前日
昼下がりの午後。夏休み最後のこの日はどのお店もお客さんで賑わっていた。
唯もまた例外でなく友人と遊びに来ていた。
「唯?どうしたの。元気ないみたいだけど?」
湊がホットコーヒーのカップを片手に首をかしげる。彼女、西畑湊は唯の幼馴染み。幼稚園から一緒にいるからどんな小さな癖もお互い把握している。大きな瞳が細められ、眉間にしわが寄る。私の話面白くなかった?たったそれだけの動作は彼女の心情をこれでもかというくらいはっきり表す。
「ごめん、えっと、なん話だっけ。」
「だからあんたの転校先についてでしょ。」
全くしっかりしてよね。そう言ってコーヒーを口に運ぶ。そのコーヒーに砂糖やミルクを入れないのが湊のこだわりだった。その落ち着いた行動が同じ高校生なのに湊を何処か大人びて見せていた。
そう、唯は明日転校する。今日はこの街にいられる最後の日だった。今まで唯は祖母と二人で暮らしていた。否、暮らさせられていた。両親が忙しかったこともあり、半ば強制的に。だけどある出来事を機にこれから両親のいる隣町へ越すことになったのだ。もちろん湊はこういった事情もすべて詳しく知っている。
「お母さんたちはなんて?」
「喜んでいる様だったけどね…。」
そう言ったと同時にいつも通りの彼女でいてくれたことが、何も聞かないでいてくれたことが何より嬉しかった。今何か言われていたら良かれ悪かれ涙腺の緩むところだった。
「…何かあったら連絡してね」
湊は帰り際一枚のメモを渡してくれた。
「なにこれ」
「私の。お互い受験とか転入とかで交換してなかったでしょ?離れ離れになる前に渡したくて」
「そんな、また遊びに来るのに」
「本当に?約束だよ」
「もちろん」
その時、湊のバックから携帯が鳴った。
「あ、ごめん。またね唯。」
「うん、会いに行く。」
気が付けば時間はもう夜の七時。母との待ち合わせの電車にはあと二時間。
思い返せば、母と会うのはあの事件以来。半年ぶりのことだ。
(…お母さん、元気かな)
湊の後ろ姿を見送りながらそんなことに想いを馳せる。頬に心地の良い夜風を受け、遠くでは電車の発車を告げるベルが鳴るのが聞こえた。
電車の中は思いのほか空いていた。唯は一番端の席に腰を下ろす。
白い吊革に赤くすわり心地のいい席。見慣れたその景色は唯を眠りへといざなう。
久々に『あの時』の夢を見た。
奇妙な白い空間の中であのビルだけがひどく存在感を放っていた。幼いとき、兄と二人の秘密基地。あの日、なぜもっと早く気が付かなかったのか。
あの場所は二人しか知らないのに。その場所が特別だったとそれを知っていたのは私なのに…。着いた時にはもう遅かった。
壊れたフェンスを背にした人影。
路上に響く悲鳴。
影はまるで羽ばたくかのように両腕を大きく広げると、地面にゆっくりと落ちていく。
人が落ちる音。
すすり泣く声。
そして誰かが自分を呼ぶ…。
『唯…!』
「お客さん、お客さん!終点ですよ!」
「…ん?ここは」
見渡すとそこは隣町になっていた。
(あ、着いたんだ)
駅に着いたのはもう遅い時間だった。流石にもうホームに人の気配はない。ただ一人を除いて。
「何しているの」
気が付いたら声をかけていた。話しかけるな。自分に近寄るな。少女のシルエットからはそんなことが読み取れた。別に聞かなくても話しかけなくてもよかった。でもただ遠くを見つめる彼女にどことなく自分を重ねたのだった。大切な人をなくして己を見失っていたあの頃の自分に。
「私?」
黒髪の少女は振り向く。淡麗な顔立ちなのに彼女の瞳は何も映していなかった。
「っ…。」
「ある人を待っているの。待っているけど来てくれないの」
彼女は寂しげにこちらを見つめた。
「あの、早くあえるといいですね」
唯はそう少女を励ます。
「そうね」
会いたいわね。そう少女の目が一瞬妖しく光った気がした。
「じゃ、じゃあ」
唯はその少女がどこか怖くなり、その場を逃げ出した。
「あの子、弘樹に似ている…?」
唯が去った後のホームには少女の声が小さく響いた。
少女は暫く唯の走って行った方を見つめていたが、その頬には光るものが伝っていた…
時は遡り唯の転校前日。唯が転校する城聖高校の夏休み明け最初のロングホームルーム。唯は書類の手続きが間に合わなくて翌日から転校ということになっていた。
「明日から転校生がやってきます」
二年A組担任の吉澤のその一言で教室は沸いた。
この城聖高校は通学的にも少し不便だからか、なかなか外部の生徒が転校して来ない。だから転校生が来るというのは生徒にとって特別な出来事だった。こうして生徒が騒いでしまう為、学校では転校生が来たら事前に教室に知らせることにしている。
「楽しみだねー」
「そう、ね」+
話しかけられた少女は俯きながらそう答える。
喋りかけた少女はにっこり微笑むと、前に向き直った。
前髪で隠された顔。今にも消えそうな声。半年前からこの状態で、事情を知る者はごく僅かである。二人はその秘密を共有するごく限られた信用できる間柄だった。
教室は担任をないがしろに明日の転校生のことで大盛り上がり。見かねた吉澤は、
「ほら、みんな騒がない!明日になればわかるんだから。仲良くしてあげてね」
と教室を一喝した。一瞬、間を置いてから先生の最後の一言に教室は皆『ハーイ』と伸ばした返事をしてその場は収まった。
少女は思う。この時期に転校生。いや、時期としては普通なのかもしれないが。もしかして。単に考えすぎだろうか。
それでも、彼女は嫌な予感を拭い去ることができなかった。