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第二話「華麗なる陰謀!?(蠣崎波響『夷酋列像』) 」〈11〉

「たとえば『夷酋列像(いしゅうれつぞう)』に描かれたアイヌの半数以上が、蝦夷錦(えぞにしき)(山丹服(さんたんふく))を着ていますが、先に云ったとおり、アイヌにハレの席で蝦夷錦(えぞにしき)を着る慣習はありませんでした」


〈クナシリ・メナシの乱〉鎮静後、松前城へ連行されたアイヌたちは「着物が貧相だ」と云う理由で、松前藩から貸し与えられた蝦夷錦(えぞにしき)を着用して、藩主・道広と謁見(えっけん)させられたと云う。


 そう云った場ですら、アイヌ本来の風俗ではなく、和人のイメージするアイヌ風俗を強要させられたと云う意味だ。


「すなわち、蝦夷錦(えぞにしき)姿のアイヌたちは、アイヌ絵の先駆者と云われた小玉貞良(ていりょう)の〈みやげ絵〉と同レベルで表現されたと云うことです。ここに顕彰(けんしょう)の念があると思いますか?」


 私は沈黙した。


夷酋列像(いしゅうれつぞう)粉本(ふんぽん)』を見ると、最初はアイヌらしいパーマがかった髪とアイヌ紋様の着物を着ていた〈ションコ〉が、蝦夷錦(えぞにしき)を着ている姿へ描きかえられる過程がうかがえる。


 しかし、蝦夷錦(えぞにしき)のインパクトを強調するためか、白髪も直毛に変更されている。アイヌ風俗を正しく表現することよりも、絵としてのインパクトを優先したと云うことか?


「〈ツキノエ〉や〈イコトイ〉はロシア風の外套(がいとう)や靴に身を包んでいます。それらは松前藩でも非常にめずらしいモノで、例のシャリバンがきた時に手に入れたものかもしれません」


 アイヌを〈鬼〉として区別するためにも、彼らの服装は豪華(ごうか)な〈異国風〉でなければならなかった。


 また、豪華(ごうか)な衣装は、言外に『桃太郎』で鬼ヶ島にかくされていたとされる宝物の山を連想させたのかもしれない。


「そもそも昔から、北海道には〈鬼ヶ島〉と云うイメージがありました。源義経の北行伝説「御曹子(おんぞうし)島渡り」では、奥州平泉を脱出した義経の目的地を「鬼大王の領土」蝦夷ヶ(えぞがしま)(北海道)としています」


 義経の北行伝説「御曹子(おんぞうし)島渡り」は『保元物語』の「為朝鬼ヶ島渡り」や、古浄瑠璃『為朝夷島渡り』の冒険譚(ぼうけんたん)と結びつけられ、蝦夷ヶ(えぞがしま)(北海道)=〈鬼ヶ島〉=桃太郎の鬼退治と連想・解釈されていた。


 のちに義経をアイヌの神とすりかえることでアイヌ同化政策もおこなわれている。


 さらに、蝦夷ヶ(えぞがしま)(北海道)は、京の都から北東の方位に位置する。(うしとら)つまり鬼門と云うオマケつきである。


 そう云われてしまえば、アイヌが〈鬼〉になぞらえられたのも、当然の帰結と得心がゆく。


「実のところ、アイヌ=〈鬼〉と云う発想は、当時としては極めて常識的です。そう云った連想を助長させるような風潮も存在しました。明和・安永・天明[1746~89]年間は、草双紙類による「桃太郎(ばなし)」の第1次出版ブームでした。現在、確認されているだけでも、天明年間までに59種類の「桃太郎(ばなし)」が出版されています」


「『桃太郎』って云うとアレか? 川で拾った桃を食べた老夫婦が若がえり、子づくりに励んだ末に生まれたのが桃太郎と云う……」


「どーしてそうなるんですか!?」


 私のセリフをまどかクンがとがめた。


「室町時代に成立した『桃太郎』は、友紀(ともき)の云うようなお伽噺(とぎはなし)だったそうですが、江戸期には、私たちのよく知る〈桃から生まれた桃太郎〉になっています」


「ね、あながちウソは云ってないんだよ」


 そう云う私に、まどかクンがプイと顔をそらせた。他愛のない茶利(ちゃり)だったのにのに。



     12



蠣崎波響(かきざきはきょう)夷酋列像(いしゅうれつぞう)』では、アイヌに豪華(ごうか)な衣装をまとわせながらも、彼らが〈野蛮(やばん)〉であることを図像的に強調することを忘れてはいません」


 当時、狩猟生活民は〈野蛮(やばん)〉であり〈(ケガ)れ〉であると考えられていた。表向き、四つ足のケモノの肉を食べることは忌避(きひ)されていたし、ケモノの革などを加工するのは、下賤(げせん)な仕事とされていた。


「『夷酋列像(いしゅうれつぞう)』12枚のうち8枚に、狩猟に関係する姿や、なんらかの形でケモノが描かれている。


 たとえば〈マウタラケ〉〈チキリアシカイ〉〈ツキノエ〉には熊の毛皮が描かれている。


 これはアイヌの熊をも倒す勇猛(ゆうもう)さを表現すると同時に、ケモノの肉を食べていることをも暗示している。


〈ノチクサ〉にいたっては、鹿を丸々1頭かついでいる。「キャッチ&リリース」はできないだろうし「害獣駆除いたしました」と云う意味でもあるまい。


「〈ポロヤ〉は、もともとヒモでたばねた鮭をかついでいると云う〈アイヌ絵〉ではめずらしくない構図だったと考えられます。しかし、鮭ではインパクトが弱いと、藩主・道広からダメ出しがあったのでしょう。犬をつないだヒモを肩へまわして引くと云う、不自然な構図に描きなおされています。ヒモを肩にまわしていることで、イヤがる犬をむりやり引っ張っているようにもとれます」


 神原芳幸の推論によると、鮭の図像を消去させたのは、それが内地の人々にとって、必ずしもめずらしいものではなかったからだと云う。


夷酋列像(いしゅうれつぞう)』に描かれたアイヌたちは、あくまで〈異国の鬼〉であらねばならない。


 そのため、都市空間(京・大阪・江戸)で暮らす人々になじみのある食べ物を描き入れることは避けねばならなかったのであろう。


 余談だが、都市部の民衆も、まれに肉を食べることがあった。病後の疲労回復が目的である。これを「薬喰い」と云う。


 ただ、民衆の肉食への抵抗感はかなりのものであったらしく、肉を調理した鍋は殺菌のために3日は天日にさらすなどしていたそうだ。


 しかし、大名家では、また少しジョーシキが異なる。


 陣太鼓用の革などを生産するために牛の飼育を許可されていた彦根藩は、牛肉の味噌漬(みそづ)けを〈薬〉と云う名目で徳川御三家などへ堂々と献上している。


 大老・井伊直弼(いいなおすけ)が暗殺された〈桜田門外の変〉(万延元[1860]年)では、開国派の井伊直弼(いいなおすけ)(彦根藩出身)が、攘夷(じょうい)派である水戸藩へ牛肉の味噌漬(みそづ)けを送らなくなった恨みで襲撃されたと揶揄(やゆ)されたほどだ。


 他にも、さる大名屋敷跡から大量の犬の骨が出土しているらしい。その大名屋敷で日常的かつ秘密裏に犬の肉が食べられていた証拠だと云う。


 そのため、江戸時代の一部の階層では、私たちが思っている以上に〈肉食〉が一般的だった可能性も示唆(しさ)されている。閑話休題。

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