逃げて候
十六年位前に書いた短編が引っ越しで出て来たのでアップします。
さらっとお読みいただければ幸いです。
幕末の京は恐ろしい。京都守護職松平容保によって組織された新選組が、白刃を以て市中を鎮めている。
その京の、ある新選組隊士の屯所前。安物の太刀を大事そうに抱いて、勤王志士矢部広重は路地に潜んでいた。
――逃げ広重
というのが、この男のあだ名だった。生来の臆病者で、いつも肝心なときに逃げ出してしまっている。
「この前の会津屋敷討ち入りの時なぞ、会津者のまげを見ただけで逃げ出しおった」
と、仲間に軽蔑混じりに言われたこともあった。
その時は笑い話で済んだが、その後も大事な計画から逃げてばかりで、いよいよ仲間内に居づらくなった。
それで今日は、汚名返上のための大手柄を狙って、もう一刻ばかり見張っている。
ところが、寒くもないのに全身がかたかたとふるえている。握りしめた刀が小刻みに音を立てていた。
ただ、この男は臆病以上に大ボラ吹きで、
「わしだって、ちょいと本気を出せば、新選組の一人や二人、斬って捨てられるわい」
などと大口をたたいて、寄宿を飛び出してきた。だから、おめおめと逃げるわけにもいかない。半ば観念して、息を潜めていた。ふるえは、止まらなかったが。
(来た)
寄宿舎から、外套を羽織った侍が一人、ふらっと出てきた。その背に染め抜かれた「誠」の一文字を見ただけで、広重は頭から足先まで血の気が引いていった。
足が、自然と後ろに向かって一歩、二歩と下がった。三歩目を踏み出そうとしたところで、何とかとどまった。
もう、誠の文字は遠くなりつつある。
(このままでは、わしは天下の笑い者じゃ)
眉間を固く引き締めて、刀を抜いた。
(ええい、ままよ)
ぐいと地面を蹴って、刀を振り上げつつ走った。
「天誅!」
勢いのままに、一刀を浴びせた。
が、声に気づいた隊士が振り向きざまに抜いた刀に、あっさりとはじき飛ばされた。
そのまま、無様にしりもちをついた。
「あ痛ァ」
とは言っている暇はない。
飛び上がるように立ち上がって、背を向けて逃げ出した。
後ろから、斬られかけた隊士が怒号と共に追ってくるが、仲間内の評判通り、逃げ足だけは速い。
必死で追うが、隊士はぐんぐん離されていく。
広重を追って辻を曲がると、先は高い壁に遮られた袋小路だった。
隊士は追いつめたとばかりに刀を握りしめたが、目の前の光景に、我が目を疑った。
なんと、広重は大げさに身を沈めたかと思うと、一丈五尺(約四.五メートル)はあろうかという壁を、軽々と飛び越えてしまった。
残された隊士は、ただ呆然と立ちつくしていた。
広重は、そのまま自分の寄宿である長州屋敷まで逃げた。
韋駄天さながらに風を切って走りながら、
(なんじゃ、新選組というのも、存外粘りがないのう)
と、笑っていた。この男は、自分の超人的な能力に気づいていない。
寄宿にかえってから、広重は「新撰組の隊士に、一撃食らわしてきた」と吹聴した。防がれこそしたが、刃を向けたことには変わりない。それに、新選組から逃げおおせたことだけでも、自慢になる。
はじめ仲間たちは広重を疑ったが、二日経ってから、広重が語った場所で隊士が襲われたという情報が入ってきた。
そうして一躍、広重は臆病者から猛者へと祭り上げられた。
(こりゃ、おもしれえ)
彼にしてみれば、ただ逃げただけだったが、こうもはやし立ててくれる周りに、有頂天になった。新選組を見つける度、形だけ刀を振るなり、酷い長州訛りでののしるなりして挑発した。
そして、逃げた。
鮮やかなその逃げっぷりは、瞬く間に市中の噂の的になった。
「橋を渡らずに川をひと飛びで越えた」
「まばたきの間に一町(百九メートル)を走った」
「川の水の中に、一刻も潜って隠れた」
などと言われ続けたが、凄いのは、そのことごとくが誇張でないことだった。
「わしは、その気になれば英国まで泳げるよ」
などと、自慢げに鼻を鳴らしたりした。ただ、事ここに至っても、内心の臆病ぶりは変わらなかったし、だからこそ逃げ続けた。
それに、まだ広重は自分が特別だとは思わなかった。
(ちょっとだけ、他人より運がいいのじゃ)
謙遜ではなく、本心で思っていた。彼の中では、まだ新選組は恐ろしい存在だったし、隊士をからかうときも、いつ斬られるかと気が気ではなかった。
逃げ続けられている新選組にしてみれば、広重だけでなく、影に町の皆から馬鹿にされ続けているようなものである。
「広重斬るべし」
の気運は、全体に高まっていった。市中を歩く隊士の目が、日に日に鋭くなっている。
それでも広重は、
「なに、あのウスノロの新選族にゃ、わしは斬れンよ」
など心にもない大ボラを吹いて、歌舞伎役者のような大笑いをして見せた。
暑くなって、もう初夏かという頃、広重はちょうど三十人目の新選組隊士から、逃げた。
激怒する隊士をしり目に、塀を飛び越え、川をまたいで、風のように走った。
いつものように、今日を一回りするほど遠回りをして、寄宿に戻った。
その夜、仲間たちに存分に自慢話を語ると、蚊帳をつって大いびきをたてた。
目が覚めると、牢の中だった。
「おんやあ?」
と、寝ぼけ眼をこすってよく見ると、狭い牢の中に同じ寄宿の仲間たちが座っている。
「何が、あったんじゃ?」
「捕まったのよ」
がっくりと肩を落とした一人が答えた。
「捕まった? 誰に」
質問しながらきょろきょろしている広重に、その一人がむっとした顔をした。
「新選組じゃ。討ち入りで、五人斬られた」
言いながら、「お前のせいじゃ」と言わんばかりの視線を浴びせてきた。
「わしらも、すぐに斬られるじゃろうな」
そう言って、男はごろりと横になった。
(ふん。ふて寝なんぞしやがって)
広重は、おもしろくない。この男の態度も、新選組のやり方も。
(「誠」なんぞ掲げちゃおるが、寝込みを襲うような輩の集まりか)
勤王志士も新選組も、どこか子供じみた、斬り合うだけが能の連中に思えてきて、途端に勤王でいることが嫌になった。
とはいえ、このまま斬られるを待つのではつまらない。
「さて、逃げられるか」
目の前を見ると、木製の格子ががっしりと組み合わされている。床も天井も壁も、同じ樫の分厚い板で、とても壊せそうもない。唯一の救いは見張りがいないことだけだ。
(いや、何も壊すことはない)
広重は四つん這いになって格子の隙間に頭をつっこむと、無理矢理、身体を押し出そうとした。
それを見た一人が苦笑して、
「広重は何をやっとるのか。そのままじゃ、ところてんになってしまうぞ」
と言った。
そんな揶揄は気にせず、広重は足を踏ん張ってぐいぐいと格子にすり寄った。すると、
――すとん
と、つきたての餅を落としたような音がして、広重の身体が牢の外に放り出された。
「おお!」
それを見た一同、思わず拍手をしそうになったが、広重が人差し指を立てて押さえた。
「いま出してやるから、静かにしておけ」
広重はどこからか拾ってきた石で南京錠を殴り壊すと、そっと格子の戸を開いた。
ぞろぞろと出てきた勤王志士は、闇夜に紛れるようにして寄宿に戻った。
奇跡の生還からの興奮さめやらぬ志士たちは、酒を飲み、さんざん広重を褒め称えると、手に手に剣を取った。
「新選組、許すまじ」
など口々に言いながら、列になって出ていった。
しかし、そこに広重の姿はない。
彼は、寄宿からも新選組宿場からも遠く離れたあぜ道を、一人ぶらぶらと歩いていた。
「勤王も佐幕も、死ぬ理由にはならん」
夜明けが近い。道が白んできた。
(結局、わしは世の中から逃げることになったということか)
それでも、自由だ。悪い気はしなかった。
「さて、どこへ逃げようかね」
踏みしめる草の朝露が、冷たくて心地いい。気かつくと、鼻歌まで歌っている。
そうして、「逃げの広重」は動乱の京から逃げ去っていった。消息は、誰も知らない。
ありがとうございました。
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