少女は彼の夢を語る
少女と半ば強引に別れ、ホームを抜け改札を出る。
久々の地元だ。
「唯!」
半年ぶりに聞く母、羽柴美那子の声に胸が暖かくなる。
「元気だったか?」
久しぶりに聞く父の声は温かみを持っていた唯は父の声も懐かしさに涙が出そうになる。やっぱり両親というのはどんな形でもいいものだな、そういう想いが痛いほどこみ上げてくる。
「久しぶり、お父さん。お母さん!」
懐かしさのあまり二人を思いっきり抱きしめる。
「ちょっと。痛いわよ」
「あ、ごめんごめん」
美那子の言葉に唯は抱き付いていた手を放す。深夜の駅前に私たちの笑い声がかすかに反響した。
「さあ、もう夜も遅いし家に帰ろうか」
父、羽柴祐樹の言葉で家路に着くことにした。初めて行く新しくなった我が家。久しぶりの家族との対話。今までいた祖母の家も心地よかったけれど、やっぱり何処か落ち着かなかった。それに何より『あの事件』から元気がなかった父と母が心配でならなかったのだ。
だから少し安心した。兄のことがあっても尚、ぎごちないながら笑っている両親の笑顔をみることができたから。やっぱり家族は一緒にいるべきだよな、と唯は一人で納得する。
駅から家までは歩いて少しかかるという。唯と両親が離れていた間に父は昇進し課長にまでなっていた。地元だけれどもまるで知らない町。もう見かけるお店の大半がシャッターを降ろし、町は静まり返っていた。
丁度、家の近くの商店街に差し掛かった時だった。
「そういえば、お前学校ってどうするんだ?」
「え?」
この半年間の笑い話をしていたその時だった。突然、祐樹が唯にそう尋ねてきた。恐らく今度編入することになった学校のことを言っているのだろう。
「そろそろ編入手続きしないと」
まるで世間話をするかのような口調だった。そして多分父はまだ聞いてないのだ。私が近くの公立高校に編入するということを。
「お母さんから…聞いてないの、もしかして」
「聞くって何を。」
「私ね、編入手続きはもうしてあるの。近くの公立高校に編入するの。」
祐樹は唖然と美那子を見つめた。母の美那子はじっと下を向いて黙っている。
「なんで?」
祐樹は美那子に向かってそう尋ねる。それでも母は何かにおびえるように下を向いたままだった。
確かに中学校からどんなに高くても私立の有名学校を受験させたくらいの父親だ。そんな人が簡単に名もない公立高校の入学を認める訳なかった。そんなことはわかっていた。
「お父さん、あのね私なの。」
「え」
「だから、勝手に私が高校決めたの。」
もう嫌だった。親に過剰に勉強しろと言われるのも。学校で毎日のようにテストに追われるのも。自由に買い物したり、そんな普通のことがしたかった。
「だから…」
「そんなことしてお前、将来どうするんだ。」
顔を上げるとそこには厳しい視線があった。
もう、気が付くと家の前に着いていた。
「貴方、そのくらいにして。」
見かねた美那子が口を挟んだ。
「貴方も明日、仕事でしょ?疲れているのよ。早くお休みになったら?」
祐樹は黙って美那子を睨んでいたが、やがて言われるまま家の中に入っていった。
「ほら、唯も。長旅お疲れ様。」
父が家に入ってからゆっくり辺りを見渡す。
綺麗にガーデニングされた小さな庭。
二階立ての家は西洋風の屋敷を小さくした感じだ。
ここが兄の暮らしていた家…。
「唯の部屋は二階の階段上がって右ね。すぐわかると思うわよ。」
母はそういうと微笑みかけてくれた。街頭に照らされたその笑顔は心なしか儚げに見えた。
「分かった。おやすみなさい」
そうして、唯は来たばかりの新しい家に入っていった。
「奥様、よろしいのですか?」
娘を見送った時だった。背後からよく聞きなれた声が聞こえた。
「木戸さん」
それは羽柴で最近雇い始めたばかりのメイドだった。
「何が?」
「旦那様のことです」
木戸、そう呼ばれた女性は顔色を変えることなくそう答える。
「今の様子を見ると弘樹様の一件があってから唯様は何とか持ち直したようで。しかし旦那様は今も…」
彼女はそこまで語ると目を伏せてしまった。
「いいのよ」
「…?」
「いずれあの子も知るときが来るわよ、それまでそっとしておいてあげて。」
「分かりました。」
それから、と美那子はメイドに耳打ちをする。
メイドはそっと頷くと、自分の主人にもばれぬよう、今玄関に入っていった少女の残像を目で追った。
唯は自分が家に入ってから母が外で誰かと話しているのは知っていた。
知っていたけれども。今は全身にドッ…と重たい疲労感が全身を包み込んでいた。
(なんか今日は疲れたな…)
身体がこんなに重いのは単に背中のリュックの重みだけではない気がした。
自分の部屋はすぐ分かった。必要な家具は揃えられ、ベッドもすでに部屋にあった。
それにしても、唯は疲労の余りベッドに倒れこんで考える。
今日の母の様子。それから編入を告げた時の父の様子。二人とも半年前に会った時よりなんだか随分と雰囲気が変わった。
唯の記憶しているあの時の祐樹はそんな些細なことで目くじらを立てるような人間ではなかったし、大分落ち着いていたはずだ。美那子もあれほど祐樹の顔色を窺うということは最近していなかった、これでは十年前と同じではないか。
全て、半年前のことが原因だろうか。それならば、『あれ』を両親はどう思っているのであろうか。
(一度ちゃんと聞かなければ…)
そうして唯はいつの間にか夢もない深い闇へと意識を落としていったのである。
そして、当日。流石に転校生が来るとなると教室も朝からざわついていた。
ホームルームで、「こちらが今日転校してきた羽柴唯さんです」そう紹介する。
ショートカットの少女は笑顔でよろしくお願いします、と言う。その笑顔は半年前、亡くなった少女の彼氏にとてもよく似ていた。
「あ、あの子…」
可愛い。いいじゃん。俺あの子と仲良くなりたい。ザワザワザワ。
少女の声はクラスの歓声にかき消され唯には届かなかった。
「羽柴唯です。よろしくお願いします」
「羽柴さんは小倉さんの後ろね。席を用意しておいたから」
「はい」
先生にそう言われ、唯は一番後ろの窓際の席へ移動する。
「よろしくね、小倉さん」
「ええ」
一応、挨拶を交わすが話が続かない。
(なんだか話しかけづらい子だなあ)
唯の小倉という少女に対しての第一印象はそれだった。
「さようなら」
放課後、一番学校が賑やかになる時間。バックに教科書を詰めていると、
「あの、栩木早織です。一応クラス委員やっています。何かわからないこととかあったら遠慮なく言ってね」
と隣の女の子が声をかけてきてくれた。
「あ、羽柴唯です。よろしくお願いします」
このやり取りを見ていた辺りの女子数人が唯を取り囲むようにして集まってきた。
栩木早織、伊能澪、神城玲。この三人は幼馴染みらしい。
「あとねーもう一人幼馴染みがいるのー。」
「へぇ、誰?」
「菜緒、まだあんた自己紹介もしてないの」
玲が唯の前の席にいた少女に声をかける。
振り向くと丁度少女と目があった。
「小倉奈緒です。後ろの席の羽柴さんよね。よろしく」
そう言って奈緒は微笑む。前髪に隠された端麗な顔立ちは何処かで見覚えがある気がした。前髪を伸ばした少女は一瞬こちらを意味深に見つめるとそう答えた。
「仲良くしてあげてね、暗いけどいい子だから」
「まあ、奈緒もさ、いろいろあって大変だったもんな。なかよくしてやって。」
澪と玲は気まずそうにそう言った。奈緒は部活があるからと、私は他の三人と一緒に帰ることになった。
「皆はいつからの知り合いなの?」
「うーん、小学校くらい?」
「いや、私と澪は小学校からだけど、早織は幼稚園も一緒じゃなかったか」
「そうだね、懐かしい」
「ああうん。ちょっとね…」
早織は口ごもる。もしかしたら言いにくいことなのかもしれない。
「もし、気になるなら奈緒に直接聞いた方がいいかも」
そう早織は答える。隣の二人は怪訝そうな顔をしている。
奈緒は唯から見ても不思議だった。それにしても以前に何があったというのだろうか。もしこれが早織にしか知らないことなのだとしたら。唯の好奇心がくすぐられる。一度聞いてみる価値がある気がした。
「唯の家ってここ?」
澪の言葉にふと我に返る。学校から唯の家まではとても近い。皆、帰り道は同じだから唯の家の前を通ることになる。
「うん、ここ」
「大きいねー」
「いいなあ、羨ましい」
口々に感想を述べる三人。羨ましいと言われ、ちやほやされて嬉しくない人間はいないのではないかと唯は思う。
「今度、みんなと家で遊ぶのもいいかもね」
そう提案してみる。それは自分が以前から住んでいた家ではなかったけれど。後ろめたさを隠しそう誘ってみる。
唯はただただこの学校生活に希望を抱いていた。
それを黙って見ていた人物がいたとも知らないで…
それを黙って見ていた人物がいたとも知らないで…
それは間もなく夕食の時間という時だった。
「お嬢様、晩餐の準備ができました。」
ドアの前の聞きなれない声。母、美那子のものではないが女性の声だった。
凛とした綺麗な声。その声はしばらく間を開けると、
「失礼致します」
返事をせず耳を澄ましていると階段を下る足音が聞こえた。
(とりあえず行こう)
知らない人の声が聞こえ、びっくりはしたが何だか彼女の口調は信用できそうな気がしたのだ。
「あ、唯。よかった、来てくれた」
リビングに降りると美那子が階段の下で待っていた。彼女はほっとしたように口元を緩める。
「お母さん、どうしたの」
「いや、だってさっき木戸さんを貴方に紹介し忘れて。木戸さん呼びに行っちゃった後だったし来てくれるかなって」
「ありがとう、心配してくれて」
お手伝いさんなんていたんだ。唯が一緒に暮らしていた頃よりも裕福な生活がうかがえる。幸せそうだなと心の中で唯は呟いた。
「ご飯、食べに行こうか。」
「え、ええ、リビングはこっちよ。」
美那子はうなずくと、リビングへと唯を案内した。
「遅かったじゃないか」
リビングではすでに祐樹が酒を嗜んでいた。
「ごめんなさい」
「まあ、いいさ。食べよう」
美那子と唯が席に着くのを見ながら祐樹はグラスのワインを飲みほした。
「今日、学校は楽しかったか?」
あんなに公立高校を毛嫌いしていた父からそんなことを聞かれるなんて。唯は意外に思った。その気持ちは母も同じだったのだろう。美那子も意外な話に驚きを隠せないようだった。
「楽しかったよ。友達がね、できたんだー」
そう語ると美那子が嬉しそうにこちらを振り向く。
「良かったじゃない。楽しく過ごせるといいわねー」
「そうじゃない」
美那子はまだ何か言いたげだったが、祐樹がそれを遮った。
「お前は何がしたいんだ。俺の跡継ぎの件は大目に見るとしても、一応お金持ちの家で生活できるんだ。あのクソ餓鬼と違ってな。それに変わりはない。そのことを頭に入れて…この家に居たければ、な。」
クソ餓鬼。その言葉が頭の中で反芻される。この場に居なくて父の反感を買っていた人物。唯は一人の顔を思い出した。十年前見た彼の手足に巻かれた白い包帯。あの頃の幼い唯には知りえなかった白い包帯の真実。数秒間ですべてを悟ったように思えた。
「分かっているよ」
「分かってないから言っているのだろうッ」
祐樹の声が次第に大きくなる。アルコールが入っていることから彼の声は普段よりも少し大きかった。あの頃のように。
また一方的に怒られるのか。そう思うと体の中で拒絶反応が起こりそうだった。
「お父さん、一つ聞いていい?」
「なんだ」
これを尋ねるのに少しばかりの勇気が必要だった。何せ父とは半年前以来、会話らしい会話をしていなかったのだから。でも今、聞かなければならないことが色々ある。
「お父さんはお兄ちゃんのことどう思ってる?」
思い切って聞いた声はかすかに震えていた。
その声に祐樹は詰まり、美那子は何かを心配するように顔を上げる。それら一挙一動を唯は目の端で捉えていた。
「私、お母さん達には昨日久々に会ったけど、お父さんもなんだか変だし。私の知っているお父さんとはなんか雰囲気が違うし。お母さんも、お母さんでなんだか…。お兄ちゃんのことも一切言わないし。どうしたの、何があったの」
何か気まずい雰囲気になりつつあるのは知っていた。でも喋るのを止めることはできなかった。
「唯…。今日のところは部屋に戻りなさい。後でご飯持って行くわ」
暫くの沈黙の後、最初口を開いたのは美那子だった。
彼女の顔は蒼白だった。しかし、哀しげな声だがその声は断固としてノーと言わせないような強さが伝わる。
何かを隠したがっている、唯はそんな風に感じた。直感とそして本能で。そう感じさせる声だった。
声を出そうとして心なしか声が震える。
「分かった」
祐樹と目が合う。お互いになんとも言えない感情を内に隠していた。
しかし、話をこれ以上拗らせないために言われた通りに席を立つ。
「お父さん、話は終わってないから」
そう言い残して、父や母のさまざまな感情の入り混じる冷たい目線を背中に受けて、唯は部屋を後にした。
丁度、ご飯を運んできたメイドが訝しげな目でこちらを見る。恐らく彼女が木戸という人物なのだろう。髪を一つで結い知的な雰囲気を感じさせる女性だった。
唯が立ち去った部屋には殺伐とした空気が流れていた。
部屋に戻ってベッドに倒れこむ。なぜこうなるのか。家族なのになんでこういがみ合うのか。こうなるともう理解することなんか到底できないような気になる。表面上、いくら気丈に繕っていても頭はパンク状態だった。身体も心も疲れ切っていた。
幼い頃以来だった。こんなピリピリした雰囲気に家が包まれているのは。それでも、どんなつらいことも乗り越えてきたはずだ。何で貴方はいなくなってしまったのか。唯はいつの間にかまどろいながら目を閉じる。目を閉じるとその頃の光景がまるでメモリアルのように唯の脳内で夢となり再生されていった…
久々にあの頃の夢を見た。
唯が六歳の時、その生活は最悪だった。父の会社が倒産したのだ。それは唯が小学校に上がる直前のことだった。
毎日、酒に溺れる父。その光景はとてもじゃないが見ていることはできなかった。家族に手を上げ、母を罵る父。その頃幼かった唯にとって家は地獄でしかなかった。
「唯、行こうか」
いつも泣いていたら大嫌いな家から連れ出してくれた大好きな兄。彼はあの頃何を考えていたのか。今、それを知る術はもう残されていない。だって大好きだった兄は、羽柴弘樹は半年前に自ら命を絶ったのだから。
兄はいつも家にいなかった。特に父の会社が倒産してからからはなおさらだった。それでも妹から見た兄は優しくて賢くて。でも成績は決して良いものではなかったらしく、そんな兄は家に帰ると父からよく殴られていた。しかし唯にとってはかけがえのない兄に違いなかった。
そんな兄が連れて行ってくれた場所、それが町はずれの廃墟だったのだ。
「ここはどこ」
そう戸惑う私に兄は家では見せないような最高の笑顔を見せてこう言うのだ。
「ここは二人きりの秘密基地だよ、お父さんにもお母さんにも内緒だ」
そう笑う兄の腕や脚には白い包帯が巻かれていた。幼かった唯には分からなかったがあの頃の兄は無理して笑っていたのだ。あんな痛々しい姿をしていたのに。そんなことに今頃気づくなんて。
私はなんて大馬鹿者なのだろう。
「ちょっと待っていて」
そう言い残して兄は廃墟の中に入っていく。
そうだ、この時誰もいないか安全かどうか確かめに行ってくれたんだっけ。あの時の一人残された寂しさに胸が痛くなる。
眠っている彼女の睫毛から涙がこぼれ、枕を濡らす。
この後兄は帰ってこない。どこかそんな予感が胸を突き刺すから自然と涙がこぼれる。
夢の中、彼女は叫ぶ。
お兄ちゃん、行かないで。六歳の少女は声の限り叫ぶ。
その背中はいつの間にかあの時見た兄の疲れ切った背中になっていた。兄の背中は振り返らない。
彼に彼女の声は届かなかった。
彼女の世界は今も昔も兄中心で回っていた。
その世界が、コワレタ…
もう元には一生戻らないのだ。
少女は再び涙を流した。