第94話 とさつ場の子豚
邦彦がかつて勤めていた旧市営とさつ場では、朝になるとカラスが八方から集まって来た。カラスは賢くて「針金の先端をかぎ状に曲げ、餌の容器をつり上げて餌を食べた」との英学者の実験例があるほどだ。
それに比べると豚はまるでアホである。係留場の柵の中では繁殖豚のオスがメスの尻を追い回し、事故畜解体場ではナイフで大動脈弓を突かれ、倒れて全身をピクピク痙攣させている豚の横で、まもなく同じ運命をたどる豚が、足下に流れ来る血をぺろぺろなめてノドの渇きを潤している。
繁殖力が旺盛で発育の速度がべらぼうに早く、産まれた子豚が百㎏以上の体重になるまでに半年しか要さない。食肉用として出荷されるのは、主に百十㎏から百二十㎏に成育した豚だが、他にも大貫と呼ばれる、役目を果たし終えた雌雄の繁殖豚が搬入されてきて、食用にもなる。
九月初旬の朝、邦彦が朝礼の後で事故畜解体場の横を通りかかると、柵の外に大貫のメス豚が一頭横たわっている。ここに運ばれてくる豚は、足の骨折などで自力歩行が困難なため解体ラインに乗せられない豚や、膿毒症等で廃棄処分されることが判明している豚なのだが、そいつの尻のところに脱糞にしては大きな物体が一個転がっている。もしやと思って近づいてみると、やはり産み落とされた子豚だった。
ごくまれにあることで、昨年も、孫のペットにすると言っておばさんの一人が引き取って育て、時々職場に連れてきたので、その可愛らしさを同棲している彼女に話したところ、「飼ってみたい」とねだられていた。やっとその念願に応えられるかと妙に緊張する。
そこに運良く、食肉衛生検査所検査員の鳴海が通りかかったので大声で呼び止めた。
「こいつ、飼いたいんだけど」
「どれどれ」
と鳴海は近づいてきて、子豚を一目見て「いけるかもしれない」と邦彦に希望を持たせ、近くに落ちていたビニール紐を拾って熱湯槽で滅菌し、手際よくヘソの緒を縛ってナイフで切り離し、子豚を邦彦に差し出した。
「一番上の乳房が一番乳の出がいいはずだから、子豚の口を当てがってみて」
邦彦はその乳首に子豚の口を当ててみるが、子豚はくわえようとしない。母豚は右頬をコンクリートの床に預けたままじっとしている。ウィンストン・チャーチルの『犬は我々を尊敬し、猫は我々を見下しているが、豚は対等に見てくれる』という名言通りの、とても人間的で哲学的な眼差しだ。
「マッサージしてみるから、そのままにしててよ」
獣医資格をもつ鳴海は、両手でその乳房を揉みしだきながら教えてくれた。
「人間の抗体の場合は胎盤から胎児に移るんだけどね、豚の場合は初乳の中に含まれているから、乳を飲ませないとヤバイんだよね」
と鳴海が言い終わらないうちに、乳首からじわっと白い乳が流れ出てきた。すると子豚が反応し、自分で乳首をくわえてコクコクと飲み始めた。
「おっ、こいつ見所あるよ」
と言って鳴海は立ち上がり
「分からないことがあったら検査所まで聞きに来て」
と言い残して解体ラインの方に行ってしまったが、邦彦は子豚が飲み疲れるまで見守るしかなかった。
邦彦の朝一番の仕事は、冷蔵庫にびっしり吊されている豚の枝肉を両手で押して出荷先ごとにまとめたり、枝肉を一枚ずつ担いでトラックの荷台に積み込むことだ。
邦彦は班長を見つけて頼み込んだ。
「この豚、飼いたいんで、ちょっとお願いします」
同僚たちも仕事を中断して集まって来た。「久しぶりだがや」「どうせ三日坊主だからやめとけ」「餌代が大変だぞ」等と囃し立てるがどの表情も例外なく好意的だ。『殺戮の職場』で『生かす行為』を咎めるものは誰一人としていないのだ。班長と同僚たちが「急げよ」と言ってくれたので邦彦は子豚を抱きしめて更衣室まで走った。
ロッカーからバスタオルを取り出して子豚の体を拭き、それをポリバケツの底に敷いて子豚を載せると小刻みに震えている。もう一度母豚の元に戻って乳を飲ませた。
その後も仕事を抜け出して二回母乳を与え、昼休みには近所の薬局に行って人間の赤ん坊用の粉ミルクと哺乳瓶を買いそろえた。仕事を終えてアパートに帰ると、メールで教えていたので、彼女が歓声をあげて子豚を迎え入れてくれた。
しかし、子豚をアパートで育てるには限界がある。いかんせんこいつは食肉用の大ヨークシャー種をベースにした改良品種豚だ。そのため成長が著しく早く、一か月が過ぎて離乳させる頃には、約七㎏にも育っていた。
では、今後のこいつの運命はというと、先例のように近々どこかの畜産農家に引き取ってもらうことになるだろう。ちなみに、その肉質は脂っぽくてマズイそうだ。合掌。
(『あじくりげ』平成21年12月号に掲載)
人工天文台 原稿
改名予告と『あじくりげ』
山中幸盛
改名を考えている。山中幸盛から本名の『水田功』に戻すつもりだ。いつからにするかというと、2ページの短編を書き続けて先月号で第93話になったので、第百一話からにしようと決めた。「北斗」は年間十冊発行なので、同人になって十年が経つということで実にキリが良い。
残りを数えてみると、あと七話だ。なに? 七編? と、そこでひらめいた。惜しまれて終刊になった『あじくりげ』に、山中幸盛の筆名で掲載された短編が、ちょうど七話分あるではないか! 尺(文字数)はほぼ同じだから、推敲するだけで済むではないか!
『あじくりげ』の「味・ショート・ショート」に最初の短編が載った時は本当に嬉しかった。だって、生まれて初めて稿料が貰えたのだから。現金書留で送られてきたピン札で七回分の稿料は、仏壇の引き出しに全額しまってある。(赤面するほどの、過分な大金だ。)
編集発行人の本田美保子さんから初めて電話で原稿依頼があった時は心底驚いた。その直後の「北斗」の月例会でそのことを報告すると、棚橋さんが、「私が本田さんに推薦したのよ」と真相を教えてくれた。