その瞳は僕だけに
懐かしい匂いがした。昔、自分が好きでお兄ちゃんがよく作ってくれたハヤシライスのいい香り。
お兄ちゃんなんか私にいたかしら。
幼い頃の記憶。奈緒にはそれがない。思い出として語り話せるような記憶、それがないのだ。幼い頃に何かあったのか。そういうわけではないはず。両親とも仲がいいしじゃあ友達がいなかったのか。そういうわけでもない。ちゃんと友達はいたし、家族ともそれなりにやってきたつもりだ。そもそも父と母は多忙であまり会えない人たちだったが。それでも。
ああ、今日は晴れか。カーテンの隙間から差し込んだ光を見てそう思う。もう夕方なのかと。そう考える。
「おい、夕飯だぞ…って起きてたのか」
「ええ」
「お前さ…」
「口調を直せ、それは聞かないわよ」
「なんでだよ」
なんでだろう…貴方と過ごして数日間。普通なら早く帰りたいって思うはず。なのに、そんなこと全然考えないの。むしろここにずっといたいくらい。奈緒はそのくらいここに愛着を覚えていた。
「なんでだろうね」
「あ…おいっ」
店まで追いかけっこね。そう言って駆け出す。マスターのしたこと。それは世間的には誘拐かもしれない。けれどここの生活は楽しかった。
「今日、ハヤシライスなの?」
店に置かれた二つの皿。そこにはハヤシライスが盛られていた。
「ああ、嫌だったか」
マスターは少し上目づかいで聞いてくる。自分より身長の高い相手が上目づかいしても上目づかいになっていないから笑えてくる
「いや、別に」
自分の中の天邪鬼な心が素直に嬉しいと言わせてくれないのが口惜しい。
綺麗に盛られた二皿のハヤシライス。お店にあったバジルも添えてある。そしてなぜだろうか、その皿からはとても懐かしい匂いが漂ってきた。いつも冷凍食品ばっかり食べていた自分の唯一思入れのある匂い。そう思えた。
「いただきます」
そう言ってハヤシライスを口に運ぶ。牛すじの入った懐かしい味。懐かしさのあまり、思わず顔を伏せる。涙が出そうだった。なんとなくこれを作ってくれていた彼のことを思い出す。優しい近所のお兄ちゃん。今は元気かな。
「どうしたの、おいしくなかった?」
そう言って、マスターは奈緒の顔を覗き込む。
「いや…懐かしくて」
そう言うと彼は何故か満足気に頷いた。
「俺も懐かしい」
「え」
「これ、久々に作ったから」
「?」
顔をしかめ、彼を見つめる。どういうことだ。その意図が読み取れない。
何でもない、そういった彼の目線が壁に移った。食品衛生責任者の賞状。それは店にではなく個人に贈られていた。
『小倉 尚之』
「小倉さん…」
「ああ、お前と同じ名字だよ」
「なんで」
この辺りで小倉という名字は少ない。かといって、珍しい名前というわけでもない。自分の思い過ごしだろうか…。
「偶然じゃないかな」
淡い期待だった。でも自分には幼い頃の記憶がない。もしかして。もしこの小倉という男が他人でなかったら。でも今ままでにないくらいの悲しみを含んだ声に虚ろな瞳。彼女は思わず彼を見上げた。
「大丈夫。僕はお前の家族じゃないよ」
不安に顔をゆがめる彼女に小倉はそう寂しく笑う。
「でも、小倉奈緒という人物のことはよく知っている。なんでだろうな。」
そう言って乾いた笑い声が部屋に響く。額に手を当て…泣きそうなのを押し殺しながら。記憶の片隅でそれを見たことがあると幼い私がそう叫ぶ。その人を一人にさせてはいけない。そう何かが訴えてくる。ああ、なぜ思い出せないのか。
(お、兄ちゃん…)
心の中、そう呟いてみる。しっくりは来ないけれど懐かしい響き。彼は否定したけれども。彼が自分の過去となんらかの関係があるような気がした。
「あ、そうそう。今日君と同じ制服の学生を見かけたよ」
「へえ」
「ねえ、そろそろ学校行ってみるかい」
その問いかけに奈緒は思わず笑みをこぼす。
「私、行きたくないなんて言ったことないけど」
ああ、でもそうね。ふと奈緒は意地の悪い笑顔を浮かべる。
「一つ、用意してもらいたいものがあるの」
「ん?なに」
耳を近づける小倉の耳をぺチンッと叩く。
「なんで誰もいないのに耳打ちなのよ」
「え?だってなんかいいじゃん」
そう笑う彼の笑顔は三十路には見えないほど幼かった。はあ…。と溜息が漏れたのは奈緒の口から。この人、頭大丈夫か。
「これ、お願い」
奈緒が手渡したのは一枚のメモ。それを見て彼は苦笑した。
「こりゃ、また無茶な…」
「勝手に軟禁されてんだからこのくらいしてよ。大体、私あんたが誰かも知らないし。」
「…わかったよ」
なんで、こいつはこんな強気なのか…。強気だけならまだしも、小倉は彼女の頭の回転の速さを知っていた。頭が良くて強気で。それは昔から抱える、多分小倉だけの悩みなのであった。
「おはよー」
「え、奈緒!」
「や、久しぶりー」
「久しぶりじゃないよ、どこ行っていたの!」
「え、アメリカ?」
「なんで疑問形なの」
奈緒が登校しなくなって二週間と三日。久々にみる友人の笑顔は何処かぎこちなかった。それもそのはず。いい加減、行方不明とか不登校とか根も葉もない噂話が広まり出した頃。突然、彼女は登校したのだから。
「はい、これおみあげ!」
大量のおみあげを持って。
「え、それ、お菓子!?」
「食いつきすぎだ、馬鹿」
教室中に響くかのような声を上げたのは澪、それに反応したのは玲だった。
「お菓子、好きだもんね、澪」
早織も自然と会話に入る。奈緒は笑いながらゆっくりと辺りを見渡した。あの転校生はどこだろう。
「奈緒、アメリカ行くなんて言ってた?」
「んー、いや別に」
「あの…羽柴さん、だっけ?あの子は…」
「あーまだ見てないね、遅刻じゃない」
早織が顔も上げずに応対する。そのぶっきらぼうな口調は早織が親しい身内のみ見せる反応で奈緒のいなかった時間、いかに彼女たちが一緒にいたかを物語る。何故か悔しい。もやもやした感情に答えがないことは奈緒がよく知っていた。
「ほら、これ奈緒が休んでた分の宿題」
「うそ、こんなに?」
早織が手渡してきた宿題の量に一瞬固まる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「あ、担任」
「うっそー。もう?」
「嘘だよ、おはよう」
澪たちの会話から担任の着席の合図を待っていた奈緒は唯の登場に少し驚いた。
「…羽柴さん」
そう呟くとショートカットの少女はこちらを振り向いてきょとんとした。
「…っと。誰だっけ」
その瞬間、少女は思い出した。この転校生だった女生徒は彼女の大切な人に似ているということを。
思い出した瞬間、歩みかけた心が止まる。急ブレーキをかけて彼女は相手にかける次の一言を自分の中から必死に探す。
「あの、さ」
「はい」
さあ、止まった心よ、あとちょっとでいい。一言を。
「羽柴弘樹って知ってますか」
さあ、貴方はなんて答える。地味なメガネっ子は真っ直ぐ相手を見つめた。