第43話 神代汐里①
女心と秋の空は変わりやすいそうだが、夏の天候もそう言えるかもしれない。晴天は突如曇天に変わり、日差しで熱くなっていた空気を冷やすように雨が降り出す。自然界の摂理は今日も通常運転だった。
夏の風物詩は突然に。
ショッピングモールからの帰り道、突然のゲリラ豪雨に見舞われ汐里のマンションで雨宿りさせてもらうことにする。靴の中に水が染みて気持ち悪い感触になっていた。こうした天気の急変に天気予報は無力だ。持っていたタオルで頭と体を拭いていく。
「先にシャワー浴びて来いよ」
俺はともかく、汐里に風邪を引かせるわけにはいかない。そう提案してみるのだが、何故か汐里は顔を赤くしていた。どうしたの?
「な、なんかその台詞恥ずかしいね……」
いったい何処に恥ずかしい要素があったのか微塵も分からないが、さりとてそれをツッコんでもしょうがない。追求してもロクなことにならないのが世の常というものだ。雷鳴が轟き、厚い雲に覆われた空にフラッシュを焚いていく。
「停電しないかな?」
「そうなったら俺が温めてやるさ」
「なんでそういうこと言っちゃうのユキ!? ワザとでしょ? 絶対ワザとだよね!」
「なんのこと?」
キラキラした素朴で純粋な目を汐里に向ける。
「くぅぅぅぅう! いつも仄暗い目なのに、なんでこんなときだけ純真なの!」
汐里が苦悶の声を上げて悶えていた。いったいなんなんだ。停電になって真っ暗になってしまったら、お風呂に入るのは危ない。浴室で足を滑らせて転倒する危険性だってある。それこそ転倒時に頭でもぶつけたりしたら洒落では済まない。ヒートショックだけでも年間5000人前後、浴室での事故は年間で14000人に上るという。浴室は家庭内で屈指の危険地帯なのだ。暗い中で入るのはあまりにも危険すぎる。みんなも気を付けてくれよな!
もし停電になったら風邪をひかないよう俺がなんとかして汐里を温めてやることくらいしかできないという意味で発したのだが、汐里はいったい何を言ってるんだろう? 思春期だし妄想逞しいのかもしれないね。ま、しょーないしゃーない。
「まだ止みそうにないな」
「うん。夜になっちゃうかな?」
「向こうの方は雲が薄くなってるし、そんなに続かないんじゃないか?」
長引かないのが夏の雨の特徴でもある。依然としてその勢いは留まるところを知らないが、1時間もあれば小康状態になるだろう。
「あ、洗濯物も取り込まなきゃ!」
「やっとく。それより風邪ひくぞ。早く入れ」
「うん! ありがとねユキ。すぐに出るから」
服を脱ぐ布切れの音を尻目に、俺はそのままベランダに向かい洗濯物を取り込み始める。横殴りの雨は容赦なくベランダにも吹き込んでいた。既に濡れてしまっている洗濯物は雨が止んだ後から干しても十分に乾く。乾いている衣服だけを取り込んでいく。今年の夏も暑い。こんな時期にオリンピックの開催など正気の沙汰ではない。IOCもこれには苦笑いだろう。
洗濯物といっても数は少なかった。見る限り神代本人のものだけしかない。
「でかい……」
SUGOI DEKAIブラジャーが干してある。汐里さん、ご立派になられて……。
神代汐里はガタイ的に最強な女子である。
女子には珍しい170㎝を超える高身長(成長期なので記録更新中)。そして単に背が高いだけではなく運動能力に優れている。バスケはもとよりバレーなど運動部から勧誘が引く手数多なのも当然だった。そして何かとは言わないが、身体パーツもそれに応じて規格外なのが神代汐里という女子だ。
そんなことを思いながら、服と一緒に干してあった下着も一緒に取り込んでいく。下着だけ残すわけにもいかないしな。俺には邪な気持ちなどないのだ。
「わぁぁぁぁあ! ユキ、下着、下着はダメ!」
下着を干してあることを思い出したのか、汐里がバスルームから慌てて出てくる。
「その恰好の方が駄目じゃないか? それにもう取り込んでしまったが……」
バスタオルを撒いただけの格好で飛び出してきた汐里だったが、時すでに遅し。その頃には俺は洗濯物を畳み始めていた。母さんの帰りが遅かった頃は大抵の家事は俺がやっていた。今更洗濯物に下着が混じっていたところで動揺することなどない。
それに母さんや姉さんもSUGOI DEKAI。母さんはともかく、姉さんの場合は汐里と違い、そんなに背が高いわけではない。全体のパーツが満遍なく大きい汐里と比べるとアンバランスと言えるかもしれない。
「うぅぅぅ……」
涙目で顔を真っ赤にしたまますごすごと浴室に戻っていく。俺はラッキースケベ展開など期待しない男、九重雪兎である。あの格好のままの汐里と会話を続ければ万が一にもバスタオルがはだけるといったそんな危険なハプニングが起こってしまうかもしれない。それは彼女にとっては本意ではないだろう。俺はそんなリスクは冒さない。リスクマネジメントは完璧だ。
シャワーを終えて出てきた汐里はまだ赤面中だった。あうあうと言葉にならないうめき声を発している。どうしたものかと思案し、とりあえず安心させようと声を掛ける。
「母さんや姉さんで見慣れてるから気にするな」
「き、気にするよ! って、なんで見慣れてるの!?」
「姉さんは嫁スキル皆無だからな。洗濯物とか家事は俺が担当してたんだ」
「そうだったんだ……。だから料理とかもできるんだね」
「昔は母さんが帰ってくるの遅かったからなぁ」
めっきり料理を作る機会も減ってしまったが、今後を考えれば損にはならないスキルだ。Tシャツにハーフパンツというラフな格好で出てきた汐里に畳み終わった洗濯物を渡す。
「それに最近どうしてか、母さんや姉さんが下着姿のまましょっちゅう部屋に乱入してくるんだよね。朝起きたらベッドに潜り込んでることも多いし」
「どういうこと!? ねぇ、どういうことなのユキ!?」
俺が聞きたいよ! 夏休みに入りベッドがクイーンサイズになってからというもの、ほぼ毎日のように誰かしらと一緒に寝ている気がする。俺の安眠を返せ! 一人の夜が恋しい。姉さんはいつの間にか俺の部屋を自分の部屋だとばかりに占拠しているが、自分の部屋に帰れサキュバスめ! 姉退散! 姉退散! 神社に行って悪姉退散のお札でも買ってくるか。売ってんのそれ? ギリギリと怨嗟の波動を送っていると、洗濯物を片付け終えたのか汐里が戻ってくる。
「ユキもシャワー浴びる?」
「俺はいいよ。止んだらすぐ帰るし」
「浴びていきなよ! この後、用事とかあるの?」
「いやないけど……」
「だったら――!」
ははーん。なるほど、さては寂しいんだな?
「分かった。少し借りるぞ」
「うん!」
「変なことしないから安心してくれ」
「なんでいつもそういうこと言っちゃうの!」
「正直者なつもりなんだが……」
「もう! は、早く浴びてきて。一緒にゲームでもしよ?」
ぐいぐいと背中を押される。石鹸の良い匂いが鼻孔をくすぐった。こう見えてストレスを溜めているのかもしれない。その解消に付き合うのは俺の義務だ。
本来なら神代は通学に時間が掛かる逍遥に通うはずじゃなかった。彼女の輝かしい高校生という掛け替えのない青春の3年間を歪めたのも、寂しい思いをしているのも、全て俺が理由であり、汐里はそれを贖罪だと思っている。
俺はいつまで汐里の未来を奪い続ければ良いんだろう?