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第48話 ガラスの少年③

「ゆーちゃん、きょうは遊べるかなぁ?」


 朝の通学路。2人の少年少女が並んで歩いていた。

 幼馴染の硯川灯凪がくりくりとした目で隣の少年に問いかける。握られた手に少しだけ力が込められたことに少年は気づいていた。


「ごめんね、ひーちゃん。昨日はやることがあって忙しかったんだ」

「ひおちゃんも、ゆーちゃんと遊びたいって!」

「今日は遊べるんじゃないかな?」

「やった!」


 ツインテールがピコンと跳ねる。ひおちゃんとは硯川灯凪の妹、硯川灯織のことだ。硯川灯凪が幼馴染なら、硯川灯織もまた幼馴染と言えるのかもしれない。


 ニコニコと満面の笑みで硯川灯凪が歩く。とても楽しそうだ。真っ直ぐな言葉。裏表などない温かな感情。どこまでも素直に感情を表現する少女は、どこまでも純粋に少年の味方だった。


 九重雪兎は思った。どうしてこんなクソしょうもないことに煩わされてるんだろう? と。敵と味方。優先すべきはいつだって味方だ。それなのに自分は敵の相手をしているばかりで、味方のひーちゃんと遊ぶ時間を失っている。敵の相手などする価値はないのに。なんて、なんて無駄なんだろう。


「早く終わらせなきゃね」

「?」


 その言葉は硯川灯凪の耳にも届いていた。意味は分からない。それでも硯川灯凪は聞き返さない。隣の少年はいつだって自分とは違うところ見ているから。幼馴染といっても、他人でしかない少年の全てを理解している必要はなかった。重要なのは、心と心が繋がっていることだ。自分が相手を想って、相手も自分を想ってくれる。そう信じられるのなら、不安などない。


 とことこと来賓用のスリッパを取りに行く九重雪兎に硯川灯凪の表情が曇る。


「ゆーちゃん、上履き見つからなかったの?」


 九重雪兎がスリッパを履いているということは、未だ隠された上履きが戻って来ていないということだった。


「ん? 気にしなくていいよ。今日中には戻ってくるからさ」

「……そっか。うん。戻ってくるよね!」


 じーっと大きな瞳が少年を捉える。少年の表情はいつだって変わらない。それでも、分かることもある。彼が今日戻ってくると言ったのならそうなるはずだ。


 九重雪兎の言葉を疑うことを硯川灯凪はしない。何故なら信じているから。何故なら彼は言葉を違えたことなどないから。だからきっと大丈夫だ。本当なら今すぐにでも一緒に探したい。それでも、彼がそう言うのなら自分は信じる。それが――信頼だ。


「いこ! ゆーちゃん」


 この手を離さない。離さないことだけが、自分にできる唯一のことだと硯川灯凪は理解していた。このとき確かに感じ取っていた。それは決して理屈ではなく、子供が故の純粋さからなのか、それとも本能なのかは分からない。


 それでも確かにこの瞬間、少女は少年と心が繋がっていることを誰よりも正確に理解し、正解を導き出していた。




 彼女がそれを見失ってしまうのは、もう少し後の話である。




‡‡‡




 九重雪兎が自分の教室に足を踏み入れると、その瞬間から膨大な敵意が突き刺さる。自分の机を見ると昨日以上に酷い有様だった。机や教科書に書かれているのは既に落書きではく誹謗中傷。母親が作ってくれた布袋はハサミだろうか、刃物でズタズタに斬り裂かれている。


「おいてめぇ! よくも俺達の靴を池に沈めやがったな」


 また母さんに迷惑を掛けるなぁ。などと九重雪兎が思っていると、誰かが何かを喚いていた。男子のグループが3人近づいてくる。高山だっけ? これまで深い接点などなかっただけにその程度の認識しかないが、どうしたことか一様に怒っているようだった。


「お前がやったんだろ!」

「びしょびしょで帰れなかったんだからな!」

「なにを?」


 九重雪兎はすっかり忘れていた。何故なら昨日は忙しかったのだ。あちこち動き回っていたせいで硯川灯凪とも遊べなかった。帰りも遅くなってしまったが、その後も色々あった。そんな慌ただしい時間の中、自分が何をやったかなど記憶から抜け落ちていた。


「池に靴を隠したのお前だろうが!」

「……あぁ! そんなことがあったのか。知らなかった。泥棒されたんじゃないか?」


 そういえばそんなことをした憶えがあるが、すっとぼける。やったのは泥棒だ。自分の上履きを隠したのも泥棒がやったのなら、今度もそうだろう。そうであるはずだ。なにもおかしくなどない。


「ふざけんな!」

「泥棒が隠したんだろ? ボクは知らないなぁ」


 その返事がお気に召さなかったのは男子の集団だけではないようだった。男子も女子も等しく嫌悪と侮蔑の視線をぶつけてくる。敵意がよりいっそう鋭くなり、グラスに入れた水が零れる直前のように、表面張力によって保たれていた均衡は崩壊しようとしていた。


「やっちゃえ!」


 誰かがそんな言葉を発した。女の声だった。だが、その女が言い出さなくても、いずれ誰かが同じことを口にしただろう。或いは目の前の男子達が限界に来る方が早かったか。それだけの違いにすぎない。


「クソが! 死んじまえ!」


 高山と伊藤、北川の3人が一斉に殴り掛かる。誰も助けようとしない。九重雪兎は成す術もなく殴られた。クラスメイト達はその様子を愉快そうに眺めている。そこにあるのは期待。ムカつく奴を、異物を排除しようという基本原理。それは少年少女達にとって絶対的に正しいことだった。


 だって自分達の靴を水浸しにしたのはアイツなんだから、全部アイツが悪い。悪いのは九重雪兎で、九重雪兎が悪で、九重雪兎が敵なのだから。


「やめてよ! ボクじゃない! 痛いよ!」


 九重雪兎は懇願する。だが、暴力は止まらない。


「うるせぇ! お前みたいな奴要らないんだよ!」

「泥棒死ねよ!」


 数人がかりの暴力が九重雪兎を襲う。

 無抵抗に頭を庇って小さくなる九重雪兎の様子に、高山幸助達、男子のグループは気分を高揚させる。分泌されたアドレナリンがブレーキを破壊し理性を削り取っていく。一度動き出したら止められない。制御出来ない。

 

 自分達がやっていることは正義だ。クラスメイト達だって応援している。高山幸助は愉悦を憶えていた。相手は犯罪者で自分達の靴を池に沈めた悪い奴。日曜朝のスーパーヒーロータイムにやっている五人戦隊だって集団で敵をリンチしている。正義は自分で悪いのは犯罪者なのは九重雪兎。理性を働かせる障害など何もありはなしない。


「ボクじゃない! 痛いよ! やめてよ!」


 クラスメイト達はゲラゲラと笑いながら、無慈悲な野次を飛ばす。「もっとやれ!」「ボコボコにしちゃえ!」。余程、靴を濡らされたのが腹が立つのか、暴行を止める者はいない。高山達はもう自分では止められなかった。我関せずと、関わりたくないと思っている者もいた。だが、充満する空気の中、それもまた意味をなさない。


 高山幸助は嗜虐心が満たされるのを感じていた。自分は絶対的強者。他者を虐げる存在。弱い者を踏み躙って君臨する存在。自分は強い。自分には力がある。目の前で蹲っているムカつく奴を殴りながら、その全能感に酔っていた。


 自分は支配者だ。小学校低学年ではまだスクールカーストという概念が確立しきっていない。それでも、それは確実に生まれようとしていた。人は平等ではなく、弱い奴が強い奴に楯突くことは許されない。それがこの世界の厳然たるルールだ。


「痛いよ! やめてよ! ボクじゃない!」


 ふと、なにか違和感を憶えた。壊れたレコードのようなナニカ……。


 しかしそんな些細な違和感は圧倒的なまでの陶酔感にかき消される。今はただ目の前の惨めなゴミを、無様に這いつくばらせて、泣かして、嘲笑ってやることしか考えられない。


「貴方達、何をやってるの!」

「みんな止めて!」


 三条寺涼香と氷見山美咲が教室に駆け込んでくる。


「コイツが悪いんだよ!」


 嫌な予感が的中したことに三条寺涼香は胸を痛めていた。氷見山美咲もまたこの数日で日に日に憔悴を強めていた。


 昨日の放課後はちょっとした大騒ぎになっていた。生徒達の靴が池に沈められていたからだ。最初は靴が隠されていると、一人の生徒がそう報告してきた。だがその報告は一人では済まなかった。このクラス全員の靴がなくなっていたからだ。誰かを虐めるにしてはあまりにも大掛かり。ターゲットが広すぎる。では虐めではないとすればなんなのか――。


 生徒達と三条寺涼香、氷見山美咲は学校内を駆け回って探すことになった。しかしそれは校内ではない場所から見つかる。見つかったのは中庭の池の中だった。


 探し回る生徒達の中に九重雪兎の姿はない。やったのは九重雪兎で間違いなかった。九重雪兎が言っていたことを思い出す。全員敵だと、確かにそう言っていた。普通ならすぐにでも呼び出す必要があった。これだけのことをやって両親に報告しないわけにはいかない。


 だが、それでも、九重雪兎で間違いないのだとしても、三条寺涼香は躊躇した。


 自分達はやってもいない罪を擦り付け犯人に仕立て上げたばかりだ。彼の母親にやってもいない罪を告げ、彼を諭すよう進言したばかりだ。どれだけ確信を持っていても、どれだけ九重雪兎が犯人でしかなくても、冤罪を引き起こした自分達が、もう一度証拠もないのに九重雪兎を犯人扱いすることなど出来なかった。


 だから躊躇した。

 翌日、九重雪兎から話を聞こうと先延ばしにした。


 そう生徒達を説得したが、やはり納得は得られていなかったのだろう。また自分は間違えた。その甘い判断が、今度は暴行事件を引き起こした。決して喧嘩ではない。一方的な暴行。彼は弱々しく蹲っていた。どこかそれが信じたい光景のように、三条寺涼香と氷見山美咲には見えたが、目の前の光景こそが真実だ。


「ボクじゃない! やめてよ! 痛いよ!」


 高山達は教師の姿が見えても暴行を止めない。いや、止められない。自制できる段階を大きく超えていた。


 あぁ、楽しい。弱い人間を踏み躙ることはどうしてこんなにも楽しいのだろうか。殴って、蹴って、屈服させることはこの上なく楽しい。今この空間においてそれは最大のエンターテイメントだ。


 それは人間としての本能とも呼べるかもしれない。剥き出しになった獣性。それはどれだけ人間社会が成熟したとしてもなくなりはしない。誰もが常に隙さえあれば、相手を陥れて、踏み躙って、跪づかせてやりたいとそう考えているのだから!



 だからそう。



 そんな暴力に対抗するのは、



 そんな暴力を止めるのは、



 いつだって――



 それを上回る暴力でしかなかった。



 三条寺涼香は一瞬、九重雪兎と視線が合った気がした。

 

 その瞬間、何事もなかったように九重雪兎が立ち上がると、高山幸助を蹴り飛ばした。


 蹴り飛ばされ、机と椅子が散乱する。


「えっ?」


 氷見山美咲は理解できない。いや、この場にいる全員の頭上に「?」が浮かんでいた。あれほど騒がしかった教室が一瞬で静寂に包まれる。


 九重雪兎は自分を掴んで殴っていた伊藤の指を後ろに折り曲げた。


「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁあ!」


 咄嗟に手を離す伊藤をそのまま殴り飛ばす。


「な、なにやってんだよ!」


 突然の暴挙に動揺の色を隠せないまま北川が殴り掛かってくるが、パンチを振り回しても下半身が付いてきていない。


 そもそも九重雪兎は喧嘩に慣れていた。なにかと運が悪い少年は、こんなことに巻き込まれる経験もそれなりにあった。特別でもなんでもなく、その程度にしか感じていない。立ち向かう為に、普段からランニングや筋トレなども欠かしていない。高揚する気分に任せて、勢いだけで突っかかってくるような相手など、端から相手になるとは思っていなかった。


 不安定な足を払うと、簡単に北川の体制が崩れる。

 そのまま引きずり倒すとサッカーボールのように蹴り飛ばす。


「……グッ!」


 盛大な音を立てて再び散乱する机と椅子。

 高山が何が起こったのか分からないといった表情を浮かべて起き上がる。それでも先程まで抱いていた陶酔感に支配されたまま殴り掛かってくる。


「お前ぇぇぇぇえええ!」


 真っ直ぐに殴り掛かってくる高山の膝に垂直に蹴りを入れると、ガクンと腰が落ちる。そのまま顔面に膝を叩き込む。


「ぷぎゃ」


 聞くに堪えない声を挙げて、崩れ落ちる。鼻血が出ていた。そのまま高山の髪を掴んで引きずり起こすと、顔面を壁に叩きつける。


「……ガァ」


 誰も動けなかった。何が起こっているのか分からなかった。


 そしてそれは高山達も同じだった。

 自分は強者だったはずだ。自分はヒーローだったはずだ。踏み躙って、跪かせて、弱い奴を支配し蹂躙するそんな圧倒的な存在だったはずだ!


 それなのにどうして、どうして、

 今やられているのは自分なんだろう?


 どれだけ理解を拒否しても、何も変わらず、あれほど昂らせていたはずの熱が急速に引いていく。冷静になり、アドレナリンの分泌が止まれば、待ち受け入けているのは痛みという現実だけだった。


「そういえば、高山。ボクの上履きがないんだが知らないか?」

「な、なにを……」


 ゾッとするような冷たい言葉が耳に届く。

 おかしい。さっきまで、あんなに、惨めに、無様に、懇願していたじゃないか!


 それなのに、まるでそんなことはなかったかのように平然とした様子で、その男は自分の顔面を再び壁に叩きつけた。


「――やめ、やめて!」


 グシャリと鈍い音がする。


「ボクがそう言ったとき、お前止めなかっただろ? で、ボクの上履きは泥棒が盗んだんだっけ?」


 もう一度叩きつける。


「なぁ、高山。何処にあるのか知ってるんじゃないか?」


 高山が瞳に浮かべていた嗜虐心は霧散していた。今、瞳に宿るのは怯え。得体のしれない恐怖と痛みという現実に高揚していた気分は塗り潰され、萎縮させていく。


「持ってこい」


 ただそう告げる。


「うわぁぁぁぁぁぁぁあ!」


 高山幸助は泣き喚きながら、教室から飛び出していった。



 ぐるんと、顔を先程まで煽って野次を飛ばしてクラスメイト達に向ける。そして、つかつかとそちらまで歩いていく。誰もが逃げ出したかった。だが、脚が震えて動かない。一瞬で変わってしまった世界に認識が追い付かない。


「ボコボコにしちゃえだっけ? だったらボクも殴って良いんだよな?」

「えっ……あ、ちがっ……」


 風早朱里の胸倉を掴み上げる。

 恐怖に竦んで言葉が出ない。自分の靴を水浸しされ、それをやった相手が殴られているのを見て胸がすく思いだった。もっとやれと思った。だから声援を飛ばしていた。私はなにも悪くない。そのはずなのに、なんで、なんでこうなってるの?


 金縛りが解けるように、ハッと三条寺涼香は我に返ると声を上げた。


「女の子を殴っては駄目!」

「今は男女平等の世の中です」

「そ、それはそういう意味ではありません!」


 慌てて九重雪兎に近づき彼を制止する。恐ろしいほどの力で胸倉を掴んでいた。なんとか引き剥がそうとするが、まったく意に返さない。


「同罪なんですよ。一方的にボクは殴られていた。そしてこいつらはそれを煽っていた。知りませんか? それも暴力です。見ていたでしょう?」

「そ、それは……」


 ここにきてようやく三条寺涼香は気づいた。あまりにもその考えに至るのが遅すぎた。高山達の暴行は自分達が教室に来る前から始まっていた。そして自分達が来てからも続いた。この少年は、わざわざそれを自分に見せていたのだ。


 最初から跳ねのけることができたにも関わらず、自分の行動を正当化するために。そして、言っていることは何一つ間違っていなかった。教唆、或いは幇助。どのみち誰も彼を助けようとしなかった。つまりそれは彼にとって全員同罪だということにしかならない。


「貴方達がボクにやったことも言葉の暴力です」

「それは……!」


 反論の余地などなかった。その通りなのだから。この事態を引き起こした原因は全て自分だ。何一つ彼の言うことに聞く耳を持たなかったばかりにこうなった。


「今からボクはこいつら全員ボコボコにします」

「ひっ……! わたし何もしてない!」

「俺だって知らない! アイツらが勝手に――!」


 責任逃れ、自己保身。ざわつきだす。誰だってそんな言葉を聞けば、そうなるだろう。目の前で彼はそれをやったのだ。わけもなく、実行するだろう。


「駄目です! これ以上、暴力を振るっては!」

「だったらどうするんですか? 教科書も母さんが作ってくれた袋もボロボロです。これは暴力じゃないんですか?」

「どうしてこんな酷いことを……」


 氷見山美咲はボロボロにされた布袋を震える手で持っていた。それが自分の罪なのだと言われているようで目を逸らすことができない。


「こいつら全員の親に連絡してください。それくらい出来ますよね? やってもいないのに母さんに連絡したんだ。だが、こいつらがやったことはすべて事実なんですよ」


 どのみち隠し通すことは不可能だった。高山達の両親には連絡せざるを得ない。だが、目の前の少年はそれで済ますつもりなど毛頭ないようだった。九重雪兎が言っていることは、つまりは全ての保護者に自分達がやった愚かな行為を伝えた上で、謝罪しに来させろということだった。


「ま、待って! お願いだから少し時間をちょうだい! 決して、なかったことになんてさせません。今度こそアナタの話をちゃんと――!」


 狼狽、困惑、混乱。何も考えられない、何から考えて良いのか分からない。今はただ、この場をどうにか収めようと必死に言葉を重ねるしかない。


「――何を騒いでいるのですか!」


 そんな三条寺涼香の思考を中断させたのは、教頭の遠山だった。




‡‡‡




「三条寺先生、これはなんの騒ぎですか?」

「いえ、これは……」


 教頭の遠山は三条寺涼香に尋ねる。しかし、どう返せば良いのか分からず三条寺涼香は言葉に詰まった。


 どうして教頭先生がここに? そう思うが、これだけ騒がしくしていれば他のクラスにも聞こえているだろうし、たまたま通りがかった教頭がそれを気にしたのかもしれない。いずれにせよ運が悪い。もう少し場が落ち着いてからでなければ説明もままならない。


「あ、待ってましたよ教頭先生」

「君は……。この騒ぎは君が?」


 しかし、どういうわけか教頭の遠山に親し気に話しかけたのは九重雪兎だった。三条寺涼香も氷見山美咲も直感的にそれが良くないことだと悟ってしまう。あの少年が何かすれば、それはすべて最悪な方向にしかいかない。


「違いますよ。一方的に殴られていたんです」

「なんだって? ちゃんと最初から説明しなさい」


 平然としているとは言っても、あれだけ殴られていた分、九重雪兎はボロボロになっている。傍目にもそれが嘘でないことは分かってしまう。遠山の目が険しくなるが、まるでそんなことは関係ないとばかりに九重雪兎は続ける。


「それより教頭先生、昨日のお話をもう一度してもらっていいですか?」

「君は何を言ってるんだ? それより何があったのかを説明しなさい」

「教頭先生がお話してくれればすべて明らかになります。お願いします。もう一度聞かせてください」

「それがなんだと……」


 ペコリと素直に頭を下げる九重雪兎に遠山は毒気を抜かれる。


「はぁ……。分かった。なら君は何が聞きたいんだ?」

「ありがとうございます」


 これから何が始まろうとしているのか、三条寺涼香はなんとなく、それを理解しつつあった。




 教壇の前で、九重雪兎は教頭の遠山に質問を続けていく。


「教頭先生は3日前の放課後、この教室の廊下を通りがかったんですよね?」

「その通りだ。この先の倉庫に備品を行く予定があったからね」

「それは何時頃ですか?」

「16時すぎだったと思うが……」

「そのとき、クラスに誰かいましたか?」

「あぁ、一人だけ生徒が残っていた。事故などないように気を付けて帰りなさいと、声を掛けしたから憶えている」

「えっ?」


 声を発したのは氷見山美咲だった。

 その日は15時前に授業が終わっている。16時頃まで教室に残っている生徒など滅多にいない。


「その生徒は誰ですか?」

「うん? そうだな……あぁ。彼だよ」


 教頭の遠山はクラス内を見渡すと、アッサリと指を差した。岡本一弘は下を向き、震えている。


「ありがとうございます教頭先生。最後の質問です。彼はそのとき、どこにいましたか?」

「ん? そこの席に座って帰る準備をしていたが」

「これですべて解決しました。流石は教頭先生。男前だし優しいしご立派です。よ、教師の鏡! 尊敬します」

「い、いきなりだね。そう言ってくれるのは有り難いが、それでいったいこんな質問で何が分かると……」


 九重雪兎は岡本一弘に近づくと、そのままぶん殴った。


 ガシャン!

 と、大きな音を立てて岡本一弘は吹き飛ぶ。

 

「な! 君は何をやってるんだ! 止めなさい!」


 慌てて止めに入ろうとする遠山だったが、九重雪兎は岡本一弘を引きずり起こすとそのまま教壇まで投げ捨てた。


「教頭先生、岡本が帰る準備をしていたそこの席。ボクの机なんです」

「なに?」

「岡本、お前。ボクの席で何してた?」


 今この瞬間、三条寺涼香も氷見山美咲も傍観者にすぎない。だから動けない。まるでそう演劇の観客のように、見せつけられる。これはつまり、彼がやっているのはつまり、断罪なのだと。


「なにもしてない! たまたまそこに座ってただけで――」

「帰る準備をしていた? お前はボクの机から何を出してた? いや、何を入れようとしていた? あの女のコンパクトを盗んだのはお前だな?」

「ち、違う! ボクは――」

「お前が盗んだんだろうが!」

「違う! ちゃんと後から返すつもりで――!」


 恫喝さえも演技なのか、ピクリともしない能面のような無表情。だが、その告白は何よりも雄弁に罪を自白していた。


「いい加減しなさい! いったい何があったと言うんだね!」


 痺れを切らした遠山が声を荒らげる。

 九重雪兎は周囲をぐるりと見渡して言った。


「簡単ですよ。つまりこいつらがグルになってボクを犯人に仕立て上げた。そういうことです」


 “こいつら”。九重雪兎がそう呼んだ中に、自分が含まれていることを三条寺涼香と氷見山美咲は感じ取っていた。


 想定外。岡本一弘にとって、ただそうとしか言えない。拡大する騒動に怖くなった岡本は自分が犯人だと名乗り上げることも出来ず、ただただ傍観するだけだった。だが、それは結局のところ、罪でしかなかったのだ。




「なんということを……」


 遠山は苦渋の表情を浮かべる。九重雪兎は最初からすべてを話した。そしてこのような場で三条寺涼香も氷見山美咲も嘘など付けなかった。その間に泣きはらした高山が九重雪兎の上履きを持って戻ってきたが、その場で再び九重雪兎が殴りつけて、またひと悶着あり、とりあえず殴られた3人は保健室に移した。


「幸い教頭先生が目撃していたおかげで助かりましたが、ボクは弁護士に相談するつもりでした」

「べ、弁護士って……」

「ボクはコンパクトに一切触っていません。なので、コンパクトには犯人の指紋が付いているはずです」

「そんなことになったら……」


 子供の口から弁護士なとという言葉が出てきたことに動揺を隠せない。そうなれば騒動は学外に波及し飛躍的に拡大していただろう。もっとも、そのような知恵を出したのは九重雪兎ではない。九重雪兎は、母親の妹である九重雪華に犯人を見つける為に、どういった手があるのか相談していた。九重雪華もあくまでも可能性の一つとしてポロッと口にしただけであり、それを言うように指示したわけではない。ただそれを九重雪兎が間に受けて発言しただけだった。


「事情は理解した。三条寺先生、どうしてここまで拗れたんです? 貴方ならもっと上手くやれたのではないですか?」

「分かっています。分かっていますが……」


 それこそ三条寺涼香本人が何度となく自問自答したことだった。ここまでの事態になるまでに、何度も何度も引き返すタイミングがあったはずだった。


 そして腹立たしいことにそのチャンスを与えてきたのは九重雪兎だった。彼は今日ここに至るまで何度も手を差し伸べていた。自分達にも、クラスメイト達にも。それは猶予だ。昼休みまでと言った。だが、誰も彼を助けようとしなかった。自分が犯人ではない証拠を出した。だが、誰も信じなかった。


 その果てに引き起こした最悪の結果。悪いのは彼の手を払いのけた自分達。なにもかもが自業自得で言い訳の効かない失態だった。それがどれほど彼を傷つけたのか、どれほど怒らせたのか想像もできない。


「でも、殴ったりすることはいけないことだ。それは分かるよね?」

「もちろんですよ」


 三条寺涼香にはどうしても気になることがあった。


「高山君達にあそこまでしなくても良かったのではありませんか?」

「なにいってんだこいつ? あ、すみません。失言でした」

「貴方は――!」

「いいですか。ボクは一方的に殴られていた。どうしようもなく必死で反撃しただけです。手加減なんてする余裕ありません」


 嘘だ!

 誰もがそう思った。だが、それを嘘だと責めることなど出来るはずもない。結局のところ先に手を出したのは高山達であり、自分達は一方的に殴られる九重雪兎を見ている。彼が嘘だと認めない限り、絶対に覆らない。


 断罪は粛々と続いていく。

 九重雪兎がこちらに視線を向ける。なんて暗い目なんだろう。濁りきった汚濁のように染まった瞳はあらゆる感情を映さない。


 ふと、思い出す。そういえば、今日彼は一度も先生と呼んでいない。呼ばれていない。昨日の言葉を思い出す。そうか、彼は。彼の中では私達はもう、教師ではなく――


「散々ボクに言ってましたよね? 悪いことをしたら謝りさないと。でも、誰も謝罪していないじゃないか。貴方達も高山達も、クソみたいなこの教室の連中も、そこの泥棒野郎も」


 ハッと氷見山美咲が顔を上げる。

 つまりは、自分達もまたこれまで九重雪兎に言ってきたことを何一つ実行していないことを突き付けられる。




「嘘つきなのはアンタ達だ」

 



‡‡‡




 それから三条寺涼香と氷見山美咲は地獄の日々が続いた。事態の収集だけでも数日。保護者に謝罪に向かう日々。自分の子供が殴られて帰ってきたことに激怒していた両親も、自分の子供がやったことを聞かされれば振り上げた拳を下ろさざるを得ない。自業自得でしかないのだから。


 なによりクラスの雰囲気は最悪だった。

 高山達はビクビクと怯え、別人のような姿になっていた。九重雪兎の顔色を伺うことしかできない。落書きされた教科書は全て弁償となった。布袋を刃物で切り裂いた犯人は高山達だったが、九重雪兎はまた容赦なく殴った。


「こ、九重君を犯人扱いするなんてアイツ酷いよね!」

「ウザいから話しかけるな」


 風早朱里が媚びを売るが、最早後の祭りでしかない。すべての元凶である岡本はどんどん孤立し居場所を失ったが、担任の三条寺涼香であろうと誰もどうにもできなかった。あれだけの騒動、他のクラスにも知れ渡り、クラスを移動することさえ難しく、そして環境に耐えられなくなった岡本は後日転校することになる。


 氷見山美咲は限界だった。一介の教育実習生には荷が重すぎた。それでも、彼女の矜持がこのままではいけないと言っていた。このまま終わることだけは許されないと、僅かばかり残った期間を必死で耐えた。


 どうすれば許されるのか、どうすれば伝わるのか。自分はここで逃げられても三条寺涼香は逃げられない。このまま、壊れたクラスで担任を続けていかなければならないのだ。それもまた懸念事項となる。


 今や三条寺涼香との関係は単なる先輩後輩というものではない。奇妙な友情が芽生えていた。或いは同じ罪を背負う共犯関係か。密に連絡を取り合うようになり、いろんなことを話した。


 なんのために、自分は教師になろうと思ったのか。

 教師になってなにをしたかったのだろうか。


 子供が大好きだった。

 だから天職だと信じていた。


 決して誰かを踏み躙りたかったわけじゃない。

 傷つけたかったわけじゃない。


 それなのに、現実はあまりにも無情で、

 自分は、あまりにも愚かだった。


 少しでも彼との関係を改善することが、自分にできる最後のことだと、それだけを信じることでしか、彼女には自分を支える術が残っていなかった。


「それでは、今日で氷見山美咲は最後になります。拍手を」


 パチパチをおざなりな拍手が響く。充実感も達成感も、惜しまれるようなこともない。当然だ。自分がやったことはこのクラスに不和をもたらし崩壊させただけ。こなければ良かったのに。そう面と向かって言われないだけでマシなのかもしれない。


 生徒達の前で挨拶をする。彼に視線を向ければ、無関心そのものだ。一切聞いてなどいないだろう。だが、このままでは終われない。終われるはずなどなかった。


 だから、氷見山美咲は彼の下に向かう。

 そして、深く頭を下げた。


「本当にごめんなさい。君のことを信じるべきだった。君の話を聞くべきだった。今になって謝っても許されないことだと思っています。それでも、謝らせてください。ご両親にもご迷惑を掛けてしまいました」


 伝わっているのかいないのか、その表情からは何も読み取れない。


「私の気持ちです。帰ってから読んで欲しいの」


 手紙を手渡す。昨日、氷見山美咲が徹夜して書いたものだった。何度も何度も書き直した。言葉で謝罪することも重要だが、なにか形になるものを残したかったからだ。こんなことになってしまったとはいえ、自分がこれまでやってきたことには意味があるのだと思いたかった。


 自分の気持ち全てが詰まった手紙。

 それは氷見山美咲の贖罪であり、同時に許されたいという甘えでもあったのかもしれない。


 九重雪兎はそれを無視すると、そのままランドセルを担いで教室の出口に向かう。


「あっ……」

「それではさようなら」



 こうして、氷見山美咲の心は折れ、彼女は教師の道を諦めた。

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