第15話 姉なる者
「アンタなんて大っ嫌い! 消えちゃえ!」
繋いでいた手が離れる。落下していく身体。その瞳が「どうして?」と訴えかけていた。逸らすことなく、真っすぐに見据えていた。浮かんだ困惑はすぐに諦観に変わり、いつしか――
‡‡‡
「九重雪兎はいるか!」
もう何回目だよこのパターン! 既にお馴染みとなっているこの展開。今や俺の知名度はうなぎ登りである。難攻不落の生徒会長を攻略した男として恋愛相談を受けることもあった。モテたことがない俺に恋愛相談など片腹痛い。単に便秘だった。だいたい俺に人の気持ちなんて分かるはずないのに。自分の気持ちさえも分からない俺が他者を理解することなど到底出来ない。
相変わらず1-B組には俺を訪ねて先輩が……って、誰この人? 知らぬ間に知り合いが増えている男、それが俺、九重雪兎だ。
「俺ですが、Youは何しにこのクラスへ?」
「そうか君が。俺は3年の火村敏郎。バスケ部のキャプテンをしている」
「嫌な予感がしてきた。そういえば、九重はさっき学食に行ってましたよ」
「急に別人になるな。自分で名乗っていただろう」
「だって、面倒そうなんだもん」
火村先輩は流石バスケ部だけあって、そこそこ身長も高い。最も、この学校のバスケ部は強豪というわけでもないので、だからどうしたというレベルである。だいたい他県から有力な選手をかき集めているような高校がある以上、どうしたってそこには格差が生じるものだ。それはスポーツ競技なら全て同じことが言える。部活と競技の絶対的な差がそこにはあった。
「百真先輩から君のことを聞いてな。何故、バスケ部じゃないのか不思議がっていた」
「知り合いだったんですか?」
「百真先輩はこの学校のOBだぞ? 君こそ知らなかったのか?」
「あまり人のことは詮索しない主義なので知りませんでした」
「それで俺も君のことを知ってな。誘いに来たというわけだ」
「素直に誘いに乗るようなら最初から入部していますよ」
なるほど、百真先輩はこの学校だったのか。考えてみれば、その程度の偶然は幾らでも起こり得る。先輩なりに気遣ってくれたのかもしれない。或いは単純に疑問に思ったか。陰キャだからという説得力十分の説明に疑問を挟む余地はないと思うのだが。正直、有難迷惑だが、そこは素直に感謝するべきなのだろう。
「バスケ部には俺と同じ中学だった人もいますよね? その人達が何も言わない時点でお察しというやつです」
「そう思って聞いてみたんだが、君と同じ中学の者はいなかった」
「そうだったんですか?」
「うちのバスケ部はそう熱心に活動しているわけではないからな」
「それなら尚更、別に誘わなくても良いじゃないか」
なにもかもが今更だ。部活に打ち込んだのも現実逃避にすぎない。そこに確たる信念があったわけではない。だからアッサリと俺の気持ちは折れてしまった。ただ一つだけの目的すら果たせず中途半端なままに。だから辞めても何も思わないし、何も感じない。再開しようとも思わない。
「九重、俺達は今年が最後だ。確かにうちは強くはない。優勝出来るような戦力もない。それでも折角3年間やってきたんだ。大会で全力を尽くしたい。君の力を貸してくれ!」
「おかしくないですか? そもそも1年がそんな簡単に試合に出られるはずが――」
「言っておくが、我が校のバスケ部は俺を含めて9人しかいないぞ」
「えっ!? 90年代のバスケ人気は終わっていたんですか!」
「今は2020年だぞ。数年前にも一瞬流行ったが、どっちもジャンプのおかげだな」
「弱小じゃないですか」
「だからこそだ。少しくらい活躍して驚かせたいだろ?」
「誰をですか。俺にはそんな相手はいません」
「九重、俺は同級生に好きな奴がいる。大会が終わったら告白しようと思ってるんだ。だから俺はアイツに良い恰好を見せたい!」
「お前の為かよ! この学校の上級生って、何故下級生に聞いてもないことをペラペラ語りだすんだろう? あれかな風土病?」
火村先輩は今時分かり易いくらい分かり易い熱血漢だった。そしてアホである。とにかく直情的、思い立ったら一直線。俺にとっては迷惑な話でしかない。勝手にやっててください。それにほら、またクラスメイトの視線が俺に集まっている。ニヤニヤすんなよ! なんなんだよお前等! それに火村先輩の性格を考えるなら、なんとなくこの後の展開が読めるような気がする。
「なら九重、放課後俺とバスケで勝負だ!」
な? な? 火村先輩は漫画の世界の住民だった。何が「なら」だよ。前後が繋がってないだろ! 勝負する意味が分からない。何故かクラスメイト達は盛り上がっていた。何人かはスマホを熱心に操作している。アレはいったい何をやっているんだろう?
「分かりました。やろうぜ雪兎!」
「は? おいちょっと待て! 何でお前急に割り込んできた?」
「ユキ、やろうよ!」
巳芳君は今日もイケメンだねぇ。爽やかスマイルが当社比300%くらいになっていた。それと誰だ今勝手に同意した奴?
え、俺の意思は? なんか俺を無視して勝手に周囲が盛り上がってるんですけど……。人権侵害ですか? いぢめですか? むーりぃー。俺は森へ帰ります。
「3 on 3で勝負するのはどうですか? このクラスにはバスケ部の伊藤もいますし」
「なに? そうか隼人、お前のこのクラスだったのか!」
「俺の存在感って……」
渋々、バスケ部の伊藤君(?)がやってくる。クラスメイトだが、そんなに良くは知らない。というか、未だに名前も憶えていなかった。そうか、彼は伊藤隼人君というのか!
「俺抜きでやってください……」
俺は力なく呟いた。
‡‡‡
スマホのグループチャットが盛り上がっている。何故か弟の情報が逐一報告されている謎のグループ。何故このようなものが作られたのか、便利だから私も使っているが、当の弟本人は全く知らないらしい。非公認のアカウントだった。
「あの子はまた……!」
とある一件から、弟はやたらと話題になっていた。2年のクラスにもその名前が伝わるくらい目立っている。ある意味、校内一の有名人かもしれない。そうでもなければ、こんなグループなど作られないだろう。このグループに参加しているクラスメイトも増えていた。どうやら今度はバスケ部のキャプテンと放課後勝負をすることになったらしい。どうしてあの子は大人しくしておくことが出来ないんだろう?
誰に聞かれることもなく独り言ちる。中学時代に打ち込んでいたバスケも綺麗サッパリ辞めてしまっていた。今になって特に思い入れがあるようにも見えない。今では帰宅部だと豪語しているのに、何故こんなことになっているのか不思議でしょうがない。
大丈夫だろうか? 何か厄介事に巻き込まれていないだろうか? 心配事が尽きない。ふふっ。おかしいわよね。私が今更何を心配するっていうのよ。そんな資格なんて、私にはとっくにないでしょう?
自嘲が零れる。
そうだ、あのときから、私はそんな資格など、とうに失っているというのに。
‡‡‡
「アンタなんて大っ嫌い! 消えちゃえ!」
私は公園の遊具の上から弟を突き飛ばした。それが何を意味するのかも分からず、そのときの私は感情に従うまま行動に移していた。生々しい感触。繋いでいた手が離れ、呆気なく弟の身体が宙に放り出される。私を見る目が「どうして?」と、訴えかけていた。「なんでこんなことをするの?」と揺れていた。
「アンタが嫌いだからよっ!」
耐え切れず私はそう叫んでいた。数瞬後、ドサリと鈍い音がする。切れた額から血が流れていた。人間の血って赤くて綺麗だな。そんな現実感のない空虚な感想を抱いていた。しかし、倒れてピクリとも動かない弟を見て私は我に返る。
「え……?」
私は今、何をしたの? 自分の行動が自分で信じられない。その結果、何が起こったのか認めたくなかった。私は今、確かにこの手で弟を――。
恐怖が襲ってくる。現実を否定したくて私はその場から逃げ出した。
そして、弟は帰ってこなかった。
私は弟が大好きだった。お母さんが仕事で忙しいこともあり、弟の面倒を私が見ることが多くなっていた。弟はとても真面目で手が掛からない。私にもとても懐いてくれていた。それでお母さんも安心していたのかもしれない。しかし、私だってまだまだ子供だ。弟とは1歳しか違わない。所詮は未熟な子供でしかない。
弟と一緒にいることが多くなり、一緒に遊ぶ事も増える。それは苦ではなかったが、私も私で自分自身の人間関係というものが構築され始める時期でもあった。自我の目覚めが訪れる。私の世界は急速に広がりつつあった。そんな中で、常に弟と一緒にいるというのは重荷になっていた。
お母さんも弟のことばかり気にしている。それがどこか私の心に影を落としていたのかもしれない。今思えば、決してそんなことはないのに、結局は私も愛情に飢えていたのだろう。寂しく思っていたのは私も同じだった。あるとき、私は親友のマキちゃんと遊んでいた。そこには弟もいた。
マキちゃんは1人っ子だった。だから兄妹に憧れがあったのだろう。弟をとても可愛がっていた。胸に去来する疎外感。私の弟なのにという独占欲と、弟に親友を取られたという醜い嫉妬心。マキちゃんは私の親友なのに! そんな複雑な感情がない交ぜになる。それを昇華出来ないまま弟と一緒に帰っていたある日、それは起こってしまった。
剥き出しの感情をぶつける。心も身体も傷つけるあまりにも酷い仕打ち。酷いでは済まない。殺意がなかったと否定出来るだろうか。子供だからと許される行為ではなかった。帰ってこない弟。不安が膨らんでいく。自分の所為だというのに、自分がやったことだというのに、弟の目が脳裏に焼き付いて離れない。
弟が帰ってきたのは、それから6日後のことだった。いや、帰ってきたのではない。警察から電話があった。私は全てをお母さんに話していた。隠せるはずもなかった。急いで公園に向かうと、もうそこに弟の姿はない。家に向かっているのかもしれない。そう思い待ったが帰ってこない。翌日、警察に捜索届けを出した。確認して欲しいと連絡があるまで地獄の日々だった。でも、本当の地獄はそれからだった。
見つかった弟は酷く憔悴していた。どうやって移動したのか、隣の市で発見されたという。額に怪我、骨にもヒビが入っていた。私が弟をこんな風にしてしまったんだ! 途方もない後悔に苛まれる。弟が暗い瞳で私を見て掠れた声をあげる。
「消えられなくてごめんなさい……」
え? おかしい! おかしいよ! だって、謝るのは私の方で、貴方は何も悪くなくて! 感情の洪水が濁流となって言葉を押し流し、私は何も言えなくなる。怪我だけじゃない。じゃあ、雪兎が帰ってこなかったのも私の所為? 私は消えちゃえって言ったから? だから消えようとしたの?
当たり前だが、私は怒られた。でも、怒っているお母さんは私を抱きしめながら泣いていた。それは単純に怒られるより辛いことだった。
だが、このときはまだ、私は弟のその言葉の意味を理解してはいなかった。
弟が私の前から消えようとした。それは、文字通りそのままの意味だと捉えていた。単にいなくなるだけだと軽く考えていた。突き飛ばしたことは悪いと思っている。どんなに悲しんで後悔しても許されることではない。しかし、まだその程度の認識だった。
子供だった私は真に理解していない。そのタイミングがいつだったのか。それは重要ではない。でも、私が成長し、人間の「死」を理解したとき、全てが変わった。
弟は死のうとしていた。いなくなるとは、私の前からじゃない。この世界からだ。だから弟は帰ってこなかった。弟自身も「死」を理解していたわけでないだろう。だが、本能でそれを感じ取っていたのかもしれない。現にもう1日、発見が遅れれば死んでいた可能性もあった。或いは遊具から落ちたとき、打ちどころが悪ければ死んでいたかもしれない。即死していたかもしれない。
それを理解したとき、私は恐怖で真っ白になった。私は弟を殺そうとしたのだから。一時の感情でその命を奪い取ろうとしたのだから。帰ってきた弟は一変していた。二度と手が繋がれることはなかった。懐いてくることもなくなった。私の後ろをニコニコと笑顔で「おねーちゃん」と、呼びながら付いて来ていた弟は消え去っていた。それ以来、一度も姉と呼ばれなくなった。
当たり前だ。私は弟を殺そうとしたのだ。またいつ殺されそうになるのか分からない。不用意に近づいてこれるはずがない。殺人を犯そうとした者と仲良く出来るはずなどない。でも、弟の目には恐怖も何も浮かんでいない。それがまた私を困惑させる。怯えてくれた方がまだ分かり易い。でも、弟の反応は何かを失ったかのように、まるで壊れたかのように異質なものだった。
私は何度も謝った。謝罪を繰り返した。あの日のことを夢で見る度、弟の壊れてしまった姿を見る度、謝らずにはいられなかった。でも、手遅れだった。どんなに謝っても弟には通じない。謝罪とは許しを請う為に行われるものだ。自分が悪いと相手に伝え、相手から怒られて、初めてわだかまりは解消される。そうでなければ前に進めないのだから。
しかし弟は何も怒っていなかった。最初から私を許していた。許している相手に幾ら謝罪をしても意味を成さない。悪かったと自分の所為だと幾ら伝えても、相手がそれを許容していたら通じない。まるで「怒り」という感情を喪失してしまったかのような。
許しているのに、怒っていないのに謝られてもどうしようもない。弟は私が謝る度に許し続けた。だからいつもそこで終わってしまう。何も変わらない。変えられない。壊れたものは戻らない。私がどんなに元の関係に戻りたくても、私を許している弟が元に戻ることはなかった。
私は断罪されたかった。どうしてあんなことをしたのだと糾弾されたかった。本音をぶつけて、泣いて謝って本当は大好きだと伝えて、もう一度、姉弟をやり直したかった。
それからますます弟は酷くなる一方だった。何かある度に何かを失っているような、そんな風に見える。まるで一つずつ感情を落としてしまっているような……。
そこで気づく。
――じゃあ、もし全ての感情を喪失してしまったら、どうなるの?
電話したときの会話を思い出す。高校を出るまで待ってと言っていた。何を? そんなの決まっている。あの子はきっと、私の前から消えるつもりだ。二度と会うつもりはないのかもしれない。それに、もし「恐怖」という感情を喪失しているのであれば、躊躇なく簡単に死を選んでしまうかもしれない。今でも弟の心にはあの日の私の言葉が楔として撃ち込まれている。それを抜くことが出来ない。弟の心に触れられない私は弟を助けられない。
だから他者に期待した。それが出来そうな人間がいたから。しかし、それは失敗だった。それどころか、より傷つけることになってしまった。頼るべきじゃなかった。
もう元の関係に戻りたいとは思わない。それでも、なんとかして弟を救ってみせる。私がそれをしなければならない。他の誰でもない私が。今度こそ守ってみせる。絶対に二度と裏切らない。
「バスケ勝負なんて……そんなことやるように思えないのに」
どんな心境の変化があったのか。何一つ見逃してはならない。どんな兆候もどんな些細な変化も、弟のことは全て見逃さない。もう絶対に目を離さない。かつて手を離してしまった。それから二度と繋がれなくなった。今度、目を離せば、きっともう見ることも出来なくなってしまうだろう。
タオルとスポーツ飲料でも用意しておいた方が良いだろうか。それくらい持っていそうな気もするが、とにかく何かをせずにはいられない。中学の頃、バスケに打ち込んでいた弟は素直に格好良かった。またあの姿が見られるのかもしれない。私はドキドキしながら、放課後を待つことにした。