第30話 追想のスタンド・バイ・ミー③
「灯凪さ。今日俺の家、誰もいないんだよね。来なよ」
「えっ……?」
最低の気分。暗澹たる気持ちはこういうことを言うのだろう。チラリと隣に視線を送る。この人誰だっけ? 何故、私はこの人と一緒に帰っているんだろう? 馴れ馴れしく灯凪と呼ばれて寒気がする。下卑た醜悪な笑顔。視線が私の全身を舐め回すように這っていくのを感じる。身体を貪られるような、おぞましい視線。そうだ、この人は先輩なんだっけ? あれ、この人は今、何を言ったの? 家に来いって言ったの? どうして行かないといけないの? 私の気も知らないで、ヘラヘラと隣を歩く先輩は続けてくる。
「俺達、もう付き合って2週間だろ? そろそろ良いんじゃないか?」
「なにを……?」
そんな心情とは裏腹に、私は、今、薄ら笑いを浮かべながら、先輩の言葉を聞き流している。いい加減な相槌、まるで実りのない会話。なにもかもが無駄でくだらない時間だった。
何が良いのだろう? いったい、この人は私のなんなの? 名前なんだっけ? 聞いた気がしたがどうでも良かった。後ろ髪を引かれるように意識は学校へと向いている。今すぐにでも戻らなきゃ。戻って雪兎に会わなきゃ! なのに、私は先輩と一緒に帰っている。いったい私は何をしているの?
自分自身が分からない。感情の制御も出来ない。家に帰りたくないという気持ちはあった。1週間程前から妹とは絶交状態にある。妹の灯織に現実を突きつけられた。忌まわしい、あまりにも愚かな私を断罪された。灯織は激高していた。
今だその怒りは収まっていない。それどころか日に日に悪化している。なのに、私は何一つ反論することさえ出来ない。そう、これが現実。この隣を歩いている男は、私の彼氏。
――いやだ、いやだ、嫌だ、嫌だ!
全身を掻きむしりたい衝動に駆られる。雪兎以外が彼氏なんて、こんな人が彼氏なんて、そんなの嫌だ! でも、それはすべて私の自業自得で、だから今、私の隣に立っているのは先輩で、雪兎じゃない。こんなことに浪費している時間など、ないはずなのに。今すぐにでも雪兎に伝えないといけない言葉が、気持ちがあるのに!
あれから雪兎は、まるで私の事など存在しないように振舞っている。私との関係などなかったように。「俺がいたら迷惑でしょ?」最後に交わした言葉は、随分とあっけないものだった。
雪兎はそれでいいの? 私達の積み重ねた時間は、たったそんな言葉一つで終わってしまったの? 幼馴染の絆そんなにも脆いものだったの?
終わらせたのは私だ。私がそれをしたはずなのに、今の状況を受け入れられない私は、ただ現実逃避するしかなかった。最低なのは私だ。隣にいる先輩は、私に告白してきて、私はそれを受け入れた。そう、私が受け入れたんだ。それなのに、私は先輩をまるで邪魔者のように扱っている。
私の気のない返事に苛立ったのか、先輩は少しだけ語気を強くする。
「灯凪と俺さ、恋人らしいこと全然してないでしょ?」
「えっと……そういうのはまだ……」
「じゃあ、いつなら良いの?」
「いつって……」
そんな日など来るはずない。私は先輩に、好意どころか嫌悪を抱いている。絶対に嫌だ。触れられたくない。手を繋ごうとしてきた先輩を拒否する。そういえば、去年、夏祭りの日、雪兎は私と手を繋ごうとしてくれた。混雑していたからだろう。嬉しかったのに、ビックリした私は、思わず恥ずかしさからその手を払いのけてしまった。あれからずっと後悔していた。それでも、雪兎はいつも通り無表情だった。でも、本当はそんな私の態度に傷ついていたのかもしれない。
私は最低だ。先輩を利用しようとしただけ、先輩の告白を利用しただけ。雪兎に対する当て馬にしているだけ。あまりにも醜悪な行為。その罪悪感と負い目が言葉を濁らせる。
「俺だって我慢してるんだぜ? なぁ、いいだろ?」
「キャッ!」
急に先輩が私の両肩を掴む。そのまま勢いで壁に身体を押し付けられた。まだまだ明るい時間帯だが、周囲に人はいない。この人は何をしようとしているの? 私は何をされるの? 突然のことにパニックになってしまう。幾つもの疑問が頭をよぎる。ただ分かるのは、それは私にとって最悪なことにしかならないということだ。
徐々に先輩の顔が近づいてくる。キスしようとしている? このまま強引に奪われるの? 雪兎じゃないのに? こんな良く知らない人に? 私の大切なものが……。
「いや……ちょっと、止めて!」
そういえばサッカー部だったっけ? そんなことさえうろ覚えだ。必死に抵抗するが、ガッシリとした身体はビクともしない。その間にもどんどん先輩の顔が迫ってくる。50センチ、40センチ、30センチ、そして遂には数センチになり、その息遣いさえ聞こえるような距離になり、私の唇は――
「嫌だって言ってるでしょ!」
思い切り先輩の足を踏み抜き、私は先輩と自分の間に学生鞄を突き入れると、そのまま一気に突き飛ばした。先輩は倒れはしなかったが、咄嗟のことでよろけてしまう。先輩の目には憤怒が浮かんでいた。
「なんなんだよ! お前、いい加減にしろよ!」
「それはアンタでしょ! 最低っ!」
「ふざけんなクソ!」
最低なのは私だ。分かってる。先輩は私が好きなだけ。私はそれを利用しただけ。彼女として何も先輩に答えていない。あまりにも卑劣なクズ、それが私だ。どれだけ罵られても、罵倒されても罵声を浴びせかけられても何も言えない。
私はその場から駆け出した。目の前の現実からどれだけ逃げても、現実逃避を繰り返しても何も変わらないのに。でも、奪われたくなかった。それを奪われたらきっともう私は二度と彼の前に立てないだろうから。完全な自己保身。どれだけ無様な馬鹿女だと嘲笑されても、妹から絶交されても、それでも私はどんなに卑怯でも、それだけはされたくなかった。
家に着いた私は、先輩に「別れましょう」とメールを送る。
ベッドに座り、震える手をそっと握り締める。私がやったことは先輩を都合良く振り回しただけだ。先輩は恋人同士がすることを私に求めたにすぎない。それを一方的に私が拒絶した。悪いのは告白を受けた私で、醜悪なのも私だ。誰がこんな女を好きになるんだろう? 素直になれずに、こんな馬鹿げたことをしでかしている女なんて、本当は最初から雪兎の隣に立つ資格なんてないのに。
悪夢のような毎日だった。あの日からずっと夢の中にいるような現実感のない日々を繰り返している。でも、本当の悪夢これからだった。他人を利用しようとした私への罰。
地獄が始まるのはこれからだったんだ。
‡‡‡
「雪兎、聞いたか? 硯川さんってお前の幼馴染だったんだろ?」
「昔の事だ」
「気にならないのか?」
「付き合ってるんだし、そういうこともするんじゃないか?」
「いつもながらドライだねー。しかし、硯川さんって、そういうタイプに見えないけど、やることはやるんだな」
「それだけ好きってことなんだろ」
中一から同じクラスの皆川に俺は気にしてないとばかりに軽口を返した。別に気にしてなんかないんだからねっ! と、ツンデレ風に言ってみるが、実際に気にしてなどいなかった。マジだからマジ! 何故なら、その話を聞いたときから、俺はもうすべてがどうでも良くなっていたからだ。
俺はDIYに精を出しホームセンターを聖地と崇める男、九重雪兎だ。俺の恋心はDIYのように形にすることが出来なかった。一度砕けた気持ちは修繕出来ない。それにもう俺と硯川は無関係だ。そもそも幼馴染といっても、結局そんなものは他人にすぎない。そこには何の繋がりもないのだから。
「硯川さんって、もう経験したんだ。早いよね」
「そうかな? 私はそうは思わないけど」
「えっ、咲奈ちゃんもしかして……」
「私達くらいの年なら一般的なんじゃない?」
「そんなことないよ! ねぇ、咲奈ちゃんもしちゃったの!?」
「ふふっ」
「ちょっと、教えてよ!」
「硯川さんの処女とか、先輩が羨ましい!」
「おい、あんまり下品なこと言うなよ」
「俺も告れば良かったかな?」
「硯川さんとヤレるならワンチャン――」
「ねーよ!」
クラスはその話題で持ち切りだった。硯川灯凪は2年生の中でもかなり人気がある。そんな彼女がサッカー部の先輩と付き合い始めたという情報はすぐに広まったが、それから2週間程が経った今、先輩と初体験を済ませたらしいという噂が流れていた。
硯川がセックスをしたという噂は瞬く間に広がり、格好の話題として関心を引いていた。思春期の中学生にとっては刺激的な話題だ。別に誰も批判しているわけでも中傷しているわけでもない。口さがない人々というわけでもなく、ただ純粋に興味がある。それだけのことだろう。
俺は右手を宙に掲げてみた。硯川との付き合いは10年近くになるだろうか。そういえば、去年、夏祭りに行ったとき、手を繋ごうとして拒否されたんだった。
幼馴染として、10年近く時間を積み重ねた。だが俺は手を繋ぐことすら拒否され、2週間程度付き合った先輩には身体を許しセックスをした。それが俺と先輩の差であり、「好意」を持たれている先輩と、「嫌悪」されている俺との違いなのだろう。
なんとも情けなくて笑えてくる。惨めだな俺は。硯川のことは気にしてないが、俺自身は酷く滑稽だ。積み重ねた時間なんて何の意味もなかった。そこには何の価値もなかった。なにもかもがゼロで、それどころか俺は常にマイナスでしかない。母親からも疎まれ、姉さんからも嫌われてるんだ。親子の絆も姉弟の絆もないのに、どうして幼馴染の絆なんてものが存在すると考えてしまったのか、どうして両想いだなんて甘い幻想に浸ってしまったのか。
最初から分かっていたはずだったのに。「好意」なんて向けるべきじゃなかった。誰かを「好き」になったことが間違いだった。「好き」なんて気持ちは俺にとって不要なものだ。必要などない。迷惑になるだけ、邪魔になるだけ、俺にあるのはゼロかマイナス。それ以外に何もない。何も思わないし、何も期待しない。するべきじゃない。他者を求めるな。俺は一人で、俺には誰も要らない。それでいいはずだ。そうあることだけが俺に求められているはずだ。
俺は硯川が好きだった。確かに好きだったはずなのに。かぶりを振る。聞こえないはずのに音に苛まれる。いったい何の音なのか分からない。それはただの幻聴に過ぎない。でも、きっと俺はまた何かを喪失したのだろう。また何かが壊れたのだと、俺の中の何かがそう言っていた。
俺はもう硯川を「好き」だった気持ちすら、思い出せないのだから――
‡‡‡
「どういうことなのお姉ちゃん!」
目の前のいるのが自分の姉だとは到底思いたくなかった。見たくない不快な存在。1週間程前から、私はお姉ちゃんと喧嘩している。これほどまでに喧嘩したのは初めてだった。しかし、これまでと決定的に違うのは、私がお姉ちゃんを見る目だ。今は目の前にいる姉が、汚らわしく、醜く、穢れた存在にしか見えない。こんな奴が姉だなんて思いたくない!
「セックスしたって、どういうこと!? お兄ちゃんがいるのに最低!」
「違う! 灯織、私はそんなこと――!」
「信じられるはずないでしょ! 嘘つき!」
「そんなことしてない! セックスなんて私は――!」
「汚い手で触らないで!」
よろよろと手を伸ばしてくる姉の手を払いのける。許せない。絶対に許せない! お兄ちゃんから聞いたことが信じられなかった私は、学校で色々と話を聞いてみた。その結果、お姉ちゃんが3年生の先輩と付き合い始めたのが事実だということが分かった。
お兄ちゃんを疑っていたわけじゃない。私が信じたくなかったんだ。私が憧れた綺麗な夢物語、子供の頃から互いの事が好きだった両想いの幼馴染同士が結ばれる、そんな幸せなハッピーエンドが壊れてしまったなんて認めたくなかった。
だから、先週、私はお姉ちゃんを問い詰めた。でも、お姉ちゃんが言う事は支離滅裂で要領を得なかった。曖昧な態度で何かを隠しながら、ずっと塞ぎ込んで後悔していた。埒が開かない。お姉ちゃんと口も利かない日々が続いた。
そして今度耳に入ってきたのが、お姉ちゃんが3年生の先輩とセックスしたという噂だった。先輩と初体験を済ませた。そんな噂。お姉ちゃんは美人だ。私達1年生の間でもそこそこ知られている。下級生にも噂は瞬く間に広がり、それは当然私の耳にも入ってくる。
噂の出所は簡単に判明する。お姉ちゃんの彼氏になった先輩が自慢をしていたらしい。姉が誰かとセックスしたなんて話を聞かされる身にもなって欲しい。でも、そんなことはどうでも良かった。私が許せないのは、その相手がお兄ちゃんじゃないこと。それがお姉ちゃん自身も、そして何よりお兄ちゃんを裏切る行為に他ならないからだ。
「……妊娠なんてしてないよね?」
「妊娠って!? そんなことあるはずないでしょ!」
お姉ちゃんが顔面蒼白で狼狽している。私だって、もう中学一年生だ。保健体育の授業だって受けている。セックス、性行為がどういったものなのかくらい理解している。それは快楽を求める行為であり、その本質は子供を作ることだ。
私はしたことないが、避妊に失敗すれば子供が出来る事もあるという知識くらい持っている。姉の表情を見る。妊娠に怯えているのか、本当にそんな行為なんてしてないのか、何も分からない。お兄ちゃんをどうしたフッたのか、それさえも分からなかった。
今のお姉ちゃんは何一つ信用出来ない。嘘にまみれた汚物、こんな汚らわしい人が姉だなんて思いたくない。私は生まれて初めてお姉ちゃんを心底軽蔑し嫌悪していた。今までお姉ちゃんのことは大好きだった。たった2人の姉妹だ。嫌いになることなんてなかった。それなのに今は、吐きそうなくらい気持ち悪い。
「だったら、妊娠検査薬でも買ってきて証明しなよ!」
「してない、灯織、私はセックスなんてしてないの!」
「先輩と付き合ってるんでしょ? セックスしてたっておかしくないよね? なんでそんなに否定するの? してたんでしょ? 素直に言いなよ? お姉ちゃんはお兄ちゃんをフッて、裏切って、先輩に処女を捧げて、セックスしてたんでしょ!」
「違う! そんなこと――!」
「お兄ちゃんを裏切ったお姉ちゃんなんて大嫌い!」
「灯織!」
「パパとママにも言うから」
「それだけは止めてっ!」
お姉ちゃんは顔をグシャグシャにして泣いている。でも、そんなこと関係ない。先週はまだ状況が良く分からなかったから言わなかったけど、セックスをしたなんて聞けば、パパやママにも伝えないといけない。
そんなの当たり前だ。もし、本当にそれでお姉ちゃんが妊娠していたりすれば、お姉ちゃんの学生生活も何もかも全て終わりだ。まだ中学生のお姉ちゃんに子供を育てることなんて出来ない。デキていれば、堕胎しなければならないだろう。孕ませた相手の親とも話し合う必要がある。いずれにしても、お姉ちゃんや私だけでどうにか出来る問題じゃなかった。
パパやママもお姉ちゃんがお兄ちゃんを好きなことを知っている。お兄ちゃんだって、昔は良く家に遊びに来ていた。最近はあまり来なくなったけど、パパやママも息子のように可愛がっていた。お兄ちゃんは家族みたいなものだ。そんなお兄ちゃんだから、私はお姉ちゃんと一緒になってくれると信じて疑わなかった。だから、この気持ちに蓋をしてきたのに、お姉ちゃんはそんな私の気持ちさえ裏切ったんだ!
「もう顔も見たくない!」
「ごめんね灯織、こんなことになるなんて思ってなかった! これは私の罰なの! だから――」
そうして、お姉ちゃんは家族の前で全てを告白した。自分のしてしまった愚かさに泣き崩れながら、罪悪感に苛まれながら、抱え込んできた想いを吐露していく。一度溢れ出した言葉は止まることなく続く。それはあまりにも自分勝手で、身勝手で、他者を傷つけるものだった。
お姉ちゃんは泣いているが、そんなの全て自己責任だ。本当にセックスをしていたとしても、していないのに、そんな噂を流されたのだとしても、そんなのなんも言い訳も出来ない。相手の先輩もクズかもしれない。でも、お姉ちゃんも紛れもなく最低のクズだ。先輩とお姉ちゃんは付き合っている。セックスだってしていてもおかしくない。それは、お姉ちゃん自らが招いた事態だ。
冷めた視線でお姉ちゃんを見ながら、私の意識はお兄ちゃんに向いていた。これだけ噂が広まっているんだ。お兄ちゃんだって知っているはずだ。何を想ったのだろう、お兄ちゃんはどれだけ傷ついたのだろう。ショックを受けているのだろうか、或いはもうとっくにお姉ちゃんなんて見限ってしまっているのだろうか。
お兄ちゃんはモテる。こんな卑怯で醜い姉より、もっと素敵な女性が沢山いるはずだ。お兄ちゃんを傷つけない、幸せにしてくれる、お兄ちゃんだけを見てくれる女性が。
「お兄ちゃん、私じゃ駄目なのかな……?」
もし、それが私だったら良いのに。初恋は実らない。それでも良かった。いつかお兄ちゃんが本当のお兄ちゃんになってくれるなら、それが私の幸せだった。でも、蓋をしたはずの感情が零れだす。
私なら、絶対にお兄ちゃんを悲しませたりしないのに。