第52話 氷見山美咲②
――溶け出していく
凍り付いていたはずの日常が。
変わらないと思っていた毎日が。
諦めていた。夢は叶わず、願いは実らない。
冷たく冷え切ったまま、私の時間は止まっていたはずなのに。
いつしか感情は目減りし、心から笑うことも悲しむことも減っていた。未来を見失い、もう随分と無為に生きてきた。きっとこれからもそうなのだと、そんな事実を当たり前に受け入れて。
それなのに。たった一つの出会い。
いや、〝再開〟。
迸るような熱が、じわじわと私を溶かし、停滞してはずの日々が加速していく。
氷河期に起こった急激な気候変動。
ダンスガード・オシュガー・サイクル。
まるでそんな荒れ狂う程の変化が私に訪れていた。
氷河期を終わらせたのは、海中に閉じ込められていた二酸化炭素だという。そしてそれを引き起こしたのは海流らしい。
彼との再会が私に変化をもたらした?
だとしたら、この熱は、きっと私の中に眠っていたもの。私が閉じ込めていたもの。
諦めて、捨てたと思っていた。
でも違った。私にもまだあったんだ。
海中に閉じ込められていたCO2のように、私の中にも、そんな熱が残っていた。燻っていた。いつか氷を溶かす日がくることを、じっとじっと、心の奥で待っていた。
分厚い氷が解けていく。
氷河期が終わろうとしていた。
もう一度だけ、夢を見ても、願いを追い求めてもいいのかな?
氷解する時間。
止まっていたはずの私。
――ギギギと錆びついた音を立てて、時計の針が動き出した。
‡‡‡
「久しぶり……だな。元気にしてたか美咲?」
「えぇ、元気よ。幹也さんは少し疲れているように見えるけど」
文字通り見たままの感想。
最初に出た言葉は、再開の喜びはなく、体調の心配だった。それだけ自分達が歳を取ったということなのかもしれない。がむしゃらに生きていたあの頃とはなにもかもが異なっている。
玄関口から中に迎え入れる。
もう会うことはないと思っていた。そんな相手が目の前にいることにどうにも慣れない。
久しぶりに会った元婚約者、海原幹也は、仕事で忙しいのか、何処かやつれたような表情をしていた。記憶にある顔は、もっと溌剌としていたように思ったが、彼も彼で色々あったのだろうと納得しておく。いちいち聞くつもりもなかったが、それでもこうして再開してみれば、彼と過ごした日々の思い出が蘇ってくる。
老舗、海原旅館の現社長。
女将の息子だが、彼は既に結婚しており、その相手が女将のはずだ。別れて以降、詳しいことは知らないが、彼の母親は大女将ということになるのだろうか。
私がそう呼ばれることもあったのかしら……。
かつてそんな未来があったかもしれないが、手繰り寄せることの出来なかった可能性だ。いずれにしても既に終わっている。彼との縁は既に途切れている。
「もう出会うことなんてない、そう思っていたわ」
「手厳しいな」
彼が苦笑を浮かべる。
随分と時間が経っていた。後悔と共に燻り続け心残りになっている想いもあれば、整理され、キチンと割り切れている想いもある。彼に抱いていた感情は今では良くも悪くもフラットになっていた。
だからこうして会うという選択肢を選ぶこともできた。
「でも、驚いたわ。どうしたの急に?」
「君に会いたくなってな」
ありえない言葉を聞いて、相手の瞳をジッと見つめる。
真実とも嘘とも思えぬ曖昧な答え。
「私がどう思っているのか、考えなかったの?」
「考えたさ! それでも俺は君に会いたかった。だからここに来た」
私、氷見山美咲の下に元婚約者、海原幹也から連絡が来たのはついさっきのことだ。
数日前、彼から電話が掛かってきた。
もう二度と会うことない、そんな相手からの連絡に動揺してしまったことは事実だ。
一度会って話をしたい。彼はそう言った。
少し前の私なら、決して会おうなんて思わなかった。
怒りも、悲しみも、楽しかった思い出も、セピア調に彩られた過去になっている。今になって、私を捨てた彼が、どうして私と会おうと思ったのか。ただそれが気になっただけだ。
少しだけ迷いはしたが、私は会うことに決めた。
そしてついさっき、「近くにいるから会えないか?」という突然の連絡が来たのだった。
本来なら外の方が良かったが、これから予定があった私は、外に出るわけにもいかず、こうして自宅で会うことにした。
「それでいったいどうしたの? 今日は予定があるの。あまり時間は割けないわ」
「そうだったのか。すまないな。どうにも忙しくて、会いたいと連絡したはいいが、なかなか時間が取れそうになかったんだ。ちょうどこの近くに来る用事があったから、少しだけでも会えないかと思って抜け出してきた」
苦笑いで、彼がコーヒーを口に含む。好みに合わせて少しだけ濃いめに淹れたコーヒー。あの頃も、こうして良くコーヒーを淹れていたっけ。懐かしい記憶。
彼の言葉は答えになっていなかったが、それを指摘してもしょうがないと諦め、会話を合わせる。
「お母様はご壮健?」
「あぁ。ピンピンしてるよ。もう社長だっていうのに毎日厳しくしごかれてる」
「変わらないわね。良かったわ」
どうにも迂遠な会話が続く。本当はそんなことが話したいんじゃないはずなのに、大人とはかくも面倒くさいものだ。そんな建前無しには生きられない。今更近況報告がしたいわけでもない。それでも礼儀というものだ。潰えたとはいえ、一度は家族になるかもしれなかった人達。こうして会ってみれば気にせずにいるのは難しかった。
「君はここに一人で住んでいるのか?」
「一人用のマンションだもの。当然でしょう?」
「それはそうだが……ん?」
彼の目がテーブルの隅に置かれているマグカップに止まる。
それは、この後に予定していた本来の来客者の為に用意していたものだった。彼の来客が突然のイレギュラーだったこともあり、片付けている時間がなかった。
「これは……?」
彼が手を伸ばしそれを掴む。
その行動に、私はとっさに声を荒らげていた。
「――触らないで!」
発した自分の声の大きさに困惑してしまう。
ビクリと彼が反応し、マグカップをテーブルに戻した。
「わ、悪い! ……この後、彼氏と会う約束でもあるのか? この前は独身だって言ってたからさ。そうじゃなきゃこうして会いに来るなんて出来なかった」
「違うわ。ほら、そこに段ボール箱があるでしょう。今日パソコンが届いたの。私は機械に疎いから、お友達にセットアップ作業をお願いしているだけ」
「そ、そうだったのか。安心したよ」
私の剣幕に驚いたのか、伺うようにこちらを見ながら、しどろもどろに言葉を重ねる。
お友達。そう言ってみたはいいが、自分が彼からそう思われているとは思えなかった。そもそも年齢が違い過ぎる。ならばどういう関係なのだろう? だが、それを幾ら考えても答えなど出ない。彼、九重雪兎君が私の事を忘れている現状、今の関係は偽りでしかないのだから。
そこでふと、彼が発した言葉に違和感を憶えた。
「安心? どうして幹也さんが安心するの? 貴方には関係ないでしょう。それにこうして私と会っていることを奥さんは知っているのかしら? 良い気分はしないはずよね」
海原幹也は既婚者だ。
私を捨てた後、母親である女将の聡子さんが用意した縁談で知り合った女性と結婚したはずだ。
だからこそ、こうして彼と会うことを決めたと言ってもいい。
全ては過去に終わっている。今更何かが変わることはない。
とはいえ、あくまでもそれは私の視点であり、彼の奥さんからすれば、夫が元婚約者と会っているという事実は決して喜べないだろう。同じ女性として、要らぬ誤解を与えたくないし、そんな厄介事に巻き込まれたくもなかった。なんの話があるのかは知らないが、要件が終われば早く帰って欲しいとさえ思ってしまう。
だが、次に彼の発した言葉は私の想像の上をいくものだった。
「幸子とは3年前に離婚したんだ。子供は幸子についていったよ。馬鹿だな。だったら俺はなんの為に君を……」
「え?」
彼、海原幹也が真っ直ぐに私を捉える。
悔いるように、後悔するように、その言葉を絞り出した。
「――美咲、俺達もう一度やり直せないか?」
‡‡‡
健全な高校生だと自負している俺だが、幾ら夏休みとはいえ、果たして健全な高校生が真っ昼間から有閑マダムの家に行くだろうか? いや、ない! あ、そもそも氷見山さんは未婚だからマダムじゃなくてマドモアゼルだよね危ない危ない。
こういうことはうっかり間違えると女性の逆鱗に触れてしまう。そうなれば高い攻撃力でこっちが大ダメージを喰らうだけだ。相手はその後混乱するしな(しません)。
なんといっても俺にとって氷見山さんはX指定の天敵だ。
精々R指定が限界の俺とは文字通り格の違う相手であり、出会ってからというもの連戦連敗街道を突っ走っている。完全なる負け戦。そもそもエンカウント率が高すぎる。そのうち連敗数を太ももに正の字で書いてやろうかと思ったが、俺は健全な高校生なので止めておきます。
そんな危険地帯に赴くことになった俺だったが、今日は気楽なものだ。というのも、先日注文したパソコンが今日届いたらしい。氷見山さんに頼まれたとはいえ、BTOを選択したのも注文したのもの俺だ。セットアップ作業をお願いされているからには最後まで成し遂げるのが責任というものだろう。
遊びに行くと、いつもケーキやクッキーなどを御馳走してくれるので、流石に悪いと思い今日は水羊羹を持参している。美味しいよね水羊羹。(゜д゜)ウマー
俺の数少ない趣味がスイーツ巡りだが、好きが高じて夏休みということもあり最近はお菓子作りに傾倒している。それもこれも在宅ワークになったことで、料理を母さんが担当することになった為、手持ち無沙汰になってしまったからだが、なにかと匂いを嗅ぎつけた姉さんがシュバってくるのが悩みの種だ。
それはともかく。
相変わらず外は日差しが眩しい。少し外に出ただけで汗が滲んでくる。幸いご近所さんだけあり、氷見山さんが住んでいるマンションは目と鼻の先だ。
幾ら暑くてもトレーニングを兼ねてエレベーターを使わず、階段を利用するのがこの俺、九重雪兎である。
流石に汗がだくだくなので制汗シートで拭き取り、息を整える。しまった、トレーニングは帰りにすれば良かった。人の家にお邪魔する前に汗だくになる馬鹿がいるか。ただでさえ氷見山さんはフィジカルディスタンスがゼロの難敵である。誘惑には負けないぞ。おー!
気合を入れ氷見山さんの部屋の前に着くと、俺は一息入れて、チャイムを押した。