから不倫ではないのだけど……」

「氷見山さん!」


 ガバッと隣を向き、氷見山さんの肩を掴む。驚いたような声が上がるが気にしてはいられない。


「俺は氷見山さんに不幸になって欲しくはありません!」

「そ、そうね。うん、私もそう思うわ。不倫じゃないけどね」

「きっと良い相手が見つかりますよ」

「ど、どうしたのかしら。雪兎君、今日は随分と積極的ね」

「俺は心配してるんです!」

「わ、分かりました。分かりましたから。幹也さんとのことはちゃんとします。その……ありがとう」


 はたして昼ドラの世界から氷見山さんを救えたのだろうか。不倫や浮気は良くない。誰も幸せにならない。それを俺は知っている。そんな関係を続けていれば、いずれもっと大きな傷になる。取り返しがつかないことになる。だから、今傷ついたとしても止めなければならないんだ。


 真っ直ぐに氷見山さんの目を見ていたが、どうしたことか少しだけ頬が朱に染まっていた。


「雪兎君に気に掛けてもらえるなんて、思ってなかったわ。強引なのも素敵ね」


 ゆっくりと氷見山さんの手が俺の背中に回る。




 アレ、なんかこれ間違った?




‡‡‡




 火照ったように顔が熱かった。動悸が未だに収まらない。

 彼は帰ったが、なにもする気が起きず、そのままソファーに身体を投げ出す。


 頭の中で言葉を反芻する。「不幸になって欲しくない」と、彼は言った。これまで諦め続けてきた。夢も恋愛も。何一つ成し得なかった。仕方ない。私にはその資格がなかった。それが当たり前となり、いつしか無気力に怠惰にここまで生きていた。


「幸せになっても、なにかを欲しても良いのかしら……」


 他の誰でもない。他ならぬ彼が私にそう言ってくれた。

 ならばそれは違えることのない誓約。


 もう遅いと思っていた。ううん。まだ遅くなんてなかった。


 怖い。あの日から、教育者として、人前に立つのが怖くなった。私を見る視線が、その場に立つことを許さないといっているようで。脚が震え、声は上擦り、頭が真っ白になってしまう。そんな状態で到底教師など目指せるはずがなかった。


 立ち上がり、クローゼットの中から小箱を取り出す。

 その中には、あのとき渡せなかった手紙が入っていた。


「もう一度だけチャンスをくれる?」


 打ち明けよう。もう限界だ。これ以上、隠し通して接することに心が耐えられない。それで彼から何を言われようと、それを受け入れ私は前に進む。過去を清算して、克服して、そして幸せを掴もう。動き出さなければ何も始まらないから。




 止まっていた私の時間が、動き出そうとしていた。

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