第二話「華麗なる陰謀!?(蠣崎波響『夷酋列像』) 」〈13〉
幕府直轄地となった北海道ではアイヌ同化政策こそ盛んになったが、場所請負人によるアイヌ奴隷化が少しは緩和されていたらしい。
しかし、松前藩復領後、アイヌ奴隷化はより一層苛烈さを増した。
地域によってもさまざまだが、松前藩復領前に比べると、アイヌの人口が1/2、あるいは1/3にまで減少したところも少なくないと云う。
「どうしてそんなコトに!?」
おどろくまどかクンに神原芳幸が訊ねる。
「まどかさん。油粕や干鰯をごぞんじですか?」
「えっと、あ、魚でできた農作物の肥料ですね」
江戸時代、農作物の生産向上に寄与した肥料の総称である。日本史のテストにもよく出るから、生徒諸君はおぼえておくやうに。試験中に〈Yahoo!知恵袋〉で答えを訊いたりしないやうに。
「それらの肥料は、場所請負人がアイヌから手に入れていたもののひとつですが、ふしぎに思うことはありませんか?」
突飛な質問である。まどかクンの頭上でハテナマークがゆれている。
「アイヌは狩猟(漁労)採取生活ですよ」
そのヒントをうけて、まどかクンの瞳に光が点った。
「……農耕生活をしていなかったアイヌの人たちには、肥料を作る必然性がなかった、ですか?」
「そのとおりです。蝦夷地では、元文[1736~41]年間に油粕の生産がはじまりました。これは場所請負人たちが蝦夷地へ油粕の生産工場を建て、アイヌを使役したと云うことです」
神原芳幸は「使役」と云う言葉を使ったが、ひらたく云えば「奴隷化」である。
働き盛りのアイヌの男たちは、油粕の生産工場で死ぬまで働かされた。村へ帰ることはおろか、結婚すらできなかったので少子化が進む。
村へとりのこされた美しい女たちは、和人に陵辱され、身籠るとむりやり堕胎させられ、子供の産めない身体になることもしばしばであったと云う。
和人とアイヌの間に産まれた子供は、明治時代以降もチポエップ(アイヌ語で〈混ぜ煮〉の意。転じて混血児の隠語)とよばれ、アイヌからも蔑まれた。
アイヌとて同胞を和人へ売った酋長もいれば、罪なき者を差別してきた歴史もある。
また、人が喪われると云うことは、文化が喪われることも意味している。
松浦武四郎『近世蝦夷人物誌』には、一日中、五弦琴を弾きながら歌っている老人の話がある。
これは決してのどかな情景ではない。
村から人がうばわれため、彼はその村で最後の五弦琴伝承者となった。
どこかでだれかが彼の歌を聴き、後世に伝えてはくれないだろうかと一縷の望みを抱いて、朝晩浜辺で歌いつづけていたのだ。
絶望を噛みしめながらだれにもとどかないであろう歌を歌う老人の孤独に胸しめつけられる想いがする。
……神原芳幸の云うとおり、波響は親アイヌ派ではなかったのだろう。
とは云え、アイヌ差別主義者でもなかったようなので、それがささやかな救いだが、当時の常識では親アイヌ派の方が圧倒的少数だったことを思えば、しかたないことなのかもしれない。
14
区立美術館『江戸のアイヌ絵展』第二展示室最後のコーナーには、幕末のアイヌ絵師・平澤屏山の作品がならべられていた。
『蝦夷人昆布採取図』と『蝦夷風俗十二ヶ月屏風』である。
「小玉貞良のところで話の出たアイヌ絵師ですね」
まどかクンが云った。
実にものおぼえがよい。〈音声ガイド〉をしていた当人が云うのもなんだが、私ならポッと出の固有名詞なぞ右から左へ聞き流すだけの自信がある。
平澤屏山(文政5~明治8[1822~76]年)。岩手県出身。
箱館(函館)で絵馬を描いていたが、場所請負人の知遇を得、日高・十勝地方へわけ入り、アイヌと生活を共にしながら、彼らの風俗を描いた。
箱館開港で舶来の絵具を手に入れた屏山は、色鮮やかな『熊狩之図』など、アイヌ絵の優品をのこしている。
『蝦夷人昆布採取図』は、アイヌたちが海岸で昆布を採取しているようすを描いている。
私はこの作品を観るのがはじめてなので〈のどかな光景〉と云う印象を受けたが、背景に小さく描かれたものに気づいて、これは必ずしも〈のどかな光景〉でないことを知った。
「どうかしましたか?」
思わず腕を組んで小さくうなる私の横顔をのぞきこむように、まどかクンが訊いてきた。
私が答えるよりも早く、私の思考なぞとっくにお見とおしの神原芳幸が彼女にささやく。
「まどかさんはお気づきになられませんか? 背景をよくご覧になって下さい」
一瞬、まどかクンと目があう。私はなにも云わず、視線だけでまどかクンを作品へ送り出した。〈訊くは一時の恥、訊かぬは一生の恥〉なんてコトワザもあるが、わからないからと云って、なにも考えずに訊くようでは意味がない。
自分であれこれ考えて、それでもわからない時にはじめて人に訊くのが〈一時の恥〉である。
ジッと作品をながめていたまどかクンも、すぐに気づいたらしい。私たちへ向きなおると、少々興奮した面もちでまくしたてた。
「背景に小さく描かれている建物ですけど、あの建物はアイヌの住居じゃなくて、運上屋(場所請負人、すなわち和人の館)ですね。それと山の中腹に見える神社の鳥居……。これは蝦夷地が和人(江戸幕府)に侵略されたことを象徴しているんですか?」
「さすがは、まどかさん。そのとおりです」
神原芳幸は微笑をうかべながらやさしい声で云った。
『蝦夷人昆布採取図』に描かれたアイヌたちは、自分たちのためではなく、和人のために昆布採取をさせられていると云うことである。
本来は和人の姿が描きこまれていてもよいはずなのだが、あえて和人を描かないことで、その事実をわかりにくいものとしている。
平澤屏山は、松浦武四郎とは別のやり方で、アイヌ奴隷化のゲンバを告発していた。それに気づいたことで作品の威圧感が増した。これはとてもしずかでコワイ絵だ。
平澤屏山『蝦夷風俗十二ヶ月屏風』にも同じ〈しかけ〉があった。
まどかクンはマックロクロスケをさがすサツキの妹みたいな熱心さで『蝦夷風俗十二ヶ月屏風』を凝視すると、得心したようすで数回小さくうなづいた。
〈一月 年礼之図〉はアイヌたちが鳥居をくぐっている。神社へ参拝するところである。
〈五月 鰯粕乾之図〉では、正方形のコンクリートブロックみたいに描かれた大きな塊をふたりのアイヌが天秤棒でかついでいる。この塊が鰯粕、すなわち肥料だ。
もちろん、イヨマンテのようすなども描かれているが〈蝦夷風俗〉に和人の爪痕が喰いこんでいるようすもしっかり盛りこまれている。
「アイヌ絵にこれほど深い歴史の闇がひそんでいるとは思いもしませんでした」
『江戸のアイヌ絵展』第二展示室をあらためて見まわしながら、まどかクンが云った。
「いやぁ、平澤屏山スゲェな」
私も感嘆した。




