第二話「華麗なる陰謀!?(蠣崎波響『夷酋列像』) 」〈6〉
小玉貞良『アイヌ絵巻』が展示されている平台の反対側には、谷元旦『蝦夷器具図式』『蝦夷紀行図』(ともに寛政11[1799]年)や、村上島之允(秦檍麿)『蝦夷島奇観』(文化4[1807]年)が展示されていた。
『蝦夷器具図式』『蝦夷紀行図』は和本、『蝦夷島奇観』は折本である。
小玉貞良の次にならべられる作品としては少し時代がはなれているが、アイヌ民具と関連させての展示であろう。
「これもアイヌ絵なんですか?」
まどかクンが神原芳幸に訊ねた。
「幕府のおこなった蝦夷地調査に同行した絵師たちが、蝦夷地やアイヌの文化を描きのこした記録画ですから、純然たるアイヌ絵とは云えないかもしれませんが……ああ、よいページですね。観て下さい」
神原芳幸が、谷元旦『蝦夷紀行図』の開かれたページを指さした。そこに描かれていたのは、輪になって遊ぶアイヌの子どもたちの姿である。
また、村上島之允『蝦夷島奇観』に描かれていたのは、月夜に船をうかべるアイヌの幽玄な風景画だった。
「江戸幕府が北海道の調査をおこなったのは、北海道全域を掌握し、自国の領土とするためです。しかし、谷元旦や村上島之允と云った絵師たちは、差別とは無縁の慈愛に満ちたまなざしで、アイヌ風俗をとらえようとする姿勢がうかがえます。アイヌの子どもたちがどんな遊びをしているかなんて〈侵略者〉の興味の対象外でしょう?」
「たしかにそうですね」
まどかクンも同意する。
「村上島之允『蝦夷島奇観』では、アイヌ風俗だけではなく、彼らの伝説まで絵入りで記録しています。このページに描かれた情景は、記録画としての範疇を越えて、詩情豊かな芸術的精神に満ちています」
神原芳幸の瞳が愁いを帯びた。
「谷元旦『蝦夷紀行図』も村上島之允『蝦夷島奇観』も、アイヌが差別され奴隷のようにあつかわれている現場を目撃した絵師たちの、無言の抗議がふくまれているように私は感じます。遠からず幕府に蹂躙され喪われてゆくであろうアイヌ民俗のすべてを、記録として後世にのこしておこうとしたのではないでしょうか?」
「そっか……。私、そう云った歴史を知らずに観ていたら、ただ単に「アイヌの子どもたちカワイー」でおわってたかもしれません。絵画にはいろんな見方がありますけど、歴史をふくめて〈絵を読む〉と云うことも、時には大切なんですね」
まどかクンの言葉に神原芳幸がほほ笑みながらうなづいた。
私はすっかり蚊帳の外である。
7
区立美術館『江戸のアイヌ絵展』第二展示室へ入って、まず目にとびこんできたのは、大きなアイヌの肖像画だった。
蠣崎波響『東武画像』(天明3[1783]年)紙本着色。アイヌの宝物とされている鍬先を右脇へ抱え、行器に腰かけたアイヌの男性が描かれている。
「ここから先は、友紀の専門分野ですね。〈音声ガイド〉を謹聴いたしましょう」
神原芳幸が云った。本気なのか茶利なのか皮肉なのかわからないのが、この男の悪いところである。
彼がそう云ったのは、私が大学院生の時、蠣崎波響を修士論文のテーマにしていたことを知っているからである。
実は『東武画像』も、東京国立博物館のバックヤードで調査させてもらったことがある。しかし、東京国立博物館で展示されているところは観たことがない。
「蠣崎波響って、だれですか?」
まどかクンが訊ねる。あ、そこからか。
蠣崎波響(宝暦14・明和元~文政9[1764~1826]年)。
松前藩第12代藩主・松前資廣の5男として生まれ、家臣・蠣崎氏の養子(のちに家老)となる。画人・文人として知られる。
本名は廣年。号には東岱、杏雨(京雨)、波響などがある。
幼い頃、南蘋派に絵を学び、のちに円山派を学ぶ。円山派の作品を多くのこしたことから〈松前応挙〉ともよばれる。
「ようするに、セレブな風流人と云ったところですか」
まどかクンが小バカにしたような口ぶりで得心した。本人に自覚はないようだが、先の〈秀吉肖像画連続殺人事件〉以来、セレブリティや官憲への不快感が如実に露呈している。
セレブリティに事件へ巻きこまれ、国家権力に少なからず不愉快な思いをさせられたためである。今後の女優業に悪い方で響かねばよいのだが。閑話休題。
「『東武画像』は、画面左下の款記(そえ書き)によると、紋別アイヌ酋長の東武と云う人物から乞われて描かれた肖像画なんだって。絵の雰囲気から察するに、その人物を実際に写生した上で描いたみたいだから、ひょっとすると世界最古のアイヌ肖像画かもしれない」
「……ちょっと待って下さい、友紀さん。たしかアイヌは人型の制作を禁忌している民族じゃなかったんですか?」
「そう。だからめずらしい。しかも、和人とある程度の信頼関係をきづき、和人の文化に興味や理解があり、迷信を鼻であしらうことができるような豪快さをもったアイヌ酋長だったと云うことだからね」
「波響はアイヌの人たちと仲がよかったんですか?」
「特別そう云った史料はありません」
と、神原芳幸。
「波響って松前藩の家老だったんですよね? アイヌの人が松前藩の家老に肖像画を依頼できるんですか?」
まどかクンが眉間にシワを寄せながら首をかしげた。スルドイ指摘である。
当時の波響は21歳。まだまだ若輩者とは云え、そして名ばかりとは云え、一応〈家老〉である。
しかも、アイヌ絵の制作まで禁じていたわけではないが〈アイヌ絵藩外持ち出し禁止令〉を出している松前藩の家老へ、アイヌ酋長が気軽に肖像画を依頼できただろうか?
さらに波響の画才が広く世に出たのは、寛政2[1790]年以降である。波響が絵師であることなぞアイヌ酋長が知るよしもあるまい。
「さすがは、まどかクン。ふつうに考えるとあり得ないんだけど、波響とアイヌの橋渡しをして、肖像画を依頼できたであろう人物がひとりだけいるんだ」
「……豹関ですね?」
神原芳幸はいたずらっぽくほほ笑みながら、わざとムツカシイよび方をした。
学を衒う美術史家とか美術評論家なんかの悪いクセである。まどかクンもキョトンとしているではないか。
「豹関こと松前廣長。波響とアイヌの橋わたしができたのは彼だけだと思う」
松前廣長(元文2~寛政13・享和元[1737~1801]年)。
蠣崎波響の叔父であり、松前藩随一の碩学で知られた家老である。通称は監物など。豹関は号である。
松前藩の正史『福山秘府』全60巻(安永9[1790]年)や、地理書『松前志』(安永10・天明元[1780]年)の編纂・執筆でも知られる。
国立公文書館(内閣文庫)所蔵の『蝦夷実記』によると、彼は宝暦6[1756]年6月6日に、初めてアイヌの姿を実見している。
松前藩主に謁見するため、東蝦夷地からやってきたトヒカラインら17名のアイヌである。
松前廣長は書く。
「トヒカライン与云ェル夷人、福山ニ来テ領主ヘ謁ス。頗ル跋扈夷人ナリシカ、長ケ高ク…〈中略〉…容止甚タウルハシカリキ」
ひらたく云えば、松前廣長は同時代に唯一アイヌを賛美した〈松前藩の人間〉なのである。
詳細は後述するが、彼は自分の邸内にアイヌたちを泊めていたこともある。そのため、親アイヌ派であった松前廣長をつうじて『東武画像』の依頼を受けたことは疑う余地もない。
「……ただそれも、落款や款記が正しければの話だけどね」
私はニヤリと笑ってみせた。




