プロローグ
至って平凡な人生だった。
清々しく晴れた夏の日のこと。少年はもう廃墟になったビルの屋上へと登った。
(なんか俺、今初めて生きてるって思えたかも)
そこは少年の秘密基地。その場所は少年だけのもの。一歩踏み外せば落ちてしまうようなフェンスの外。耳元では風が強くうねっていた。その音を聞きながら少年は思う。いつもはうるさいとしか思わないけど、今はなんだかこの音が愛おしかった。
下を見れば地面。
上を見れば澄んだ空。
通行人がビルの屋上に人がいると気づいたらしく、なんだか騒いでいる。
本当はこんなことする理由なんて一つもない。
両親は優しくあろうとしてくれたのだろうし、実際にそうだったのだろう。父は好きじゃなかったが母は好きだった。それなりには。優しくしてくれる彼女だっていた。
放課後には峻希や奈緒たちと遊ぶのが日課だった。
成績表を見ては皆でワイワイして…傍から見ればすごく恵まれた人生だったと思う。
あれもきっと些細なことなのだろう。こんな死に方、いわれなくとも親不孝だって知っている。
多分、自分のような死に方は万人に否定され、理解されることはないのだろう。でも、その中でも多分あいつだけは分かってくれるはずだ。
頭がガンガンする。
(まあ、もういいか)
真っ向から当たる風が気持ちいい。
お母さん、
お父さん、
さよなら。
ごめんなさい。
後悔、ではない何か別の感情に胸が支配される。少年はゆっくりと目を閉じる。
(ああでも、ひとつだけ…)
俺、あいつに何もしてやれなかったな。
少年は再度目の先で足元の靴と手紙を確認する。せめてあいつが俺を見つけてくれたら。そんな淡い希望に両腕を広げる。最低な兄貴でごめんね。
「ごめん」
少年のその呟きはもう誰の元へも届かない。
(もう一度、会いたかったな)
一歩踏み出すと群衆の好奇の目が一斉に畏怖の目に変わる。少年は思わずその光景に笑みを浮かべた。
彼は、空に身を任せるようにして意識もろとも身体ごと下へ落ちていく。
数秒後、グシャッ…という効果音の後少年の真下の地面は血の色に染まった。
その後救急車が呼ばれ、警察が呼ばれ、このことは彼の家族にも伝わった。
当時、高校受験をひかえていた彼の妹は事態を聞き、放心状態だったという。父親も母親も動揺を隠しきれないという状態だったそうだ。
自殺した少年、羽柴弘樹は警察の調べでも明るく学校でも家庭でも中心的人物だったという。彼の友人に聞いても先生に聞いても家族に聞いても自殺を考えるような人間じゃない、と返ってきた。だが、きちんと自筆の遺書まであるのだ。
疑いようがなかった。
羽柴弘樹は自殺だった。