第35話 知らない感情
吾輩はクズである。名前を九重雪兎という。
「暑い……」
などと、言葉にしても意味はないが、自然と出てしまうのはしょうがない。しょうがないったらしょうがない。今日も30度を超えていた。夏らしい痛いほどの日差しがじりじりと照らしている。セミの鳴き声をBGMにしながら、俺は至極当然のことに気づいてしまった。決して眼前の光景にショックを受けたわけではない。セミファイナルにビビったわけでもない。しいて言えばそれは納得だった。すんなり理解する現実。
俺はショッピングモールに向かっていた。育ち盛りなので、身長も伸びている。中学生の頃に使っていた水着は小さくなっていた。授業程度にしか使わないので滅多に着る機会はないが、大人のお姉さんに誘われてしまえば、そういうわけにもいかない。
澪さんとトリスティさんから水着を選んで欲しいと誘われたが、流石にそれは断った。幾ら何でもそんなイベント、これまで彼女がいたことがない俺にとっては無理難題、六波羅探題だ。2人共、スタイルに優れている。特にハーフのトリスティさんは何はとは言わないが、出る所が出ていて、色々とスゴイ。アレはもうエアバックだよ!
駅から出ると、遠目に見知った姿を見かける。エアバックが揺れている。渦中の人物、トリスティさんの眩しいその髪色は傍目にもとても目立っていた。声を掛けるべきか迷うが止めた。トリスティさんとの関係はとても奇妙だ。俺は被害者であり、相手は加害者。事故によって偶然知り合ったにすぎない。そんな人物から遊びに誘われるというのも不思議なものだ。
俺はトリスティさんと澪さんからプールに行かないかと誘いを受けた。お詫びだと言うが、今となっては返事をしたことを後悔している。トリスティさんは負い目がある所為か、随分と親身になってくれているが、それに甘んじるのは俺にとっても彼女にとっても良くない。
「そりゃあ、あれだけの美人だし彼氏くらいいるよな」
隣にいるのは彼氏だろう。美男美女。待ち合わせでもしていたのか、やってきた彼氏に満面の笑みで駆け寄ると、トリスティさんは勢いよく抱き着いていた。抱き合っている2人はとてもお似合いだ。理想のカップルを体現している。
俺は本当に誘いを受けて良かったのだろうか。トリスティさんの彼氏からしてみれば、俺は邪魔者でしかない。事故の謝罪も賠償も済んでいる。関係としてはそれまでだ。これ以上、トリスティさんが俺に関わる理由は存在しない。
2人きりではないとはいえ、男とプールに遊びに行くなんて、彼氏からすれば良い気分はしないだろう。どうしよう、困ったなぁ……。
暑さにやられ、休憩しようと近くのカフェに入る。おもむろにアイスコーヒーを注文すると、俺は昨日のことを思い出していた。
昨日、汐里は野球部の次期エースだという2年の鈴木先輩から告白されたらしい。わざわざ俺のところに来て、「ちゃんと断ったよユキ!」と、いつも通り快活な笑顔で教えてくれた。
思えば、そのときにも感じていた違和感。汐里は俺に好きだと伝えてくれている。灯凪もそうだ。だが、俺はその返事を返していない。
俺って、ただのクズじゃね?
キープ野郎じゃん。むしろ俺がKEEP OUTだよ! 祁堂会長や東城先輩にしても、よくよく考えてみれば、俺は彼女達が向ける「好意」に対して何も返事をしていない。とんでもないクソ野郎である。
マジ最悪だ……。今まで俺は他者に目を向けることがなかった。拒絶されていると思っていたからだ。俺の世界は俺だけで完結していた。でも、そうじゃないことを知ってしまった。伸ばされた手を掴んでしまった。
鈴木先輩がどんな人かは知らない。遊び半分なのか、それとも真剣に告白したのか分からない。でも、もし真剣に告白したのだとしたら、鈴木先輩は俺よりも遥かに真っ直ぐ汐里のことを見ている。もしかしたら、鈴木先輩はちゃんと汐里を幸せに出来る人かもしれない。汐里が向ける好意を受け止められる対等な存在かもしれない。
汐里は断って良かったのか? あまりにも烏滸がましい考え。本人の意思で断った以上、俺が何かを言う事は出来ない。でも、もし、俺がもっと早く答えを出せていたなら、例えば、俺が汐里の気持ちには答えられないとちゃんと返事をしていたなら、汐里には新しい選択肢があったかもしれない。鈴木先輩の告白が報われることがあったかもしれない。
――俺は残酷なことをしている。
俺は再び誰かを好きになれるのだろうか。いつとも知れないその日が来ることはあるのだろうか。そんなことにいつまでも彼女達を付き合わせて良いのか? 答えを保留したまま、「好意」が分からないと避けたまま、ずっと同じ場所で停滞していることは、彼女達の未来、可能性を奪うことなのかもしれない。
俺は、彼女達の近くにいて良いのかな?
‡‡‡
「レオン、久しぶり! これからは日本にいられるの?」
「あぁ。ようやく俺もこっちに来ることが出来たよ」
トリスティが兄のレオンと会うのは3年ぶりのことだった。トリスティ達、家族が日本に引っ越してくる中、兄のレオンだけが仕事で海外に残っていた。そんな兄もようやく仕事の引継ぎを済ませ、この夏から日本で暮らすことが決まった。しかし、まだ日本の夏に慣れていないのか、うだるような熱気に大量の汗を掻いている。
「家は遠いの?」
「駅から20分だから、いつでも会いに行けるよ」
「そうなんだ。パパもママも喜ぶね!」
「それにしても大変だったね。事故を起こしたんだろ? 大丈夫だった?」
「うん。相手の人がとっても良い人だったから」
「母さんから聞いたときは驚いたよ。トリスティが何事もなくて何よりだ」
兄妹らしい他愛もない雑談をしながら、一緒にモールを回る。こうしてここでトリスティがレオンと落ち合ったのは、兄が暮らすのに必要なものを揃える為だった。レオンは一人暮らしすることが決まっている。
ひとしきり買い物を済ませると、トリスティは目的の場所へ向かう
「あれ、水着を買うの?」
「レオンも選びなよ。持ってないでしょ?」
「なんだか随分派手な水着を見てるけど、彼氏でも出来た?」
「ち、違うから! ユキト君はそんなんじゃ……」
「おっと、図星だったか。今度、紹介してくれよ」
「違うってば! ユキト君は事故の相手で――」
「なんだい? 運命の相手ってこと?」
「そんなんじゃないの!」
ワタワタと否定するが、顔がサッと赤くなるのをトリスティは感じていた。真剣な目で水着を選ぶ妹の様子をレオンは微笑ましく眺めるのだった。
‡‡‡
「大変申し上げにくいのですが、ここは俺の部屋では?」
「知ってるけど」
「怒涛の開き直り、潔いね」
「ありがと」
「褒めてないんだけどなぁ……」
どういうわけか、入浴を済ませた姉さんが俺の部屋で寛いでいる。上気した姿は何処か艶っぽい。自分の部屋と間違ったわけではないらしい。あまりにも堂々としているので俺が間違っているのかと思ったが、どうやら俺は正常だった。
最近思うのだが、姉さんはとてつもなく過保護だ。俺を三歳児か何かと勘違いしている節がある。過去に色々とあった所為かもしれないが、だからといって、このような横暴は許されない。ベッドで寝そべる姉さんのお尻が目に入り、サッと逸らす。幾ら姉とは言え女性である。クソ、そんな薄着でこの俺を動揺させようって言うのか! このサキュバスめ! あと、なんでホットパンツなんだよクソ!
「そういえば、私また胸が大きくなったんだよね」
「その男子禁制トークに俺の付け入る隙などありはしない」
「ブラも新しくしないといけないし、後で測ってね」
「Why!?」
思わず、素っ頓狂な外国人のような反応を返してしまったが、俺にバストサイズを測れだと!? 姉の横暴が留まるところを知らない。ラノベのタイトルっぽい。どうしたことか姉のブレーキが破壊されているが、リコールは効くのだろうか? 自動運転の早期実用化を願うばかりだ。
「一応、一応参考程度に聞いておきますが、なんカップなんでしょうか?」
「Eよ。でも、キツくなってきたからFになってるかも。良かったわね」
「俺が喜ぶ要素どこにあるの?」
「期待しててね」
「うわぁい」
俺の目は死んでいた。死んだ魚のような眼をしていることだろう。魚群探知機でも察知することは出来ないに違いない。
「アンタさ、エッチな本とか持ってないの? この部屋、何にもないよね」
「言動までサキュバスか」
「は? 吸うぞコラ」
「何を!?」
天敵に睨まれたハムスターのようにプルプル恐れ慄いていると、電話が鳴る。スマホではない。固定電話だった。今の時代、固定電話に掛かってくることの方が珍しい。
「俺が出ます」
サキュバスの魔の手から抜け出してリビングに向かう。相手を確認するが、見覚えのない番号だった。
「もしもし九重ですけど」
『あ、私、主任――じゃなくて、桜花さんの同僚ですけど、今、大丈夫でしょうか?』
「どうしました? 今日は飲み会と聞いてますが」
『えっと、貴方は雪兎君かな? あのね、主任が君に駅まで迎えに来て欲しいって言ってるんだけど、大丈夫?』
「母さんが? タクシーは駄目なのでしょうか?」
『うーん、私もそう思うんだけど、主任が君に来て欲しいって言うから。酔い潰れちゃったみたい。なんとか一緒に帰ってきたんだけど、このまま一人で帰ると危ないし、連れて帰ってあげて』
「そうでしたか。分かりました。今から向かいますね」
『うん、待ってるね』
母さんが酔い潰れるというのも珍しい。というより殆ど聞いたことがなかった。普段、あまり飲み会などには積極的に参加する方ではないが、最近は社員の多くが在宅ワークに切り替わっていることもあり、会社での交流というのが減っているらしい。
それもあって、飲み会が企画されたと母さんが言っていた。それにしても、迎えに来いというのは意外な申し出だ。母さんならタクシーを使ってそのまま帰ってきそうなものだが……。
ま、気にしてもしょうがない。俺は、姉さんに一声掛けると、着替えて駅に向かって歩き出した。
‡‡‡
「すみません、お待たせしました」
「君が雪兎君? 初めまして、私は主任の部下で柊遥です」
駅についてすぐ、聞いていた場所から少しばかり離れた位置で2人は座って待っていた。見るからに母さんはグッタリしている。仕事中はいつもピシッとしている母さんにしてはそれも珍しい光景だった。アルコールの匂いがするが、柊さんはそこまで酔っていないらしい。顔立ちを見ると、母さんよりかなり下に見えるが、とても若い。大学生だと言っても通用しそうだ。
「連れてきてくれてありがとうございます」
「あ、気にしないで! 主任のお願いだし。あと、ちょっと雪兎君に話したい事があって」
「俺にですか?」
ベンチに座っている母さんから少しだけ離れる。聞かれたら不味い話なのだろうか? 今の母さんを見ていると、そんな余力はなさそうだが……。
「いつもは主任も酔ったりしないんだけど、なんだかとても機嫌が良かったの。それで、つい飲み過ぎちゃったみたい」
「そうなんですか?」
「雪兎君と仲良くなれて嬉しいって言ってたよ」
「喧嘩なんてしていませんよ」
「うーん、詳しくは知らないけど、悩んでいたみたいだったから」
そんな風に話す柊さんの視線が一瞬、鋭さを増す。
「それでね雪兎君。君に聞いて欲しいことがあるの」
「はい?」
「主任、桜花さんって美人でしょう」
「そうですね。息子の俺から見てもそう思います」
母さんが美人なのは俺が一番良く知っている。体形も全然崩れていないし、いつまでも若々しい。それでいて、ここ最近は姉さん同様スキンシップが苛烈になってきており、思春期なDTボーイたる俺はいつも雑念を払うのに四苦八苦しているのだった。
「だからね、主任は会社でとても人気があるの」
「そうなんですね」
「今日なんて、主任が酔い潰れるのなんて珍しいから、男共が寄ってきて大変だったんだから」
「お手数をお掛けしました」
「それはいいんだけど、言い方を変えるね。雪兎君にとっては聞きたくない話かもしれないけど、主任を狙っている人が多いってことなの」
「えっと、それは再婚っていうことですか? 俺は母さんが望むなら再婚に反対する気はありません。多分、姉さんもそうじゃないかと」
「そういう真剣なお付き合いだったら良いんだけど、要するに身体だけってことよ」
「それは……」
「酔った主任にセクハラしようとしたり、お持ち帰りしようとしたりね。もうこればっかりは主任の美貌が悪いんだけど」
「あまり気分の良い話じゃないですね」
「でしょう? だからしっかり守ってあげてね!」
「俺がですか?」
「普段はしっかりしているから大丈夫だろうけど、今日みたいなときはね。そういうこともあるかもしれないってこと。主任にはきっと君だけが頼りだから」
「さっきも言いましたが、母さんが再婚するつもりなら俺は反対しません。勿論、身体だけの相手とかは勘弁ですけど」
「うーん。そんなつもりないと思うよ?」
「はい?」
母さんは美人だ。会社でもモテるのも当然だ。俺はいつか母さんが再婚することもあると思っていたし、それに反対する気もなかった。けど、まさか再婚の話じゃなくて、母親がただ性的に狙われているなどと聞かされるとは……。
「主任、いつも君のことばかり気にしているし、それにあの顔はどちらかというと――って、これ以上は私は言う事じゃないわね。主任のこと、ちゃんと見ていてあげてね! じゃ、私も帰るから」
サラッと爆弾を投げつけて柊さんは帰っていく。いったい最後に何を言おうとしていたのだろうか。母さんに視線を戻すと、ふわりと幸せそうな目をこちらに向けていた。
「さて、帰りますか」
‡‡‡
「ごめんね。迷惑かけて」
「良いよ。これくらい」
母さんに肩を貸しながら、2人で家に向かう。家まではそう遠くない。タクシーを使おうとしたら母さんに止められてしまった。歩いて帰りたいらしい。健康の為だろうか? スタイルを維持するのも大変だよね。
「さっき、柊となにを話してたの? まさか告白されたとか!? 部下となんて、ゆ、許さないからね!」
「初対面でいきなり告白とかないでしょ」
「そんなの分からないじゃない。魅了の魔眼持ってるし」
「初耳ですけど!? 持ってないし。あと、それ絶対に皆、不幸になるやつじゃん」
「じゃあ、なんであんなにモテるの?」
「母さんの子供だからじゃないかな」
「えっ? そ、そう。私の所為なんだ……」
「だって母さん、モテるんでしょ?」
「もう歳だし、そんなことないわよ」
「柊さんが男共に狙われて大変だったって言ってたけど」
「あはは……。そっか。ごめんね、嫌な気分にさせたよね。今日はちょっと飲みすぎちゃったから。普段はそんなことないんだけど。そういうときに狙ってくる奴なんて結局誰でも良いのよ」
「母さんが再婚するつもりなら反対しない。でも、そういう相手は勘弁かな」
「私だって、そんなセフレみたいな相手は嫌よ。それに、再婚なんてしないから」
「どうして?」
「雪兎がいるじゃない」
「説明になってないと思う」
「いいの。今はそれだけで幸せだから」
「ちょっと、あんまり動かないで。柔らかい何かが当たってるし!」
「当ててるの」
母さんが何処なく悪戯っぽ笑みを浮かべながら身体を寄せてくる。今までこんな風に接したことなどなかった。おかげで俺の緊張感はマックスになっている。夜だがまだまだ気温は高い。今日も熱帯夜になりそうだ。暑さによる汗か、それとも冷や汗なのか、早く帰ってお風呂に入りたい。
「そうだ、帰ったら一緒にお風呂に入りましょう」
「Why!?」
素っ頓狂な外国人再びであった。今後の登場は差し控えさせていただきます。母さんも母さんで無性に過保護である。母親と一緒にお風呂に入る年齢ではない。だから俺は三歳児ではないというのに。そうだ、何か話題を変えないと……。
「あ、そういえば姉さん、また胸が大きくなったらしいよ」
「あら、そうなの?」
「Fだって」
「ふっ、私の勝ちね。私はGだから」
「衝撃のカミングアウトだけど、張り合う必要ある?」
「あとで、お風呂で見せてあげる。触っても良いわよ」
「しまった! 話題が変わってない!?」
空を見上げると、今日も月は変わらずに夜を照らしている。
月は変わらないが、俺は変わった。これまで知らなかった感情が胸の中に渦巻いていた。他者のとの関わりの中で生まれている葛藤。
いつか、この感情が何かを知る日が来るのだろうか?