優しさの棘
その夜、唯が夢を見ていたころ。ある会員制のパーティーが開かれていた。夜も遅く、決して褒められた人たちの集いではなかったが、そこは俗にいうお金持ちの集まりだった。そんなパーティーで未成年は珍しい。一際複雑な気持ちを抱えた少女がぼんやりカウンターでオレンジジュースをかき混ぜていた。少女はその店の常連だった。親の帰りも遅く毎日一人ぼっちの家の中。彼女はいけないことと知りつつもそのパーティーにも通い続けていた。自分の暗い部屋とは違う華やかな世界。しかしそんな煌びやかな照明やたくさんの人でも彼女を満たしてくれるものは何もなかった。その部屋にはただ場違いな少女が一人ぼっちだった。
「羽柴、唯」
少女は手に持っていた写真を見つめて呟く。悪魔の笑みだね。そのクラブで彼女にオレンジジュースを入れてくれたマスターが微笑む。女たらしと定評のマスターだ。女性を惹く手には長けている。そうかしら。そう答える少女の声は昼間の消え入りそうな声とはまた別人のような大人びた色気を含んでいた。
彼女は夜が好きだ。夜の闇は大嫌いな自分を隠し自分も他人も騙せる。頬をくすぐる夜風は嫌なことを忘れさせてくれる。だって昼間は元の自分を知っている人がたくさんいるから。だから「嫌い」。あの人は私を認めてくれたのに。受け入れてくれたのに。
考えれば考えるほどドロドロとした感情がこみ上げてくる。
何であの子なの。何で私じゃなかったの。何で貴方は死んでしまったの。
思い返せば思い返すほどあの人との思い出が蘇る。よくあの子のこと話していたかしら。妹があいつに何されるかわからない。早く帰らないと。あの日も貴方はそう言って出ていったわね。私がいながら。ねえ気づいてた?あの日は付き合いだして一年の記念日だったのよ。
あれ、私ってこんな性格悪かったっけ。そう自分で自分を自問自答すると笑えてくる。
もやもやとする心を落ち着かせるかのように彼女は無意識で長い前髪をかき上げる。大丈夫?一人で帰れるかい?マスターは口調だけ心配そうに聞く。帰れるわよ、でも送って行ってもらおうかしら。恰好のいい口元が昼間とは別人のように醜く歪む。ねえ私、これでも未成年なのよ。なら、なおさら送らないとね、お子様。
彼女が最期に覚えているのはマスターに抱えられ車に乗せられる自分とベットに寝かされたということだけだった。
羽柴唯は目を覚ました。
身体は鉛のように重く、目覚めは決していいものとは言えなかった。
それでもカーテンから差し込む朝日に目を細める。気分は冴えないのに外は快晴のようだった。
「お兄ちゃん…」
不思議と夢で見たことは記憶の中に残っていた。幸せではなかったけれど兄と過ごした楽しい思い出。それは唯にとって宝物であった。
だからこそというべきか。尚更昨晩のこともあり、下に降りるのが嫌だった。それでも制服に着替えて階段を降りる。降りた先の階段で靴を見ると、父はもう出かけたようだった。
「唯?」
声のした方を振り向くと、そこには昨日より数倍やつれた雰囲気の母が立っていた。まるで足を引きずるようにして向こうから歩いてくる。ズルズルズル。布を引きずる音がさらにその痛々しさを物語る。美しい長い髪は乱れ、見るに耐えない姿だった。一晩で一体何があったというのか。
「お母さん」
「なんで」
母の口からこぼれた声に耳を疑う。
「なんでこの家に来たのよ…っ」
「え」
「あんたなんかいなければよかったのに」
その姿には何処か鬼気迫るものがあった。その姿が怖くて恐ろしくて、唯は家を逃げ出すかのように玄関から飛び出した。
なんで。なんで。走っても走っても気持ちが落ち着かない。学校まで歩いて十分の道を駆け抜ける。父は理解してくれていなくても、変わっていなくても母はもっと優しい人だと思っていた。それがなんで。疑問符ばかりが頭を回って何を考えたらいいかわからなかった。
物理的なダメージこそないが、今まであったどの出来事より今さっき起きた出来事の方が心理的ダメージが強かった。何があったのだろう。滅多なことであんなこと言う人ではないはずだ。そうだ、変な歩き方をしていた。それが原因か。父に何かされたのか。いや何もなかったのか。でも人を簡単に疑うのはあまりよくない。考えなければと焦るほど思考は絡まりこんがらがっていく。お母さん、何を考えているのですか。何を抱えているのですか。
「唯、おはよっ」
「あ、早織。おはよー」
「何走ってんの、ダイエット?」
「えー唯、太ってないじゃん。私も走ろうかな」
今はこの騒がしさがなんだか嬉しかった。澪だって太ってないじゃん。いやーそれがですね、実は…。転校してきたばっかりなのに笑いの絶えない環境。この人たちと友達になれて本当に幸せだと思う。
「そういえば、奈緒さんだっけ。あの方は…」
その言葉に三人は顔を見合わせる。
「待って、あの方って?あの方って何?」
「普通、あいつとかあの人じゃね」
「え、私なんか変なこと言った?」
「「うん、かなり」」
澪と玲の声が重なる。その二人の感じた『変なこと』が唯には分からなかった。澪と玲、そして唯の間に微妙な空気が流れる。
そんな空気に早織が苦笑を抑えきれない様子で
「あのね、二人とも唯が嫌いで笑ったんじゃないのよ。普段聞きなれない言葉が出てきたから興味を持っただけ。それだけよ」
そう横からフォローを入れる。そんな素晴らしい彼女のフォローに何か返さねばと思った。しかし、学校の門が見えて「遅刻だ!」という声が聞こえると自然と四人は駆け出していたのだった。
ベッドの中、少女は足を伸ばした。
「やっとお目覚めかい」
「貴方は…だれ」
「これはこれは…。何だい、昨日のこと忘れたのかい」
そう言って男は彼女の服が入っているらしい籠を放ってくる。
「未成年という話は本当だったみたいだね。いいから着なさい」
外にいるからね、そう言って男は出ていった。少女はそこで自分が全裸だという事実に気付いた。そしてあの男の人はあの店のマスターでここはあの店の一室ということも。
そうなると急に恥ずかしさがやってくる。昨日のことを一生懸命思い出してみる。でも昨日に限って記憶がとぎれとぎれだった。私は昨日ここで何をしたんだろう。そんな不安もやってくる。
とりあえず着替えよう。そう思い立ち、マスターが置いて行ってくれた服に着替える。
「え、これって」
昨日来ていた私服をある程度着終ったころ。一枚の紙が彼女の目に止まった。昨日、バーに来た時に来ていた私服。外で警備しているお兄さんたちに未成年って悟られないように一生懸命おしゃれした。店に入ってから席に着くまで。気が抜けなかったのは確かだ。でも…
『小倉奈緒 十八歳 要注意』
自分の顔写真つきのその書類にはそう書かれていた。犯罪者みたいだな。そんな漠然とした良くも悪くもない感情が胸をよぎる。彼女のプロフィールと思われる書類は籠の中から何枚か見つかった。そのせいだろうか。部屋のドアが開いた音に全く気が付かなかった。
「ああ、着替え終わったかい。ん、何見ているの」
いつの間にか戻っていたマスターがそう言って彼女の手元を覗く。彼女のプロフィールが記載された書類を。それを手にして少女が男を見つめる目がどこか不審げであることに気付く。
「見ちゃったんだね」
それでもなお、彼の声は優しかった。なんだかこの男が色んな女を手にしてきた姿が目の裏に浮かぶ。そう、この人には気を付けないと。この人は、危ない。そう本能が告げている。
「何か事情があったんでしょ」
そんな優しく囁くから。この人には自分の弱い面を見せてもいいかななんて思ってしまう。
「ごめん、奈緒ちゃん。怖かった?」
弘樹以外の男の人に初めて名前呼ばれたな。自分の名前がマスターの口から出て初めて気づく。私は貴方に墮ちた女に興味はないよ。けど今だけは。貴方に甘えてもいいのだろうか。
「未成年だよ、私」
「知っている」
「大人の女性がいいんじゃないの」
「まあ、うん」
「ならなんで」
「昨日みたいにさ、荒んだ姿見せられたら放っておけないじゃん」
そしてマスターは優しく微笑んだ。
「君が立ち直るまでさ。ここにいない?」
少し悩む。首を傾げ考え込むように。だって彼女の中にはまだ彼がいたから。ここにいる。ここで過ごす。その行為が彼への裏切りにならないか。それを考える。マスターはそんな彼女に微笑みながら返答を待つ。
「わかった」
ごめん、弘樹。心の中で彼に謝る。
貴方を嫌いになったわけじゃない。嫌いだったらこんな曖昧な形でこの人と付き合わない。貴方を乗り越えるために彼を好きになった私を許してください。
心の中、チクリと何かが刺さった気がした。