星落ちる
手を伸ばせば、星に届きそうな夜だった。
天気は快晴、おまけに新月。染みひとつない暗幕の綻びから覗いた日光のように、星影が、視界いっぱいに散りばめられている。色とりどりの恒星は、私の心音に合わせてちらちらと瞬きを繰り返す。
「月のない夜……天文部にとっては、絶好の合宿日和だな」
頭上に広がる光の洪水に陶酔していると、隣から声がした。見ると、先輩がうちわで涼を取りながら空を仰いでいる。
えっと、この人は……関田先輩。入部して三ヵ月、そろそろ先輩の顔と名前はばっちりだ。
「背後に気をつけろよ、関田」
そう言って、別の先輩が関田先輩の肩を小突く。
この人は湯月先輩。彼女の口角がいたずらっぽく吊り上がって、長い巻き髪が夜風に溶ける。
「襲う奴なんてお前ぐらいしかいねーよ」
関田先輩はそう言って、呆れたように眉を寄せる。その様子に含み笑いを漏らしていると、関田先輩が声をかけてきた。
「どうかな、佐倉さん。初めての合宿に参加した気分は」
突然話を振られ、面食らう。しどろもどろになりながらもなんとか言葉を紡いだ。
「あ、えーっと……なんか、すごい、です。こんなの、今まで見たことありません。……手を伸ばせば、掴めそうなくらい」
言ってから、後悔した。なんて幼稚なことを言ってしまったんだろう。思ったことを、そのまま口に出すなんて。なんかすごい、なんて小学生の感想文みたいだ。それにだいたい、星に手なんか届くはずがないのに。
急に頬が熱くなったのは、羞恥じゃなくて、真夏の生ぬるい風のせいだと必死に思い込もうとした。ううう、せっかく天文部に入ったんだから、もっとまじめに観測しなきゃいけないのにぃ。
……だけど、先輩は笑ったり、呆れたりしなかった。ただ黙って、掌を星空にかざして、眩しそうに目を細める。そのままゆっくり、拳を握って開くのを二、三度繰り返すと、先輩は力なく腕を下ろした。そうして、口を開く。
「……やっぱり、届かねぇよなぁ」
そう呟いて、星明かりの残滓に照らされた先輩の顔が、照れたように歪む。いつもの皮肉っぽい笑みじゃない、優しく、そして少し寂しそうな顔。
その笑顔が満点の星とともに、網膜に焼きつく。
その声が鼓膜に、脳裏に、左心房に、刻みつけられる。
それだけで。
それだけで、私の視線はまるで、地球の周りを旋回する人工衛星みたいに、先輩から離れなくなったんだ。
◇
星のような人だと思った。
手が届きそうなほど近くにいるのに、近づくと、流れるようなゆるやかさで離れていってしまう。私は遠くから先輩の背中を見つめてきた。一年もの間、ずっと。
それでも私は、先輩に触れようと、精一杯手を伸ばすんだ。
「雨、止まねーなぁ」
忌々しそうに呟いて、先輩が空を仰ぐ。
昨日の夜から降り続けている雨は、ベランダのコンクリートにいくつもの湖を作りながらその勢いを増していた。
部屋の明かりを映しこんだ雨の糸が、流れ星のように見える。まるで、無数の星が地面に向かって落ちてきているようだ。
「去年は快晴だったのになぁ」
先輩が長い溜息をつく。その残念そうな顔を見て、何故か申し訳ないような、いたたまれない気持ちになった。
「お前のせいだ関田ー!」
「痛ってぇええ!」
湯月部長が先輩の頭を張り飛ばして、先輩が悲鳴を上げる。いつもの光景だなぁ、なんて思ってしまった自分が少し恐ろしい。一年間、同じような光景を見続けて、すっかり慣れてしまった。
「なんで俺だよ! 文句は神サマにでも言えっつーの!」
「神の字を名に持つ男が何を言うか!」
「どこにも入ってねぇけど!?」
「あれ、関田神之介とかそんな名前じゃなかったっけ」
「瞭介だよ! 下の名前に神とか恐れ多すぎるわ!」
相変わらず、先輩と部長の会話は漫才みたいだ。声を上げて笑っていると、胸の片隅に刺すような痛みが走る。鼻の奥もちくりと痛んだ。
……部長はいいなぁ。先輩に、触れることができて。
いや、部長に嫉妬するなんて駄目だ。この合宿中に実行するって、決めたんだから。
まだ部長と言い合いをしている先輩の横顔をじっと見つめて、決意を新たにする。
今日を含めて三日間。その間に、絶対告白してみせる!
自分を奮い立たせ、胸の内を逆撫でするような羨望をあくびとともに噛み殺す。時刻はさっき確認した時には、もう夜中の一時を回っていた。
「これじゃあ今日の観測は無理っすね。俺トランプ持ってきたんで、先輩方、大富豪でもしましょうやー」
新入部員の野中くんが部屋の中から手招きする。彼は既に人数分のカードの束を作り始めていた。
「でかした野中!」
うれしそうな声音の部長が、跳ねるようにして中に入る。私と先輩もその後に続いた。
観測ができないのは残念だけれど、まだ合宿初日だ。今日はみんなで遊んで、明日の夜に期待しよう。
誰も外に出ていないのを確認してからガラス戸を閉めると、外の闇が眩く光った。数拍ののち、くぐもった轟音があたりに漂う。
「こりゃあどっかに落ちたなぁ。……明日、観測できんのかね」
部長がどこか他人事のように、呟いた。
◇
もう何回、出世と没落を繰り返したか分からなくなってきた頃。時刻は三時半を回ったところだった。
床の上では野中くんと部長が寝息を立てている。……部長の方は寝息というか、どっちかというといびきに近いけれど。
「遊び疲れて寝るとか子供かよ……」
先輩が呆れたように呟くが、その声は心なしか楽しげだ。
「まぁ、時間も時間ですしねぇ」
「あーそっか、もう三時回ってるもんな。佐倉は大丈夫か?」
「へっ、あ、はい」
話を振られるとは思わなかったので、しどろもどろに返答する。先輩が不思議そうな顔をしたので、
「大丈夫です! 昼間たっぷり寝てきましたから!」
慌てて胸を叩き、続けた。うう、勝手にうろたえて必死になって、変な奴だと思われたかなぁ。そう思ったが、先輩は気にした風もなく、ふっと笑んで、手元のトランプに視線を落とした。
「そっか」
その優しい声音に、心臓が悲鳴を上げる。そういえば、部長と野中くんが寝ている今、先輩と二人っきりだ。降って湧いたこのチャンスを逃すわけにはいかない。
「アイツら寝ちまったし、トランプ片づけるか」
「そ、そうですね」
返答しながらうつむいて、紅潮した頬に髪の影を落とした。こんな時、部長みたいに髪が長かったら、もっとしっかり隠せるのになぁと思う。揺れる感情を先輩に悟られないように、意味もなくカードの束を無心になって切り始めた。
しばしの沈黙。辺りには部長と野中くん二人の寝息と、カードを切る音だけがいやに響く。幸か不幸か、部長のいびきも今はだいぶ治まっていた。
静寂が、心臓の鼓動を早めていく。内側から胸を叩く心音が、早く告白しろとばかりに急かしてくる。この音が、先輩にまで届いていないことを祈った。
口を開き、閉じるのを繰り返す。言わなきゃ。このチャンスを逃したら先輩の卒業まで、いや卒業したあとも、きっとずっとこのままだ。
息が詰まる。うまく声が出せない。目をぎゅっとつむり、声帯を無理に震わせる。
「……せ」
「外、静かになったな」
ふいに、先輩の視線が手元からガラス戸の方へと移動する。慌てて、絞り出そうとした言葉を飲み込んだ。
「へっ、そ、外?」
「あ、ごめんな、何か言いかけた?」
すまなさそうに眉を下げる先輩の顔を見て、告白を続ける勇気はどこかに吹き飛んでしまった。うう、このヘタレ。
「いえ、なんでもないです……雨、やんだんですかね?」
先輩の視線から逃れるように立ち上がって、カーテンを引いて外を確認する。……真っ暗で数歩先しか見えない。戸を開けると外はしんと静まり返って、時折したしたとしずくが雨どいを走る音が聞こえるだけだ。
外に出ると、雨はすっかりやんでいた。先輩も私の後に続いたようで、後ろの方で、戸を閉める音がする。
なるべく部屋の明かりから離れて、目を慣らす。暗闇に身を隠していたものがゆっくりと、私の前に姿を現し始める。すると。
「わぁ……」
一年前に見たような、夜空がそこには広がっていた。
頭上に広がる光の洪水。瞬きを繰り返す恒星たち。手を伸ばせば星に届きそうな、という言葉が頭をよぎる。
ただ、たったひとつだけ一年前と違うのは、天上に燦然と輝く月の存在だった。
明るすぎるくらいの月光にあてられて、視線を下に落とす。すると、水溜まりの中に月が落ちていた。その光は本物と寸分違わず眩しくて、私は思わず目を細めた。
「晴れたけど、月が邪魔だな。やっぱ日程ずらすべきだったか……?」
先輩も月が気になるようで、ばつが悪そうな声を漏らす。皓々と降りそそぐ月明かりが先輩の顔を明るく照らしている。
「いいじゃないですか、月夜。月も星のひとつですよ」
「そりゃ、そうだけどさぁ……まぁいいか。去年いなかった野中は熟睡してるし、うるせー湯月も起きないし」
やれやれとばかりに鼻で笑う先輩に、思わず口元がゆるむ。素直じゃないんだから。
「そんなこと言って先輩、二人にタオルケットかけてあげてたじゃないですか」
そう言うと、先輩は分かりやすくうろたえ始める。
「ばっ、あれは、湯月が腹出して寝てっから。野中も、エアコンの真下にいやがるし……」
素直にも非情にもなり切れないところも先輩の魅力のひとつだ。
私も寝たふりすればよかった、という後悔が胸の内をかすめたが、先輩とこうやって二人で話せることを考えれば、起きててよかったと思う。
ゆるんだ口角が戻らないまま、先輩を見つめる。すると、先輩はすねたようにぷいと横を向いた。
「まったく腹といい、いびきといい……彼氏いるヤツの行動とは思えねーよな」
……え?
先輩が、なんでもないことのように言った言葉が、頭の中にがんと響いた。怖くなくても背筋って凍るんだ、とどこか他人事のように思う自分がいる。
彼氏って、まさか。おそるおそる、口を開く。
「……彼氏?」
「あれ、知らなかったか? 遠距離らしいぜ。会ったことないけど」
それを聞いて、凍った背筋が弛緩する。会ったことない、ってことは、先輩が彼氏ってわけじゃないんだ。
そう思ってすぐに、衝撃がまた胸の内を支配する。
「部長、彼氏いるんですか……!?」
「驚きすぎだろ……湯月に言ってやろ」
「ち、違いますよ! 私てっきり、部長は先輩が好きなのかと」
そう言うと、先輩は一瞬目を丸くしたあと、噴き出した。
「俺がぁ? そんなわけねーじゃん」
呵々大笑といった感じで笑う先輩の姿を見て、胸のつかえが取れる思いがした。ああ。早合点して、勝手に部長に嫉妬するなんてほんとバカだなぁ。そんな自嘲も相まって、先輩と一緒になって笑う。
しかし、先輩の続く言葉でまた息が詰まった。
「そもそもそーいう恋愛とか、俺には縁ねぇし」
それは自虐でも僻みでもなく、ただ事実を述べているような口調で。
下を向いて、唇をきゅっと引き結ぶと、喉の奥が熱くなった。胸からせぐり上げる感情が、私から空気を奪っていく。心臓が、ぎりぎりと音を立てて締めつけられる。
私の気持ちを、否定されたような気がした。縁がないなんて、そんなことないって、叫びたかった。
「……もし、先輩のことが、好きだって言う人が現れたら、どうしますか」
うつむいたまま、そう切り出すと、先輩は質問の真意をつかみかねる、とでも言いたげに眉を寄せた。
「は? 何、言ってんだよ」
「答えてください」
返事を急かすと、先輩は困ったように目を泳がせた。
「どうしたんだよ、佐倉。……だいたい俺が好きとか、そんなヤツいるわけな……」
「いるんですよ」
まだ分からない先輩の鈍さに、理不尽にも腹が立つ。……腹が立つのに、愛おしい。
いつもの皮肉っぽい笑顔も。たまに見せる優しい顔も。部長にからかわれて、不機嫌そうに眉を寄せた顔も。顔に似合わない、低めの少しざらついた声も。照れると子供みたいにそっぽを向くところも。
全部全部、泣きたいくらい大好きだ。
気づいてください、先輩。
「いるんです。……目の、前に」
声が震える。先輩の顔を見ることができない。心臓の鼓動はもう滝壺のような音を発しながら打ち続けている。でも、言わなきゃ。きっと、言わなきゃ、先輩に届かない。
「私、先輩が好きです。一年の頃から、ずっと」
「…………」
言った。
言ってしまった。
おそるおそる顔を上げると、先輩はぽかんと口を開けている。まだ気づいてくれないのか。そのまま先輩の顔をじっと見つめていると、ゆっくりと、先輩の表情が崩れ出した。
先輩の眉が上がる。眉間にしわが寄る。目が見開かれる。口は無意味に開閉を繰り返す。やり場のない両手は、せわしなく意味のない動きをし始めた。
「お前っ……ばっ……じょ、冗談」
先輩のあまりのうろたえぶりに、冗談だと言ってごまかそうかというささやきが頭の隅で響いたが、聞こえないふりをした。もしかしたらこのささやきは、自分の中の天使が発した声だったのだろうか。
「冗談なんかじゃないです。本気です。先輩は、どうですか。私じゃ、ダメですか」
畳みかけるように質問を浴びせると、先輩は困りきったような顔をして後ずさった。顔はもう泣きだしそうにも見える。……ああ、泣き出しそうな先輩も可愛い。そう思う私は、自分の中の悪魔に乗っ取られているのかもしれない。
「俺――俺、は……」
先輩が、狼狽したまま言葉を紡ごうとする。身を乗り出して、次の言葉を待っていた、瞬間。
「わーすっげーむっちゃ晴れてるやないっすかー!」
脳天に抜けるような快活な声が響いた。あまりに驚いて、前傾姿勢だった体を気をつけの姿勢に直して、先輩から遠ざかる。先輩はのけ反るような姿勢のまま固まった。
「あー先輩方、起こしてくださいよぉ。二人だけとかズルいっす!」
そう言って、野中くんがこちらに歩いてくる。冷や汗が背筋をつっと流れていった。
「野中……」
先輩が油の切れた機械人形みたいに姿勢を戻しながら、野中くんに声をかける。その声は、ひどく震えている。
「あれ、関田先輩。声裏返ってますよ? どうしたんすか?」
「い、いや……」
先輩がまごついていると、野中くんの後ろから部長が叫ぶ。
「さてはお前、野中の声にガチビビりしたんだろ! やーい怖がりー!」
「えっ、そうなんすか、先輩!」
「ちっげーよ!」
先輩が野中くんと部長を小突く。まだ動悸が治まらない胸をおさえて、ほっと息をつく。
残念だと思う気持ちもあったが、それよりも答えを聞かなかったことに対する安堵が大きかった。さっきの自分は、完全にどうかしていたから。それを止めてくれた野中くんには、ある意味感謝するべきかもしれない。
だが、その安堵の奥で、すっと冷たい風が吹き抜ける心地がした。
告白した以上、もう後戻りはできない。
今までの関係を壊したのは自分なのに、どうしようもない後悔が頭をもたげる。目の奥が、咎めるようにちくりと痛んだ。
◇
「あれ? 佐倉、目が赤いぞ。寝てないのか?」
部長に言われ、目元に手を当てる。ほんのり熱を帯びていた。
「……目立っちゃいます?」
「いや、ちょっとだけだけど。眠くなったら無理せず寝ろよ?」
「はい……ありがとうございます」
告白から丸一日が立ったが、先輩からの返事はない。そのことが気になって気になって、皆が仮眠をとっていた昼間も、一睡もできなかった。……まぁ、目が赤い原因は、それだけじゃないんだろうけど。
「まぁ私は星空そっちのけでトランプするけどな! 野中付き合え!」
「喜んで!」
「てめーら合宿中ぐらいマジメに観測しろ!」
部屋に戻ろうとする部長と野中くんを先輩がいさめる。その光景を見て笑う余裕は今の私にはない。
一瞬、先輩と視線がかち合ったが、すぐにふいっと逸らされる。それに、息もつけないほど胸が苦しくなった。
心のどこかで、このまま、返事は返ってこない気がしていた。先輩が、このままずっと、こちらを向いてくれない気がした。
昨日と変わらず地上に光をそそいでいる星々を見上げる。そのあと、足元の水溜まりに視線を移した。
やっぱり、星には手が届かないんだ。月なら、手の届くところまで落ちてきてはくれるけど。
しゃがみ込んで、星空を溶かし込んだ水面に指を乗せる。月は指先を拒むように揺らめいて、形を失った。
ほら。手に入れることは、叶わない。
そうしていると、目と鼻の奥が針を刺したように痛む。込み上げる激情が肺いっぱいに広がって、息もつけないほど苦しくなる。
水面の月がぼやけて、輪郭を失う。目から零れたしずくが、水溜まりに波紋を作る。月がくすぐったそうに上下に揺れた。
「佐倉」
突然、上から降ってきた声にひどく動揺する。低く、少しざらついた声。顔を上げなくたって、誰のものかなんてすぐに分かる。
「せっ……先、輩」
あまりの驚きに、涙は一滴零れただけで残らず奥に引きこもってしまった。顔を上げると、真剣な顔をした先輩が私を見下ろしていた。
「あれからいろいろ、考えた」
先輩はそう言って、その場にしゃがみ込んだ。先輩の視線と私の視線が交錯する。逸らしたかったが、それも叶わなかった。
「俺には、恋愛ってのがよく分からない。今まで考えたこともなかったから」
先輩は、真剣に言葉を選んでいるように、眉根を寄せている。その顔を見て、返事を期待しなかった自分を責めた。
そうだった。先輩は、いつだって。どんなことだって、まじめすぎるほど真剣に受け止めて、悩んで、答えを出そうとする人なんだ。
「……だから。こんな状態のまま、佐倉の気持ちに応えることはできない」
先輩の顔が、つらそうに歪む。そんな顔をさせてしまうのが、心苦しかった。昨日は、泣きそうな顔をさせて喜んでいたくせにね。
先輩の視線が、やっと私から外れる。横を向いた先輩の口元に、ふっと笑みが浮かんだ。
「……でも、俺さ。たとえば部長が泣いてたとしても、ほっとくと思うんだ。それどころか、もっと泣きやがれぐらい思うかも」
寂しそうに微笑む先輩の横顔を怪訝な顔で見つめる。どうして部長が出てくるんだろう、と疑問に思った。
「野中でも一緒。たぶん、兄貴でも、他の友達でも、そうだと思う。……さすがに、泣きやがれとまではいかねーけど」
脈絡のない話に首をかしげる。先輩が何を言いたいのか、よく分からなかった。その困惑が伝わったのか、先輩が苦笑しながらこちらに向き直った。
「でも、佐倉が泣いてたら……それを想像したら。……泣いてほしくない、笑っててほしいと、思った」
え、と声を上げたつもりだったが、喉の奥が小さく鳴っただけだった。先輩は、再度私から目を逸らして、照れたように頭をかき回す。
「これが何なのか分かんねぇけど、そういうのを恋とか愛とか言うんなら。……そうなのかも、しれない」
予想していなかった返答に、戸惑う。まさかこんな、好意的な言葉が返ってくるなんて、思ってなかったから。お前何言ってんのって笑い飛ばしてくれたって、きっと私は、先輩を嫌いになんてなれなかったのに。
「ごめんな、こんなハッキリしない答えで」
「い、いえ」
首を横に振ると、先輩はほっとしたように息をついた。
「まぁ、あの、そんな感じだから。それでもいいなら。……これからも、よろしく」
「……分かりました。こちらこそ、よろしくお願いします」
口元がゆるむのが、自分でも分かる。すくっと立ち上がって、先輩から離れる。
「佐倉?」
先輩の声を背中に受けながら、星空に手をかざす。
――ああ、やっぱり。星は星でも、先輩は月だ。
水溜まりに映った月のように、手の届く場所まで落ちてきてくれた。触れようとすれば、消えてしまうけれど、今はまだそれでいい。
今の私は、手に持ったバケツに夜空を映して、月を手に入れたと喜んでいるようなものなのかもしれない。
それでもいつか、本物の月まで飛んでいけることを願いながら。
「先輩。私、諦めませんから」
くるっと向き直って見据えた先輩は、目を丸くしている。
「絶対、惚れさせてみせます!」
そう言って、笑ってみせる。
月明かりに照らされた先輩の顔が、赤みがかって見える。それがただの気のせいじゃないことを、少しだけ期待した。