待ち人の教会
とある町の奥に、ひっそりと存在している教会。その場所を管理する者は何十年もいない所為で、石畳の隙間から生えた草が道を隠し、壁にはつたが這い、屋根や壁の一部は瓦礫となっている。すでに町には別に小さな教会がある。ここはもはや、朽ち、忘れ去られるのを待つだけの場所だ。
だが、訪れる人がいないわけではなかった。季節がひとつ巡るくらいで一人か二人、その教会に足を踏み入れる人がいると町の人々は目を伏せて言う。
祈るためではなく、許しを請うためでもなく、ただ『待つ』ために、そこへ行くのだと。
傭兵はその教会へ向かっていた。訊ねたとおりの道順で石畳を歩き、目印だという古びた木の看板を曲がってしばらくすると、影が顔に覆いかぶさる。その正体を確認することもなく進み、もともとは扉があっただろうそこを通り過ぎた。周りは足を踏み入れる隙間もない一面の瓦礫だったが、中心だけ、人為的としか思えないほどきれいに瓦礫が避けられている。この場所に人が立ち寄ることがある証拠だ。
「今日という日に私以外に人が来るとは、奇遇なこともあるのですね」
ゆったりとした落ち着いた声。傭兵の正面にいる車いすに座った白髪の老婦は、太陽の光を受けて輝く色硝子の装飾を見上げているように見える。
「町の人ではなさそうですね。……靴の音からすると、旅のお方かしら」
高い天井で反響する靴の音は、町の人が履くものではないことは確かだ。傭兵は答えもせず、老婦まで後二、三歩くらいの所で立ち止まった。
「この教会の事は、ここに来たからには知っておいででしょう。あなたも待つのですか」
傭兵は口を開かない。彼女はくす、と笑った。
「無口な旅人さんだこと。……でもここに来たからには、何か理由が御有りなのでしょう」
老婦はそう言って口を閉ざした。涼しいとはいえない風が何度も通り過ぎていった後、老婦は再び話し始めた。
「待つのも退屈なので、少し昔の話をさせてください。老いぼれの独り言だと思ってくださいね、旅のお方」
老婦はうつむき傭兵に背を向けたまま、語った。夜眠れない幼い子に、話を聞かせるように。
「ある人と出会ったのは、私がまだ二十の頃。その日からのことはよく、覚えています。町は戦争中で、そして――――」
『私が暗い場所にずっと閉じ込められることになった、最初の日でした』
剣と剣が交じる音、叫び声、うめき声。突然町にやってきた敵の軍勢に、町は混乱状態だった。町の兵の半数は外の戦場に出払って、残った少ない兵力で大勢の敵を退けるのは不可能に近かった。
女性は一人黒いかばんを抱き締めて、起きてしまった惨事に目をつむりながら走っていた。目指していたのは、町の奥にある教会。せめて怪我人や幼い子どもだけでも避難することができないかと、女性は無心でそこへ向かっていた。その教会の神父は真面目で誰からも好かれる優しい人だ。必ず助けてくれると、女性は確信していた。
息を切らして、教会の前にたどり着く。周囲を見渡したが、ここに逃げて来た人はどうやらいなかった。女性は深呼吸をして、教会の扉を開けようとした。
「いやぁ、お見事ですよ!」
「お褒め頂けて光栄です。隊長様」
二つの男の声に気づき、女性はすぐに手をひっこめた。片方は聞きなじみのある声。危険を感じて女性は扉から離れ、おそるおそる窓から中を覗いた。
「次の戦争の為に、この町をどうしても手に入れておきたかったんです。貴方のような話の分かる人がいてよかった」
鎧の男は声に浮かれた感情を乗せて、もう一人の男の手を固く握っていた。その先にいる男は恭しくかぶりを振っていた。
「私はただ隊長様のお考えがもっともだと思い、そのお手伝いをしたにすぎません」
「貴方の手伝いはお互いにとって有利になることでしょう、神父殿。少しばかり犠牲が生まれてしまいますが、これも今後の為ですから」
「ええ。これは尊い犠牲です。多くの町の人がこれによって救われるのなら、致し方ないのでしょう」
そう言いながら神父は膝をついて、色硝子の装飾窓に祈りを捧げる。隊長と呼ばれた鎧の男も軽く礼をすると、神父の肩を持った。
「さぁ、もう一つ仕事が残っています。神父である貴方が町に出て、降伏の旗をあげるべきだと告げてください。……そろそろ良い頃でしょう」
神父は強くうなずいた。
「わかりました。しかし、その前に」
神父はある一点を見つめた。心臓が跳ね上がる。あの神父は確実に窓越しの女性を捉えた。
「見てしまった彼女は尊い犠牲の一部へ」
硝子の割れる音が耳に飛び込んできたと思ったその瞬間、目の前に回転する鋭い刃が迫っていた。
「―――――っ?!」
何が起きたのか理解できないまま、女性はその場に崩れ落ちる。頬を伝う生温かいものが何なのか、わからない。頭が割れるように痛い。耳鳴りがする。
「こんな……に……よくぞ…………ました」
「……れば逃げ……せん。いつ人が…………か……」
声が耳鳴りにかき消される。女性は呻きながら石畳を膝で擦って身体の方向を変えた。混濁する意識でも、自分の危機が迫っていることは理解できていた。
「だ、れか……」
流れ出すものを押えていた両手は地面を這う。逃げなければ。誰か、誰か――――。
「大丈夫」
刹那、女性は優しく抱き留められた。耳元で囁かれた言葉に身を預けるように、意識を手放した。
女性が意識を取り戻したのは、光も、音もない場所だった。
「私、死んじゃった、の」
はっきりしない頭で思いついたのはここが死後の世界だということだけだった。しかし少しして、パキッと木の床が鳴るような音が耳に飛び込んできた。さらには真横で木がきしむ音、布が擦れる音も。
「死んでいない」
抑揚のない声。どこか聞き覚えがある声だ。
「そう、生きてるのね、私。……なら」
それよりも女性はなぜ視界が暗いままなのか、わからなかった。
「夢、かしら。音は聞こえるけど、目の前がずっと暗くて。……それに貴方は、誰? 天使、もしかして死神?」
音が止み、再び静寂に包まれる。傍にいるはずの誰かの気配が消えたような気がして、女性は途端に不安に襲われた。そして同時に、目のある部分が鋭く痛んだ。
手でその部分に触れる。肌ではない、ざらついた布の感触。
「知人に治療を頼んだが、間に合わなかった。……すまない」
「ま、間に合わなかった、って、あ……」
女性はやっと思い出した。神父を頼って教会へ行ったこと、その神父が町を売った裏切者であったこと。自分が怪我をしたこと。
「わ、私、目を」
「もう、見えないそうだ」
布が擦れる音。きっと立ち上がったのだろう。靴の音が頭の後ろを通り過ぎて、扉が閉まったような音が響いた。
女性は目の上にある布に触れたまま、動かなかった。震える口から、声も出ない。と、扉があまり音を立てずに開かれた。出ていった誰かと同じ場所を通って同じところに座った。
「詳しく話をしなかったのは、あいつはそういうのが苦手だからだ。許してやってくれ」
低く、優しい声だ。女性は声の方へゆっくり首をひねった。暗闇が動くことはなかった。
「ここは町の小さい酒場兼宿屋で、俺はその店主だ。お嬢さんは昨日、さっきの……あいつは傭兵なんだ。それがここに連れて来た」
あいつが言った知人っていうのは俺のことだ。そう言った店主は、女性の手がある包帯で巻かれた目に触れた。女性は身体を震わせたが、すぐに受け入れた。
「気が動転していると思うが、お嬢さんが置かれている状態を話しておきたい。目のことも、町のこともだ。今は、難しいか」
女性は再び震え始めた口をどうにか動かした。
「まだ、少し、待ってください。ごめん、なさい」
自分の身に起きたことをすでに痛いほど理解していたが、改めて説明されることに耐えられるほど、女性はまだ落ち着ききれていなかった。
「謝らなくていい、仕方がないことだ。……そうだ、お嬢さんの名前を教えてくれると嬉しい」
「イトワ、です」
「イトワ。落ち着いたら、壁を叩くか呼ぶかしてくれればいい。何か用があってもそうしてくれ。基本的に暇しているからすぐ来れる」
女性は黙ってうなずいた。店主はイトワの手を軽くたたいて、出ていった。
また、静かになる。イトワはその静寂を破らずに、そっと涙を流した。
彼女が暗い場所に一生閉じ込められたことに気づいたその日。町の混乱は一層色を強めた。この町に上がるはずだった降伏の白旗は誰かの手によって折られ、上がることはなくなった。
イトワは両の手のひらで、目を覆っていた。既に手と肌を隔てていたものは店主に取ってもらっていた。
鏡を見て確認することはできないが、さらりとした肌のまま、傷跡のようなものはない。ただ、完全に視界を奪われただけ。こんなにも短期間で治るはずもないのに、店主は曖昧に「そういう治し方もあるんだ」と言って、それから傷に関する質問には答えてくれなかった。イトワは店主に疑念を持ちかけたが、あの傭兵も言った通り、治療をしたのは店主だということは間違いない。傷がなくなっただけましなんだろうと良い方に捉えられるくらい、今はなぜか冷静に状況を受け止めていた。
それより────自分の怪我のことよりも、町の状況の方が恐ろしかった。敵側は町を壊滅まで持ち込み、完全に手中に納めようとしていること。それを阻止しようと周囲の町が助太刀に来て、町は戦場に成り果てていること。
戦闘が及んでいるのは主に下の方、つまりは一般の人の住む区域で、上の方の富裕層の区域までは来ていないようだ。この酒場も上の方にある酒場らしく、今のところは安全で、上位の傭兵――店主は『異名持ち』といったが、そういう強い傭兵ばかりが集うから心配いらないと言い切ったので、イトワも信じることにした。あの傭兵もこの戦いに参加している一人らしく、店主は彼にかなりの信頼を置いていることは話している中で伝わった。
そのお陰かもしれない。店主は曖昧に言っていたが、恐らく町は本当に壊滅寸前だ。人も大勢死んでいるだろう。渦中に入り込んでしまった中で、助けられて生き残って、守られている自分自身は幸運なんだろうと思えてしまっているのだろう。
店主からもらった昼食を済ませてから、六回目の時計の鐘が鳴った。それと同時に、小さな鈴の音と別の雑音が聞こえる。雑音の正体が雨だと気づくのには、初めて耳にした声で発された言葉を聞いてからだった。
「この季節は急に降るから嫌になるな。親父さん、拭く物貸してくれ」
「よく来た、〈紺鷹〉。それを使え」
「ありがとう。……一通り話は聞いた」
「会ったんだな」
「あいつが俺をわざわざ探しに来たんだ。しかし本当に不運だな、あいつは」
金属が小さく鳴る音と、床に何か重たいものを置く音。剣だろうか。イトワは静かに聞き耳を立てていた。
「聞いた限り、全部『掟』にかすっている。あいつが何しようと効力はないが、それでも今のあいつは一度掟を破った〈名無し〉だ。知られれば、周りの目が、なぁ……」
〈紺鷹〉と呼ばれた男の消えるような声から、しばらく沈黙が訪れる。イトワには会話の内容はほとんど理解できていなかった。わかったことは、あの傭兵は大変な立場にいるということくらいだ。
「そういえば、明日、上にも来るかもしれないらしい」
「随分順調のようだな」
「それでも初期の頃の勢いはなくなった方だ。今回の進行と関係あるのかは知らないが、敵が必死に探している人間がいるらしい。名前は確か……イトワ。イトワ・フレナディっていう女性だったか。フルートの名手として町ではかなり有名らしい。が、今は行方不明になっていて……おい親父、どうした」
「その情報は、確かだろうな」
「敵側の人間からの話だから、おそらく。なんでそんなことを……あ」
〈紺鷹〉は気づいたのか、短く声を漏らした。そして口先だけでぼそぼそとつぶやく。
「まさかあいつが助けたっていう」
「そうだ」
鈴の音もないまま、突然、別の声が聞こえる。数回しか聞いていないのにも関わらず、イトワの耳にはしっかりと刻まれていた。あの傭兵の声だ。
「そんな話聞いてねぇぞ」
壁越しでも悪寒がする、店主の声音。
「言ったら彼女を匿ってくれないだろう」
「当たり前だ! お前は今…………くそっ」
店主のどなり声はなぜか途中で勢いを失った。吐き捨てた言葉と共に、こことは離れた壁を殴ったのだろうか、イトワの傍の壁が振動する。
「本当は、終わるまで黙っているつもりだった」
傭兵はため息混じりにつぶやいた。イトワが聞いた、初めて感情のある声だった。
「事情が事情、だな」
「〈紺鷹〉には迷惑をかける。……親父、彼女を連れてきてくれ。話は向こうで聞いていたと思うが」
いつもとは違う空気の店主から酒場側へ連れ出された。張り積めた緊張感が漂っているそこで、イトワは促されるまま椅子に座るしかなかった。頭が回らない。敵が自分を探し回っている、そのことが何を示すかなどわかりきったことだ。
全員椅子に座った所で、正面に座っているらしい傭兵が静かに告げた。
「聞いていただろうが、君は命を狙われている。見つけ次第、有無を言わず殺すだろう。あの時あれを見てしまった君が誰かにそれを伝えてしまったら、この町の存在が危うくなる」
「ま、町が……?」
「どういうことだ」
イトワと店主はほぼ同時に疑問をぶつけた。それに答えたのは傭兵ではなく〈紺鷹〉だった。
「裏で話がまとまっている。つまり、敵の指導者が町の長を脅して、今、裏では和解という名の降伏をしている状態になっている」
傭兵は沈黙して全てを肯定した。
「よって今君を探しているのはこの町だ。〈紺鷹〉のような支援部隊と戦っているのは敵に見えてこの町だ。それを隠している。君を見つけるまでは」
「私のせいで、町の人も、戦っている人も」
「君のせいではない。断じて」
被せるように、傭兵は言い切った。イトワは身体をびくつかせて、うつむく。
「町が君を捜索し初めて、五日目だ。目を怪我した君がこれほど見つからないのはおかしいと、最終手段にでた。君はこの町の住民だ。だが一人暮らしではない」
「それって、まさか」
イトワは言葉の途中で口を覆った。脳裏に浮かんだのは最悪の情景だ。
「君の両親は君が神父を殺した罪を背負うことになっていると告げられている。身代わりになるか、君の命を選択するか、天秤にかけられている」
イトワは我慢できずに立ち上がった。見えなくても、確かに傭兵を捉えていた。
「今すぐ私をここから出して! 私の命なんて、無くていい! だから家族だけは」
「君がここから出たら」
空気が凍った。イトワは動けなくなった。それほどまでに、妙に冷たい、無感情の声だった。
「君も、君の両親も共に死ぬだろう。君はあの日、神父の裏切を見てしまった、たった一人の人物。そして君の両親は町の行政に干渉できる立場。反乱の材料は、君達家族でそろってしまう。『和解』している今、反乱が起こるのは避けなければならない。その種は、早く摘まなければならない」
突き放された感覚だった。反射的にイトワは傭兵にすがりついてた。傭兵の服越しに、おそらく腕を握った。
「なら……なら、貴方は傭兵なんでしょう! この町で戦っているんでしょう! ……お願いします、家族を助けて」
「<名無し>、やめろ、お前が受けていい依頼じゃない!」
声を荒げたのは<紺鷹>だ。地面を蹴り上げるように勢い良く立ち上がったのか、椅子がかたかたと鳴る。握っていた傭兵の腕に、微かに力が入った。
「私以上の適任はいないだろう。違うか」
傭兵の言葉に<紺鷹>は舌打ちをして引き下がった。彼の腕の力が緩んだ。
「正式な依頼として受けとるが」
イトワはその変化に気をとられて、返事が一瞬遅れた。
「……構いません。お願いします、私の家族を助けてください。この町が敵なら、ここではない、どこかへ」
イトワはただ自分の家族を救いたい一心だった。自分のせいで巻き込まれた家族を、何もせずにされるがままになるのは嫌だ。
彼らの会話の意味など、わからない。考えても意味がない。でも、傭兵のあの反応は、一体。
傭兵は相変わらず抑揚のない声で言葉を紡ぐ。
「引き受けた。……依頼書を頼む」
「知らねぇからな」
イトワは店主に差し出された紙に署名をした。次に傭兵が署名をしたらしい。紙を受け取った店主は、舌打ちと、深いため息を漏らす。
傭兵は出ていった。今度は小さな鈴がなった。イトワは<紺鷹>に連れられて部屋に戻り、ベッドに寝そべった。
「ありがとうございます。……あの」
「どうした」
「本当に、助けてくれますよね、あの傭兵さん」
〈紺鷹〉は椅子に座った。
「あいつ次第だ。俺の口からはそうとしか言えない」
「どういうこと、ですか」
「あいつが全て終えてきて帰ってきたら、わかる。ちゃんと教えてくれるさ。そうするのが決まりだ」
君は依頼主だから。そう言った彼は、イトワの掛布団を整えながらゆっくり話をし出す。
「君も命を狙われている。もし何かあれば、俺や俺の仲間がちゃんと君を助ける。俺はこの町の人の味方だから」
「支援部隊の人、なんですよね」
「そうだ。だから安心しろとは言わないが、今日はせめて君が眠るまでここにいるとするよ。……店主の気分が最悪だから戻りたくないってのもあるが」
聞こえるか聞こえないかの微かなつぶやきは、イトワをなんとなく安心させた。彼はあの中では普通そうで、温かい人間らしい人だと思ったのだろう。なにより味方である安心感もあった。
なら、あの傭兵は。イトワの中のどこかでそう囁かれる。隣から聞こえてきていた会話、あの傭兵から聞いた会話を思い出そうとしたが、家族のことで頭がいっぱいになる。そのうち、意識は深い所へ沈んでいった。
イトワはふと眠りから覚めた。今は何時だろう。喉が乾いた。そう思って壁を叩こうとする。
「自分達の命と最愛の娘の命の選択、か」
〈紺鷹〉の小さな声が聞こえる。
「上手くいけば彼女の家族は助かる。だがあいつの言う通り、あの首謀者は何を考えているかわからないからな。失敗した時が……」
「悲惨だな。だが俺は失敗すると思う」
「親父」
「いいか。あいつはあくまで敵側だ。従わなければならない強い弱みを握られているんだ。……どうあがいても、あのお嬢さんの家族は助からない。敵にとって、殺さない利点なんてないんだ。……必ずあいつが手を下すことになる」
「彼女の依頼はどうするんだ。あいつが嘘をつくわけがない。あいつは出来ない依頼を受けるほど馬鹿じゃない」
「何か考えがあることを信じたいのは山々だ。わざわざお前に伝えに戻ってきたのも、訳があるはずだと」
「親父の言いたいことはわかる。俺だって親父と同じ考えだ。でもそう考えない方が、あいつの為じゃないか。……そろそろか。行ってくる」
鈴の音。イトワは金縛りにあったように動けなくなった。心音がやけに大きく響く。
あの傭兵は敵側だった。あの傭兵が両親を殺す立場だった。その人に依頼をしてしまった。依頼は成功しない、嘘の契約だった。もう助からない、両親は死んでしまう。
あの日、あの傭兵が自分を助けたのは、この町をその首謀者の手に落とす為だったのではないのか。次に会う時には自分も殺されるかもしれない。けれど、この目では逃げられない。
イトワは座った姿勢のまま眠ることはなかった。どうしようもできない行き場のない感情をどこへぶつけていいのか、わからない。黒い何かが心で渦巻き続けて、大きく膨らんでいくばかりだった。
傭兵が出て行ってから丸一日たったくらいの頃。騒がしく酒場の中に入ってきた人がいた。店主を呼ぶ焦った声と、それをなだめるような弱々しい声。イトワは耳をふさいだ。帰ってきたということは、きっと落ち着いたら告げられるんだ。父と母の死を。
「イトワ。少しいいか」
そう言って部屋に入ってきたのは店主だった。椅子に座って、一つ息をつく。
「町長が声明を出した。敵は壊滅し、戦争は終わったと。これで命が狙われる心配は無くなったというわけだ」
「父と、母は」
店主は息を吐いた。それだけで、イトワは絶望に近い何かを味わった。あの夜の会話の通りのことが起きたのだ、と。
「町中に、『裏切者として処刑された』と情報が飛び交っている。事実なのかは、まだわからない」
「やっぱり、ですか」
店主は身じろぎ一つしなくなった。視線を感じる。店主はきっと驚きに満ちた目を向けている。
「何を……」
「夜、会話を聞きました。あの傭兵さんは、敵なんですよね。父と母はあの人が殺したんでしょう」
「それはまだ」
何かを言いかけた時、扉が開く音がした。
「私から話す。親父、席を外してくれ」
傭兵の声。だがいつもとは違う、疲れたような声だ。店主は無言で立ち上がり、部屋から出ていった。残った傭兵は空いた椅子に座る。イトワも起き上がって、ベッドから足を出して座った。
「話を聞いたというのは、店主と〈紺鷹〉との会話か」
「そう。貴方はこの町を襲った敵側の人間。貴方との依頼はこなされない可能性があった。だって、私の家族を殺すのは貴方だから」
「その通りだ」
何も変わらない、抑揚のない声。イトワはこぶしを固く握った。この傭兵の声は、無性に癇に障る。
イトワは膝の上のこぶしを固くした。沈黙さえも苛立ちに変わってしまう。
「私の両親が裏切者として処刑されたって、どういうこと?」
「それはこの町の為の嘘だ。君の両親は生きている」
生きている? イトワの中の何かが切れた。怒りを自制できずに、溜まっていた黒いものが荒い声を生む。
「嘘、嘘よ。貴方はあくまで敵側でしょう! そんな話、信用できると思ってるの? 何のために私に依頼させたの?! あの場で私の気が動転してて、黙らせたかったからそうしたの?!」
「私の言葉だけで、信じてもらえるとは思っていない」
「じゃあ、私の両親が生きている証拠を見せて」
「……ない」
「なら会わせてよ。生きてるならできるでしょう」
「できない。ほとぼりが冷めるまでは」
変わらない口調。抑揚。ここまで感情のない人と喋るのは経験したことがなかった。同情も何もかも感じ取れない。平気で嘘を並べて、自分の身を守る術を考えることで必死なんだろうか。
この傭兵は、狂っている。
イトワの身体は勝手に動いていた。両手で傭兵の服を突然つかんだ。傭兵は体勢を崩して椅子から落ち、イトワも身体が浮くのを感じる。そのまま傭兵は床に背を打ち付け、イトワは傭兵をまたいで見下ろす形になっていた。膝を強く打った痛みなど感じない。あるのは怒りだけだった。
「そんなの嘘だと言っているようなものじゃない! 今更繕って何になるのよ、貴方がどれだけすごい傭兵かなんて私には関係ない! 依頼をこなすのが傭兵の仕事なんでしょう、それができないのに何で依頼なんて受けるのよ! 貴方の為に、私も父も母もどうしてこんな目にあわなきゃいけないの。こんなに翻弄されなきゃいけないの! こんなことになったのなんて、貴方が私を助けたからよ。あの場で私は死ねばよかったのよ。そうすれば、父も母も、巻き込まれることなんて……なかったのに」
瞳から雫が落ちる。こんな人に自分が踊らされたことが悔しくてたまらない。
「……すまない」
見えないからわからない。彼がどんな表情で謝ったのかなど。それでも口調も声音は、見えないものを気にするほど変わらない。ずっと同じ。
「人の人生を滅茶苦茶にしておいて、言うことはそれだけ? 無口って便利なのね」
イトワは傭兵から離れた。立ち上がって、流れ続ける涙は拭わずに吐き捨てた。
「最低よ。貴方は人間なんかじゃないわ」
この部屋の出方はもう覚えている。壁伝いに扉を開けて、勢いよく閉めた。酒場側には店主すらいないのだろうか、人の気配がしない酒場を歩いて、いつも鈴がなるところから手探りで扉を開けた。
「おい、待て、話は聞いたのか」
腕をつかんできたのは恐らく〈紺鷹〉だ。
「離してください。貴方にも、ここの酒場にいた人にはもう関わらない」
「何を聞いた。あいつから」
唇を噛む。乾きかけていた涙が新しく湧いてくる。
「嘘。全部嘘。敵側なんだもの、当たり前ですよね」
「君は誤解している。あいつは敵側かもしれないが、確かに君の味方だった」
この男はあの傭兵の肩を持っている。まだ収まらない怒りで、全身が熱くなる。
「何を根拠に? 私の人生を滅茶苦茶にしたのに、どこが味方なの。教えてください」
「……君はそれを、あいつの前で言ったんだな」
〈紺鷹〉の手は彼女の腕から離れていった。イトワは動揺しなかった。
「だから何だっていうんですか。貴方には関係ないでしょう」
「そうだな。……あぁ、関係ないよ」
まるで自分に言い聞かせる為につぶやいた独り言のようだった。しかしすぐに〈紺鷹〉は咳払いをしてイトワの名を呼んだ。
「……支援部隊として、君を保護する。この町で君は裏切者の娘になった。もう町にはいられないと思う」
「そう、好きにしてください」
「それと、君に渡さなければならないものがある」
渡されたのは、少し分厚い紙だった。手で触っていると、片面にの中心に、蝋の印のようなものがある。
「手紙? 見えもしない私に渡すの?」
「いつか君にとって最も大切な人が出来たら、必ずその人に読んでもらってくれ。見知らぬ人や、少し知り合っただけの人ではなく」
「なぜ?」
「俺にもわからない。でもそうした方がいい。とても大事なことが書かれているから」
〈紺鷹〉はそう言いイトワの手を取ると、それきり無言で歩いた。
イトワは手紙を、保護されてから受け取った自分の商売道具の入った黒い鞄の中に入れる。この中なら無くならない。彼は誰からの手紙かは最後まで教えてくれなかった。
しばらくは父母の遺書だと勝手に思っていた。が、いつの日かその存在を忘れ、大切な人ができた時、たまたま鞄の隙間に上手く挟まって隠れていたのを見つけた。
「その手紙は死んだと思っていた父と母からの手紙でした。書いてあったことは、私の無事を喜んでいること。私が傭兵さんに依頼をして助けてくれたことの感謝。世間では自分たちが死んだ事になっているだろうということ。そして、私が散々責め立てた傭兵さんを擁護するような内容」
老婦はふう、と息を吐く。膝の上に置かれた紙を手探りで掴んで、視線の先に紙を広げる。見えていて、文章を読んでいるように。
「最低だったのは、私だった。彼は嘘を一つもついていなかった。本当のことしか言っていなかった。自分を守っているのではなくて、ひたすら身を削っていたのよ、彼は。気づいたときには遅すぎて、私は立ち尽くした。死んだと思っていた家族に会いに行きたいと思ったけれど、何よりあの傭兵さんに謝りたかった。結局は謝れなかったのだけど。でも、手紙の中に、依頼書が入っていたことも同時に知った。『それでも憎ければ』と端に書いてあるだけの依頼書。ひどいことをする人だった。私が話を聞かずに、暴言を吐いて出ていくのをわかっていたみたいな書き方」
老婦は車いすを動かして、傭兵の方を向いた。
「それでも憎ければ。貴方はどうするつもりだったのか、聞かせて。傭兵さん」
傭兵は口を開いた。
「君が私を殺すか、私が君を殺すか。……君を生かした私への、私からの報いだ」
彼女はうつむいた。手紙を持つ手が震えている。
「やっぱり、そうなのね」
「あの依頼書で、今日私はここに来た。君は選ぶことができる」
抑揚のない声が響く。傭兵の声は、心を揺さぶらない。決意を乱させない。イトワには見えないが、きっと表情も、同じだろう。
「貴方、神様みたいね。でも死神に近いのかもしれない。貴方は生より死に触れている気がするの」
イトワは微笑んだ。朗らかで柔らかいこの微笑みを、傭兵はあらゆる人で見て来た。
彼女が何のために、年を取ってから依頼書を送ってきたのか傭兵にはわからない。ただ、この依頼書を送ってきた時にはもう、彼女がどちらを選択するかはわかっていた。
「今日は二人目か」
男は驚きと戸惑いを少しずつ声音ににじませた。
「見た所若いが。あんたも、待つのかい」
道を教えてくれた男は、傭兵を見ずにそう言った。傭兵は首を振り、フードを被りなおした。
「いえ。――――待つ人を、送りに」