第二話「華麗なる陰謀!?(蠣崎波響『夷酋列像』) 」〈9〉
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区立美術館『江戸のアイヌ絵展』第二展示室。
私たちは、蠣崎波響『夷酋列像』(寛政2[1790]年)の前に立っていた。
フランスのブザンソン市立美術館で1984年に発見された蠣崎波響の最高傑作であり、アイヌ絵の白眉と目される作品である。
現役女子大生にして新進気鋭の若手女優・松本まどかクンと美術評論家・神原芳幸から〈音声ガイド〉をおおせつかった私は『夷酋列像』制作の背景となった〈クナシリ・メナシの乱〉の解説をおえ、いよいよ『夷酋列像』制作の経緯について解説をはじめた。
「『夷酋列像』は蠣崎波響が自発的に描いた作品ではない。彼の実兄でもある松前藩13代藩主・松前道広から制作を命じられた作品なんだ」
一般に『夷酋列像』は〈クナシリ・メナシの乱〉平定に尽力した12名のアイヌを顕彰するために描かれたと云われている。
蠣崎波響は、およそ1年と云う時間をついやして、この作品を完成させた。蛇足かもしれないが「夷酋」とは、蝦夷の酋長(=アイヌの代表者)を意味する。
「顕彰するために描かれたから、こんなに美しいんですね。……でも12人のアイヌって、11人しかいないじゃないですか?」
まどかクンが首をかしげた。
「『11人いる!』ってか? 完成時には12人描かれたことが数々の模本によって確認されているんだけど、オリジナルの1枚は現存しないんだ」
ちなみに鴨を2羽かかえ、首だけが不自然にうしろを向いている〈イコリカヤニ〉が欠けている。
「ただね……」
私はつづけた。
「『夷酋列像』は、松前藩主・道広プロデュース作品と云うこともあって、これまた現存する波響作品とは画風がいちじるしく異なる」
南蘋派・宋紫石の画風ではないし、上洛後に学んだ円山派の画風とも異なる。
中国・日本絵画にはまったくと云ってよいほど見られない鉄線描(強弱のない硬質な線で描かれた)の耳の描写や、豪華絢爛な色彩を観るかぎり、一番作風が近いのは〈韓国の仏画〉である。
「『東武画像』は写生を基にした肖像画らしいけれど『夷酋列像』はいろんな中国の版本から人物のポーズを拝借して描いている」
「写生したんじゃないんですか?」
と、まどかクン。
「当時の記録によると『夷酋列像』に描かれた12人のうち〈クナシリ・メナシの乱〉平定後に松前城まで連行されたのは、シモチ、イニンカリ、イコリカヤニ、ニシコマケ、チキリアシカイと云う名前のアイヌ5人だけだったそうだ」
この5人は、しばらく松前藩へ逗留している。その逗留先が親アイヌ派と云われる家老・松前廣長の屋敷だった。
ただ、アイヌたちから和人(廣長)の屋敷は落ちつかないと云われたので、邸内にアイヌ用の小屋を建て、そこでアイヌたちを饗応したそうだ(この小屋は寛政3[1791]年に解体)。
「もちろん、波響が逗留しているアイヌの元へ出向いて、人物だけでなく服飾やアイヌ特有の小物なんかはスケッチしていただろうけど、そう云ったスケッチのたぐいは現存していない」
『夷酋列像・粉本』ものこされているが、それはあくまで『夷酋列像』12図の下絵と思しきものであって、その前段階の取材によるものではない。
『夷酋列像』に描かれた〈マウラタケ〉は、月僊『列僊図賛』〈廣成子〉(天明4[1784]年)を参考に描かれたと云う指摘が以前からなされているが、私が大学院生の時に調査したところ、それ以外にも中国の版本を手本にした図像をいくつも発見した。
特に、宋紫石や月僊(元文6・寛保元~文化6[1741~1809]年)の師である桜井雪館(正徳5~天明9・寛政元[1715~1790]年)も推奨した、金古良『無双譜』(元禄3[1690]年)から多くの構図が引き写されている。
〈ションコ〉は『無双譜』〈長楽老馮道〉。
〈チョウサマ〉は『無双譜』〈東方曼倩〉の画像を反転。
〈イコリカヤニ〉は『無双譜』〈西楚覇王項籍〉の腕のカタチをそのままに、あとは画像を反転させて使用している。
〈西楚覇王項籍〉の腰に帯びた剣が〈イコリカヤニ〉では、かかえた鴨にむすばれたヒモになっているから笑える。
他にも〈シモチ〉は『芥子園画伝』の弓をつがえた女性図を参考にしていると思われる。
また、長ひげの英雄が座ったり武器をたずさえて立ったり座ったりする姿は、中国の版本挿絵に推挙の暇もない。
「スゴイ発見じゃないですか。どうしてそこまで調べていたのに、大学院やめちゃったんですか?」
めずらしくまどかクンにほめられてうろたえた私のかわりに神原芳幸が小さく笑いながら答えた。
「まどかさん。友紀は大学院教授の人格の低さに腹を立てて〈完成した〉修士論文をたたきつけて辞めてしまったんです」
「ええええっ!? バッッカじゃないですか!?」
まどかクンの大きな声が展示室へこだました。展示室にいた我々以外の数人の鑑賞者がおどろいてまどかクンをふりかえる。
まどかクンは小声で、
「スイマセン、スイマセン」
と他の鑑賞者へ頭を下げると、真っ赤な耳で私へ向きなおった。
「もったいない。なにさま気どりですか? 今時、韓流ドラマの不器用な主人公でも、そんなマネしませんよ」
んなこと云われても知るか。韓流ドラマなんか観たことないわい。
「しかも、彼自身がなにかされたわけではなくて、その教授が他の教授や学生たちに無礼なマネをしているのを見て腹を立てたと云うのですから、友紀らしいと云えば、友紀らしいのですが……」
神原芳幸が余計な補足をする。
「うっさいな、オレのことなんてどうでもよいだろうが。『夷酋列像』の話だよ『夷酋列像』」
私は強引に話題を修正した。
「『夷酋列像』に描かれたアイヌ最大の実力者とうたわれたツキノエは、高齢とアイヌ社会の政情不安を理由に松前藩へ顔を出さなかったそうだ」
彼の妻チキリアシカイ(『夷酋列像』に描かれた唯一の女性)と、その息子イコリカヤニは連行されている。
そして〈クナシリ・メナシの乱〉で処刑されたアイヌの中には、ツキノエとチキリアシカイの子ども、すなわちイコリカヤニの兄弟もいたらしい。
『夷酋列像』に描かれた〈チキリアシカイ〉の暗い表情は愛するわが子を喪った哀しみを押し殺していたのかもしれない。
さらに、ツキノエは〈和人に味方した裏切り者〉とみなされ、しばしば同族のアイヌにも命を狙われたと云う。
「ツキノエが哀れでしかたないよ。彼はアイヌ全滅を避けるため、自らの子どもの死刑をも享受したんだぜ。松前藩へ連行された彼の妻と息子は、ある意味〈人質〉だったのかもしれない」
蠣崎波響は寛政3[1791]年・春に『夷酋列像』をたずさえて上洛した。
『夷酋列像』は京の貴族や文化人の間で話題となり、ついには光格天皇の天覧をもあおぐこととなる。
数々の模本(模写)が現存する上に、波響自身も京都でもう1組『夷酋列像』を描いている。
それが函館市立図書館所蔵の蠣崎波響『御味方蝦夷之図』(寛政3[1791]年)であるらしい。
こちらは〈イコトイ〉〈ションコ〉の2枚のみ現存する。細部が簡略化されているため、あとに描かれたことがわかる。
そのため『夷酋列像』の模本(模写)にも〈ブザンソン本〉〈函館本〉の2種類が存在する。
唯一、模写の経緯がたしかな松浦史料博物館所蔵の作者不詳『蝦夷図像』(『夷酋列像』模写・紙本着色・寛政11[1799]年)が〈ブザンソン本〉の模写。
小島貞喜『夷酋列像(模写)』(天保14[1813]年・絹本著色)が〈函館本〉の模写である。




