第21話 手遅れからの一歩
「――! ――ッ!」
誰かの声がする。俺はその声を気に掛けることなく、目の前の光景に魅入られていた。遠くまで見渡せる絶景。何処までも吸い込まれるような空と地上。もう1歩、たったもう1歩足を踏み出しただけで、俺はその一部となれるかもしれない。無意識に身体が良き寄せられる。
どうせ消えるつもりだった。居場所など何処にもない。それが今であっても何の問題もない。俺は無価値で必要ない。なら、この衝動に身を任せたって良いじゃないか。それで誰が困るわけじゃない。それで誰が悲しむわけじゃない。なんて、なんて狂おしい程に俺を惹きつけて止まない。
だから、俺は――――。
‡‡‡
雨が俺の頭を冷やしていく。黒いアスファルトに出来た水たまりをぼんやりと見ていた。硯川の家から帰ると、日はすっかり落ちて辺りは既に暗くなっていた。夜道をただ一人、彷徨うように歩き続ける。
硯川の体温は温かった。といっても、くんずほぐれつ抱き合っていたわけではない。俺と硯川はただ一緒にいただけだ。硯川は先輩と何もなかったことを証明させてと言っていた。しかし、今の俺にはその気持ちを受け止められない。同じだけの気持ちを返せない。だから何もしなかった。けれど、手だけを握りあって話し合った。これまでの時間を埋めるように。それが今の俺と硯川の距離だ。
自問自答を繰り返す。それでいいのか? いつから俺はこうなった? 硯川の家でも感じた疑念が今も俺の中に渦巻いている。1アウト、ランナー1塁から迷いなくエンドランを仕掛けるのがこの俺、九重雪兎だ。そうだ、これだ。いつから九重雪兎はそうなっていた? 自らの思考に疑問を感じる。偏り、偏向、何処か歪んでいるような、歪まされているようなそんな違和感。
何故、気づかなかった? 何故、疑問に思わなった? それもまた不思議だった。奇妙な思考の偏在。俺のメンタルはスーパーアラミド繊維並に強度に優れているが、それもいったいいつからそうだったのか、そうなったのか、思い出そうにも思い出せない。
俺は……いや、九重雪兎は誰なんだ?
「ふぅ……」
姉さんの部屋の前で大きく息は吐いた。その疑問に答えを出さなければ俺は前に進めない。壊れ続け停滞し続ける。俺はそれでも良いと思っていた。そのことに対して何も思わないし気にならない。
でも、多分そのままだったら、きっと誰かが悲しむんじゃないかと思ってしまった。俺が今更幾ら傷つこうがどうでもいいが、誰かを傷つけたくはなかった。そして恐らく俺は、そんな風にこれまで誰かを傷つけてきたのかもしれない。
ノックする。22時を回ったくらいだが、まだ起きているだろう。自嘲する。良いだろもう? どうせ嫌われているのだから、今以上に嫌われたところで何かあるはずもない。そうだ気にするな。俺は見つけないといけないんだ。本当の俺を。見失ってしまった本当の九重雪兎を。
その為には、これまでと違うアプローチが必要になるはずだ。これまでと正反対で、俺がこれまで避けてきたことに答えがあるかもしれない。だから進まないといけない。どんなに傷ついても。もう傷つくことには慣れている。でも、もう誰かを泣かせたくはない。
「どうしたのこんな時間に?」
パジャマ姿の姉さんが出てくる。これといって眠そうにしているようにも見えない。予習でもしていたのだろうか。姉さんは俺と違ってべらぼうに優秀だからな。まったくどうして姉弟でここまで格差があるのか、驚異の格差社会。しかし、姉さんは母さん似なのだろう。脅威な胸囲を誇っている。フヒヒ。
「少しだけ話があるんだけど、良いかな姉さん?」
「アンタが私に? 珍しいね。おいで」
姉さんが部屋に入れてくれる。姉さんの部屋に入るのはいつ以来だろう。きっと10年以上前だ。あの日から俺達はずっとそんな関係だった。互いに干渉せず、互いを見ず、俺は姉さんを避けてきた。でも、姉さんはそうだったか? 思い返す。それに何故、あんなことをした? 俺が嫌いなんじゃないのか? 恐らく誤っているであろう解答を導き出そうとする思考を強制的に中断する。ふと、姉さんの動きがピタリと止まった。
「――――えっ? ちょっと待って。アンタ今なんて言ったの?」
「姉さん? あぁ、ちょっと話があって」
「雪兎……? 雪兎! 雪兎――!」
ガバッと姉さんに抱き着かれる。なんなんだよ今日は! やたら抱き着かれる一日だった。フリーハグの日か何か? 俺の理性が浮沈艦、戦艦大和じゃなかったらトンデモナイことになってますけど? いや、沈没してるじゃん。相変わらずふざけた思考が加速していく。それでも前に進もう。ここで終わっては駄目なんだ!
‡‡‡
「まじやばたにえん」
昨日は本当にヤバかった。結局あの後、感極まった姉さんに抱きしめられたまま寝る事になってしまった。母さんといい姉さんといい過保護すぎであった。むしろ問題なのは俺である。良い歳して姉と一緒に寝ているなど、口が裂けても言えない。
いや、まておかしくないか? これまで俺はそういうことをなんら気にせず、当たり前のように口にしていたのではなかったか? 何故、口が裂けても言えないと思った? 今までの俺ならそんなことを考えなかったような……。
まぁ、いい。登校して早々に悩むのも馬鹿らしい。今日は俺にとってはやることが沢山ある。俺は俺を見つけるために動かなければならない。これまでと違う何かを。これまでとは違う俺として。
「どうした雪兎、難しい顔して」
爽やかイケメンは今日も爽やかだった。昨日から雨は降り続ているが、爽やかイケメンの顔は今日も晴れている。まったくもって季節感のない奴だった。四六時中晴れていると疲れないの? 曇りとかないの? だが、俺は気象予報士ではない。今日はそんなことに構っている暇はなかった。
「巳芳光喜、俺はバスケ部に入ることにする」
「なに!? 本当か! どういう心境の変化なんだ?」
「とりあえず熱血先輩の言っていた大会までだ。そこから続けるかどうかはその後次第だな」
「分かった。じゃあ俺も入部する!」
「キモッ! ついてこようとすんなよ。俺のこと好きなの?」
「そりゃあそうだろ」
「そりゃそうなのか」
何故か緊張感に包まれている教室内からは黄色い歓声が上がっていた。これに関してはなんとなく深入りすると藪蛇になりそうなので俺は見ないフリをした。仕方ないよ。俺はコミケ2日目的な世界に造形深くないし。
「神代……いや、汐里」
「ユ、ユキ……?」
恐る恐るこちらに視線を送っていた神代に声を掛ける。俺に関わったばかりに傷つけてしまったかもしれない。俺は神代が原因で骨折したし、それが原因で大会にも出れなかった。それは事実だ。だが、とっくにぶっ壊れていた俺は別にそのことで傷ついたりはしなかった。肉体は傷ついたけどな。しかし、神代本人はどうだろう? ずっと苛まれてきたのではないか、きっと俺がそんな風に誰かを傷つけたなら、それを無視したままでいることは出来ないだろう。
「女に二言はないか?」
「え? それって男の人に使う言葉じゃ……」
「男女共同参画社会だ。それは気にするな。もう一度聞く。二言はないな?」
「何か分からないけど、ないよ。もうユキには絶対嘘つかないって決めたから!」
「よし、なら俺のマネージャーになれ」
「えっ? うん、うん!」
またしても各所から叫び声が上がっている。
このクラス、こんなんで大丈夫なんだろうか?
‡‡‡
「ねぇねぇ、悠璃。見た? 見た?」
「知ってるわよ。まったく突然どうしたのかしらね」
「なんか悠璃、嬉しそうだけど」
「そうかしら? じゃあきっとそうなんでしょう」
「弟ちゃん凄いよねー。一度連れてきてよ」
早速、弟は波乱を巻き起こしてるらしい。クラスメイトに「俺の女になれ」と発言したとかどうとかで盛り上がっている。タイムラインが凄い事になっていた。いつの間にそんな俺様キャラになっていたのかしら? 帰ったら尋問ね。相変わらず逐一その言動や行動が報告されているが、あの子に何があったのか、普段の騒動とは少しというか大幅に毛色が変わっていた。しいて言えば、あの子は初めて巻き込まれるのではなく、自分から何かをしようとしている。
昨日の事を思い出す。まだ少し目が赤いかもしれない。ガラにもなく号泣してしまった。それどころか弟を離したくなくて一緒に寝てしまったくらいだ。昨日だけじゃない今日も明日もこれから先もそうしたい。その前だって、母さんとも寝てたんだし私だって良いわよね? そんな誰ともつかない同意を求める。ずっと呼ばれたかった。姉と認めて欲しかった。他人ではなく肉親として見て欲しかった。
少しだけあの子の心に触れられたかもしれない。これまで悪い変化しかなかった。それが初めて良い変化が起きたのかもしれない。だとしたら、私は絶対にこの機会を潰すわけにはいかない。再び悪意で傷つけされるわけにはいかない。守らなくちゃ。今度こそ、私が。
‡‡‡
「というわけで騒がしいクラスから逃げて来ました」
「今となっては君の方がよっぽど有名だよね」
お昼休み。非常階段で俺はピーナッツバターパンとチョコレートパンを食べていた。選択失敗であった。甘すぎる。幾ら俺が甘党とは言え、この両者は役割が被っていた。今の俺の身体は糖分より闘争を求めていた。嘘です戦いたくないです。
「それよりもヘスティア先輩、いつもここにいませんか?」
「なんかちょっとエッチっぽい服着てそうな名前止めてよ!」
「なんのことですか?」
「ううん。知らないなら忘れて。なんでもないの」
「例の紐ならありますけど」
「知ってるじゃん! それに何で持ってるの!?」
「この名前の時点でこういうこともあろうかと」
「君、もしかして私にそれを着せるつもりで……!?」
「そんなに胸ないだろ」
「おいこら下級生」
「平にご容赦を! 平にご容赦を!」
ヘスティア先輩はいつも通り、非常階段で一人昼食を食べていた。やっぱりどう考えてもぼっちだよねこの人。告白されていたくらいだ。先輩は美人だった。それなのに友達がいないなんて、なんか可哀想になってきたぞ。
「まぁまぁ。ヘスティア先輩。俺が友達になってあげますから」
「なんでちょっと上から目線なの!? あと、なんか私のこと友達いない寂しいぼっちだと思ってるでしょ?」
「違うんですか?」
「違うよ! こう見えて私、結構友達多いんだからね!」
「ピーナッツバターが甘いって微妙に納得いかないよね。おのれアメリカ!」
「だから聞こう? 私の話をちゃんと聞こう?」
「どーどーどー」
「馬じゃない! 馬じゃないよ!」
「女神ですもんね」
「なんかもう疲れてきたし、それでいい気がしてきた……」
何故かヘスティア先輩がげんなりしている。可哀想なので俺は例の紐を先輩にあげた。だって、私達みんな仲間だもんげ!
「私は君と違ってぼっちじゃないからね? ちゃんと聞いてる?」
「俺も最近、どうも自分はぼっちではないのではないかと思い始めました」
「あれ、そうなんだ? 確かに君は色々とアレだけどさ……」
「ま、陰キャなのは変わらないですけどね! ゲララララララ」
「真顔で変な笑い方しないでよ。怖いじゃない。でも、そっか良かったね」
「良い事なのか分かりませんが、ヘスティア先輩がそう言うってことは、きっとこれで良かったんだと思う事にします」
「そうそう、私の言う事をちゃんと聞くんだよ。だって女神だもんね?」
「おいおい自分で女神気取りかよ」
「急に梯子外さないでよ! 君が言ったんでしょ!?」
弱い雨はまだ降り続いている。そんな中、外で昼食を取ろうなんて奇特な生徒は俺とヘスティア先輩くらいだった。非常階段は濡れることはないので問題ないが、不思議と心地良い空間だった。俺にとって、学校や家がそんな風に心地良い空間になることはあるのだろうか。
きっと、俺は今までそれを――