第二話「華麗なる陰謀!?(蠣崎波響『夷酋列像』) 」〈4〉
「松前藩は特殊な藩です。いわゆる〈藩〉としてとらえるより、江戸時代、フィリピンにあった日本人居留地みたいな感覚でとらえた方が近いかもしれません」
「シャムの山田長政……あがた森魚だね」
「ようするに〈外国〉だった、と云うことですか?」
私の茶利をスルーして、まどかクンが正鵠を射る。
「そうです。それも松前藩は、北海道全域を統治していたわけではありません。エイのようなカタチをした北海道の尻尾の先端、道南にへばりつくようなカタチで存在していたにすぎません」
松前藩は、そんな小さな領土の際に柵や番所をもうけ〈松前地(和人地)〉〈蝦夷地(アイヌ地)〉と区分し、アイヌが〈蝦夷地〉から〈松前地〉へ足を踏み入れることを禁じていた。
江戸時代に入ると、日本地図の上端に〈蝦夷地・松前藩〉と、土地の丸い切れ端が描かれるようになる。その中途半端な描かれ方が、未知の領域に対する戸惑いを感じさせている……気がする。
「広大な〈蝦夷地〉では、アイヌが各部族ごとに狩猟(漁労)採取生活をして暮らしていました。大雑把ではありますが、西部劇に登場するネイティヴ・アメリカンの世界をイメージしてもらえるとわかりやすいかもしれません」
松前藩はそんなアイヌと交易をし、内地(日本)と貿易することで利潤を得ていた(幕府からアイヌとの独占交易権を認められていた)。
松前藩家臣にあたえられたのも、広大な北海道の土地ではなく、それぞれの場所に住むアイヌとの交易権だった。これを〈商場知行制〉と云う。
そもそも、江戸幕府は北海道の全容も把握していなければ〈自国の領土〉とも認識していなかった。
はじめて北海道のまともな地図(?)が作成されたのは『正保国絵図』である(正保元[1644]年に江戸幕府から諸大名へ国絵図作成令がでる)。
それまではユーラシア大陸の北端と地つづきであるらしいなどと考えられてきた北海道をちゃんとした〈島〉として描いた最初の地図ではあるが、そう云った情報が一般にまで浸透するのは、だいぶあとの話である。
端的に云えば、松前藩はアイヌと内地(日本)との貿易拠点であったにすぎない。
はじめのうちは、松前藩の人々自ら交易をおこなっていたが、じきに内地(近江や江戸)の商人が代理で交易をおこない、運上金を納めるシステムへと変わる。これを〈場所請負制〉と云う。
しかし、アイヌと和人との交易はいつの時代も不公平なものであった。
アイヌと和人との抗争の歴史は、常に交易における和人の不当な搾取(あるいはアイヌの奴隷化)に端を発している。
室町時代のコシャマインの乱(長禄元[1457])年)しかり。
江戸時代初期に起きたシャクシャインの乱(寛文9[1669])年しかり。
クナシリ・メナシの乱(寛政元[1789]年)しかり。
そんなクナシリ・メナシの乱が、今回の展覧会で私が1番観たいと思っている作品誕生の契機となるのだが、その話はあとでじっくり語りたいと思う。
5
「お、小玉貞良!? 本物ははじめて観るよ!」
『江戸のアイヌ絵展』第一展示室最後のコーナーに稚拙で大きな絵がかけられていた。
小玉貞良『アイヌ盛装図』である。
背中に太刀、手には弓、頭に風変わりな編み笠をかぶり、龍の紋様が描かれた極彩色の蝦夷錦(山丹服)を身にまとう男性(老人)。
そして、雲紋様のあざやかな樺太アイヌの晴着を身にまとい、仔熊を肩に抱いた(なんて不自然な!)女性が描かれている。
男女とも一眉(眉毛が一本につながっている)の異相である。
男性(老人)の白い長ひげは、片手で持ち上げておかねば地面についてしまいそうだ。
この男性のモデルは、長ひげで有名だった宗谷アイヌのチョウケンだったと云う説がある。
チョウケンと実際に会ったわけではなく、彼の噂を聞いてその要素を絵にとりこんだだけらしい。
よく観ようと近づいたら、展示ケースのガラスにメガネのフレームが当たってカチンと音を立てた。夢中になって距離感を見失った。
「興奮しすぎですよ」
美術評論家・神原芳幸が小さく笑う。
「小玉貞良ってだれですか?」
まどかクンが当然の疑問を発する。小玉貞良の名を知っているくらいなら、私レベルの〈音声ガイド〉は必要ない。
「アイヌ絵の先駆者と云われている絵師だよ」
私は作品をながめながら説明した。
小玉貞良。玉圓齊、竜(龍)圓齊とも号す。北海道・松前で生まれ暮らした風俗絵師である。
生没年は不詳だが、一時期、狩野派を学んでいたらしいこと、落款から宝暦9[1759]年の作品があったこと、70歳代まで矍鑠と絵筆をふるっていたらしいことなんかがわかっている。
「幕末のアイヌ絵師・平澤屏山[1822~1876]みたいに、アイヌと生活を共にしながらアイヌ絵を描いた〈写実派〉じゃなくて、いろんな情報をもとに〈和人のイメージする〉アイヌ図像をつくりあげた人みたいだけどね」
ようするに、異国情緒満載の〈みやげ絵〉なのである。
この作品は、そう云ったアイヌ絵でも初期に描かれたものであるらしく、蝦夷錦や太刀の背負うための飾り紐の向きなど、描写がメチャクチャだったりする。
「めずらしければイイじゃん」と云う気分が横溢している。
そんな小玉貞良の作風を継承したアイヌ風俗画がたくさん残っているらしく、彼が初期アイヌ絵のスタイルを確立したと云われている。
「デタラメなんですか?」
まどかクンが訊ねる。
「男性の着ている蝦夷錦(山丹服)ですが、これは元々中国の官服だそうです。刺繍された龍の指の数が多いほど高位だったと云います(最高位の皇帝が五本指とされる)。大陸からアイヌ経由で輸入されて、内地(日本)では珍重されました」
めずらしい着物なので、アイヌの中にも持っている人はいたらしいが、彼らの盛(正)装は陣羽織を羽織ることで、ハレの席で蝦夷錦を着る風習はなかったと、神原芳幸が説明した。
『アイヌ盛装図』に描かれた女性の首飾りには〈青玉〉とよばれたガラス玉がついている。これも内地で珍重されたもののひとつである。
最上徳内『蝦夷草子後編』(寛政12[1800]年)の記述を読むかぎり、当時の日本人は蝦夷錦や青玉を松前藩の生産物と思いこんでいたふしがある。
松前藩へ納める蝦夷錦や青玉の代価として、大陸へ奴隷として売り飛ばされたアイヌたちの姿を目の当たりにした最上徳内は、松前藩の非道をなじり、自らの無知を恥じている。
「デタラメじゃないですか」
まどかクンが私を人身売買の元締めであるかのような勢いでにらみつけた。誤解である。ぬれ衣である。それでもボクはやってない。