第二話「華麗なる陰謀!?(蠣崎波響『夷酋列像』) 」〈12〉
「また、三白眼で描かれたアイヌの表情も、立派な英雄のそれではなく、狡猾さや険悪さを見出すことができます。まどかさん、平安貴族を描いた顔貌表現の特徴はごぞんじですか?」
神原芳幸がまどかクンへ水を向ける。
「平安貴族を描いた顔貌表現の特徴ですか?」
まどかクンの脳裏を〈平安貴族 顔貌表現〉と云う検索ワードがかけめぐる。
「……引き目かぎ鼻?」
「そのとおりです。言霊平和主義の日本において、高貴な人物は引き目で描かれてきました。三白眼は荒ぶる力(暴力=悪)の象徴、すなわち〈穢れ〉であり、野卑な人物を表現するための〈記号〉だったのです」
三白眼とは相手をニラむ目であり、敵(悪)意を表現している。
仏教図像においても、ヒンズー教など他宗教から教化された荒ぶる仏たちや後進の仏たち(四天王や不動明王など)は三白眼で描かれる。
元来、三白眼は〈邪視〉であり、世界的にみても三白眼の図像は呪術的意味あいが強い。
「先ほど展示されていた小玉貞良『アイヌ盛装図』に描かれた女性や『夷酋列像』唯一の女性〈チキリアシカイ〉も三白眼で描かれています」
「たしかに」
私はうなづいた。
『夷酋列像』の時代に美人浮世絵界を席巻していた歌麿の描く女性像でも、三白眼で描かれたものはない。
およそ幕末、渓斎英泉(寛政2~弘化5・嘉永元[1790~1848]年)の描く退廃的な美人画あたりから、ようやく三白眼の〈肉食系女子(?)〉が描かれるようになる。
「女性まで三白眼で描かれていることこそ『夷酋列像』に描かれたアイヌたちが、あくまで勇猛かつ野蛮な〈鬼〉として描かれていることの証左です」
神原芳幸のあざやかな指摘に、私は二の句を継げなかった。
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「……なるほど。たしかに『夷酋列像』がアイヌ顕彰のために描かれた作品でないことはわかったけど、波響個人がアイヌ差別主義者だったとしたら、あれほど美しい作品を描けたとは思えないんだけどな」
「私もそう思います」
私の意見にまどかクンも賛同する。
「私もそう思いたいところですが、本当のところはわかりませんし、波響が親アイヌ派であったか否かを論ずるのは無意味です。『夷酋列像』が美しい作品だからと云って、波響が温雅な文化人だったからと云って、波響を親アイヌ派と解釈するのは、アイヌ差別の歴史に疾しさをおぼえる和人のささやかな自己正当化、感傷にすぎません」
いつだって人はその時代や社会の常識にとらわれて生きている。
たとえば「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり(『学問のすすめ』)」と書いた福沢諭吉ですら、自分の娘婿になる人物は〈士族以上〉でなければならないと決めていたらしい。
福沢諭吉も人である以上、人の上下に人を造っていたと云うことだろう。
「先に友紀が指摘したように『東武画像』の落款や款記がニセモノであれば話は別ですが、あれが本物であれば、波響がアイヌに興味のなかったことのひとつの証拠と云えるでしょう」
「だからオレはニセモノだと云ってる」
私は私で筋がとおってないか?
「『夷酋列像』以降に描かれた波響のアイヌ絵がないことも腑に落ちません」
蠣崎波響の描いたとされるアイヌ絵で現存するものは『東武画像』と『夷酋列像』『御味方蝦夷之図』のみである。
函館市立図書館に波響が描いたとされるアイヌ絵のモノクロ写真が一点だけのこされているが、これとて真贋不詳である。
波響の弟子・波島は『夷酋列像』の構図を借りるなどして、四条派風で誇張のない服装のアイヌ絵を描いている。波響が自身のアイヌ絵を描いていたら、このような画風になっていたであろう。
「『東武画像』同様『夷酋列像』も、現存する波響作品とは画風がまったく異なります。友紀の指摘したように、韓国の仏画風だったのは、異国情緒をより一層高めるための効果だったのでしょう。画風うんぬんを別にしても、それ以外のアイヌ絵をのこしていないのはおかしくありませんか?」
「だからそれは、心ならずも松前藩の謀略に加担した波響が、自責の念をおぼえてアイヌ絵を描かなかったのかもしれないからで……」
「そう云う解釈も可能です。しかし、藩の命運をかけた一大プロジェクトだからていねいに描いたまでで、そう云った〈仕事〉でもなければ、わざわざアイヌを描きたいとは思わなかったと解釈することも可能じゃないですか」
「神原はイヂワルだね」
あっちょんぶりけな気分でひかえ目なイヤミをかえしながら、私は思い出した。
「そうだ、神原。松前藩は復領後に〈蝦夷介抱〉令を出しているじゃないか。これは当時、筆頭家老だった波響が、親アイヌ派だったことを示す証拠にならないか?」
「……復領後?〈蝦夷介抱〉令?」
まどかクンが首をかしげる。あ、そうか。まどかクンには説明がまだだった。
『夷酋列像』や『松前侯新製大砲記』などの〈華麗なる陰謀〉もむなしく、松前藩は文化4[1807]年に北海道を召し上げられ、陸奥国伊達郡梁川(現在の福島県)へ移封させられた。
これは江戸幕府が本腰を入れて北海道を日本の領土とする決意のあらわれでもある。
1万石あつかいだった松前藩だが、実収は約16万石とも云われる。それが9千石の梁川へ移封させられたのだからたまらない(梁川の実収は1万8千石だったと云うが、それでも約1/8の収入でしかない)。
労咳(=肺結核)に冒された家老・波響は、病身に鞭打ち、復領運動のため絵を多売し、老中・水野忠成などへ賄賂をおくりつづけた。
そんな必死の復領運動がみのり、松前藩の北海道復領が決定したのは、14年後の文政4[1821]年12月のことである。
北海道復領後、筆頭家老・蠣崎波響のもとに発令されたのが〈蝦夷介抱〉である。
場所請負人に対して、アイヌの生活保障や撫育などを義務づけた法令であった。
「それがいかに有名無実のザル法であったかは、松浦武四郎『近世蝦夷人物誌』(安政4~5[1857~58]年成立)を読んでもあきらかです」
「……たしかに」
私はうなだれた。




