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第二話「華麗なる陰謀!?(蠣崎波響『夷酋列像』) 」〈5〉

友紀(ともき)、まどかさん。こっちに『アイヌ絵巻』がありますよ」


 神原芳幸が私たちをうながす。


『江戸のアイヌ絵展』第一展示室中央に据えられた平台の展示ケースに、小玉貞良(ていりょう)『アイヌ絵巻』が展示されていた。2003年に新発見された四例目の小玉貞良(ていりょう)『アイヌ絵巻』である。


『アイヌ盛装図』に比べると上手くなっている。全体的な稚拙(ちせつ)さはぬぐうべくもないが、筆致は丁寧(ていねい)で好感がもてる。


「熊狩りやイヨマンテ(熊おくりの祭)のようすですね」


 まどかクンがささやいた。お、少しは予習してきたのかな?


 ほかにも『アイヌ絵巻』には漁労やアイヌの日常風景が描かれていた。


 もっとも、小玉貞良(ていりょう)はイヨマンテの意味を理解していなかったらしい。狩猟・肉食のめずらしかった日本人(和人)相手に、熊狩りやイヨマンテは題材としておあつらえ向きだった。


「アイヌ絵の〈みやげ絵〉としての需要は多かったんですか?」


 まどかクンが私たちに訊ねる。


「どうしようもないレベルのアイヌ絵も少なくないらしいから、大津絵みたいな感じでそれなりに需要はあったのかなあ? ただ、松前藩はアイヌ絵を藩外へ持ち出すことを禁止していたんだ。……だよな、神原?」


 ちょっと自分の知識に自信がなくなって、神原芳幸へ確認を求めた。


「そのようです。『旧記抄録(きゅうきしょうろく)』宝暦9[1759]年7月19日の条に、以前から夷画(アイヌ絵)を他国へもち出すことを禁止しているが、改めて触書(ふれがき)で知らせる、と云う記述があります」


 改めて禁止するくらいだから、かなりの需要があったとみるべきであろう。


 しかし、その翌日の日付で、青森の広田神社に小玉貞良(ていりょう)の描いた『熊狩図』と云うアイヌ絵の絵馬が奉納されたと云うオチまでついてくる(戦災で焼失)。


 有名無実のザル法だったと云う解釈が一般的だが、巨大な絵馬が奉納当日に松前から海をへだてた青森まで運ばれる可能性は低い。


 想像をたくましくすれば、松前藩のアイヌ絵藩外持ち出し禁止令の念押しは、小玉貞良(ていりょう)『熊狩図』奉納を阻止するためのものだったかもしれない。


 むろん真相は(やぶ)の中である。



     6



「なんで松前藩はアイヌ絵を藩外へ持ち出すことを禁止していたんですか?」


「……松前藩や北海道に対する好奇の目を避けたかったんだと思う」


 まどかクンの問いに私が答えた。


「たぶん、当時の日本人の多くは、アイヌ民族の存在を知らなかったんじゃないかな。北海道と云う、大きいか小さいかもよくわからない最北端の島に松前藩があって、北前船(運上屋)は松前藩の生産している昆布や鮭を運んでくると信じられていたみたいなんだよね」


〈松前藩の許可を得てアイヌと貿易している〉のではなく〈松前藩と貿易している〉と広く一般には認識されていたのだろう。


 アイヌ民族の存在がひろく流布(るふ)されれば、松前藩をさし置いて秘密裏にアイヌと貿易をはじめる野心的な商人が出てこないともかぎらない。


 大陸と密貿易していたと云われる藩だけに、猜疑(さいぎ)心は人(藩)一倍強い。


友紀(ともき)の仮説を補強するわけではありませんが、江戸時代で最初にアイヌのようすを記したのは、松宮観山『蝦夷談筆記(えぞだんひっき)』(宝暦7[1710]年)だそうです。江戸時代最初の百科辞典『和漢三才図絵(わかんさんさいずえ)』が正徳3[1713]年。アイヌ(蝦夷人)について、はじめて絵と地図入りで解説された書物と云われています。新井白石『蝦夷志』が享保5[1720]年ですからね。江戸開府以来100年以上は、一般の日本人(和人)にアイヌや北海道に関する知識がなかったと云っても過言ではないでしょう」


 神原芳幸が云った。


「そう云えば、北海道にある古い狛犬(の石材)は、北前船で近畿地方から運ばれてきたんだって」


「なんの話ですか?」


 まどかクンが怪訝(けげん)そうな顔をする。


「ちょっとしたトリビアだってば」


 マジメな話が長々とつづくのはニガテなのだ。


 五十嵐聡美『アイヌ絵巻探訪』(北海道新聞社)によると、松前藩はアイヌ絵の藩外持ち出しを禁止した上で、それまでのアイヌ絵巻に描かれていた〈ある場面〉を検閲・削除した形跡があると云う。


 アイヌが(みつ)ぎ物を持参して松前藩主に謁見(えっけん)する場面である。


 松前藩の生産品とされていた鷹や、フクロウの羽、家康も愛したと云う強壮剤(きょうそうざい)のオットセイなど珍奇な品や、たくさんの海産物が屋敷の前にならべられ、手をつないだアイヌの男たちが座敷へ上がり、松前藩主の前へ歩み寄っている。


 図像的には、上座へ座る松前藩主をアイヌたちが立って見下ろす構図となっている。見ようによっては、アイヌたちの方が松前藩主より〈エラい〉感じがする。


 そのため、アイヌと藩主の謁見(えっけん)場面は削除されたのであろう(のちに、松前藩主とアイヌの謁見で、アイヌが座敷へ上がることは許されなくなった)。


「それって、ヒドくないですか!?」


 まどかクンが柳眉(りゅうび)を逆だてた。


「近世以降の北海道史は、アイヌ侵略の歴史ですからね。ヒドくないことを探す方が難しいかもしれません」


 神原芳幸にしてはきびしい指摘である。


「なんちゅうかさ、松前藩(主)って妙なプライドがあるんだ。幕府に対してはあくまで恭順(きょうじゅん)の意を示しているんだけど、内外じゃ〈蝦夷大王〉なんてよばれて一国の王様気どりでさ。歴代松前藩主の傾向が大言壮語(たいげんそうご)淫乱(いんらん)だし」


「サイテ~」


 まどかクンが私の顔を見て嘆息(たんそく)した。どうして私がまどかクンにさげすまれなければならないのだろう?


「ほかにも、松前藩にはうしろ暗いことが山とあるんだ。たとえば、松前藩は江戸時代唯一のキリシタン天国だったなんて知らないでしょ?」


 気をとりなおして、まどかクンへ水を向ける。


「え!? そんなこと学校で習ったおぼえありませんけど」


 まどかクンがおどろくのも無理はない。私だって日本史の授業で学んだ記憶はない。


 慶長17[1612]年に出された禁教令により、キリシタンの多くがマカオやマニラへ追放されたと云うが、北海道にも金山発掘の鉱夫と云う名目で、たくさんのキリシタンが流れ着いた。


 もっとも、当時のキリシタンにしてみれば、北海道もマカオやマニラと変わらない辺境の〈外国〉だったのだろうが。


 元和4[1618]年に、アンジェリスと云う宣教師が松前藩へ潜入し、藩主・松前公広と謁見(えっけん)している。


 その時、アンジェリスは藩主にこう云われたと記録している。


「パードレ(=宣教師アンジェリス)は松前藩に見えるのはダイジモナイ。なぜなら、天下(江戸幕府)がパードレを日本から追放したけれども、松前は日本ではない」(『アンジェリス第一蝦夷報告書』)


 とは云え、江戸時代、松前藩に公然と教会が建てられた記録もないので、信仰はあくまで秘密裏におこなわれていたのだろう。


 江戸時代末期の安政2[1855]年、箱館開港を目前にひかえた幕府は、改めてキリスト教禁止令の徹底化を指示したのだが、松前藩がキリシタンの詮議(せんぎ)をおこなうことはなかった。


 さらに「踏み絵など人目を引く真似をすれば、寄港する諸外国との関係が悪化する可能性もある」などと云いのがれ、最後までキリスト教禁止令を無視しつづけた。


「ようするに、珍奇なアイヌ絵を見て、興味本位で松前藩を訪れた旅行者に、松前藩はキリシタンの巣窟(そうくつ)だったなんてバラされても困るわけ」


「……なんだか松前藩って、スネにキズありありじゃないですか」


 まどかクンがあきれた。


「スネにキズありありって云うのはオッカシーですね」


 神原芳幸がまどかクンの口癖をさりげなくまねて笑う。

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