2 左目の役目
しゅるり、と包帯が巻き取られる音が耳元で聞こえてくる。
目の手術は昨日終了した。治療魔術の定着の為に一日時間を置いた上で手術が成功したのか失敗したのか判明するのだが、今がその結果を確かめる瞬間である。
失敗していたら、どうしようか。目を開けても、今までと同じく真っ暗闇に閉ざされていたとしたら。
見えていなくても震えているのが分かる手を陣が握ってくれた。
本当ならばベッドで安静にしていなければならないはずなのに、こうして立ち会ってくれている。……まあ、そうなるまでには医者や看護師との激しい口論があったのだが。
「大丈夫だ」
絶対に成功している、という意味の励ましではない。包帯を取ることを恐れなくてもいいのだと、傍にいるから安心していいのだと、そう言っているのだ。
手を握り返して覚悟を決める。私は後悔しないと言った――それがたとえ、どんな結果になろうと。
包帯の音が、止まった。
恐る恐る、非常にゆっくりと瞼を上げる。
「ひなた」
何日かぶりに開いた目は、半分だけ光を映した。
「陣」
大好きな人の顔が、そこにはあった。
左目が闇に呑まれていることなど気にしていられなくて、私は溢れだす涙を必死に拭った。けれども体の中の水分を全て目に奪われたかのように、涙は止めどなく流れてしまう。
「見える、のか?」
「右目だけ……陣が、見える」
喉が痛くなるくらい嗚咽を上げながら、私は心配そうに見つめる陣に耐え切れなくなって思い切り抱きついた。
だが勢いが付きすぎたのか私はそのままベッドから落ち、陣を巻き込むようにして床に転がった。
……お互い重傷だった所為で滅茶苦茶痛い思いをし、「大人しくと言ったでしょうが!」とかんかんになった看護師さんに怒られたのだった。
どうにも締まらない結末だったものの、私は右目だけでも見えるようになったのが嬉しくて堪らなかったし、陣も同じように喜んでくれた。
こうして定期的に経過観察は必要なものの右目の視力は回復し、私は体の怪我を治すことに専念することになった。こちらも治療魔術は殆ど効かないので地道に治してリハビリをしていくしかないのだが、しばらくは大人しくベッドに横になる生活が続くことになる。
面会が出来るようになった私の元には家族を始めとして沢山の人がお見舞いに来てくれた。一時期お見舞いに貰った果物が余りすぎて寧ろ来てくれた人におすそ分けをしたり、思いのほか退屈しない日々だったのだが、やはりだんだんと体を満足に動かせない生活に精神的に厭きてくる。
「ひなた!」
お見舞いもなかった日、暇を持て余していた私を突如襲ったのは、昴による土下座の襲撃であった。
「す、昴!?」
「大怪我して、片目が見えなくなったって……俺の所為で!」
先日意識を取り戻したとは聞いていたが、まだ動けるような状態ではないはずだ。しかし彼はぼろぼろの体を冷たい床に着け、酷く苦しそうに頭を下げてくる。
「ちょ、ちょっと顔上げてよ」
「謝っても許されることじゃない。俺は自分の身勝手でお前の人生を狂わせた! どう償っても償い切れないことをした……」
「とにかく! 怪我人は起きて椅子に座って!」
こんなことをしていたらますます怪我が悪化してしまう。私は渋る昴を何とか立ち上がらせてベッドサイドの椅子に座らせる。本当は横になった方が良いとは思うが、生憎ここは個室で他にベッドは置いていない。というよりも一番良いのは病室へ帰らせることなのだが、この様子では一筋縄ではいかないだろう。
「私よりも昴の方がずっと大怪我なんだから無理しないでよ」
「……俺の怪我は時間を掛ければ治る。だけど、お前の目は、もう」
「右目は見える、それで十分だよ。それに昴の所為なんかじゃない。私は自分で戦って、この結果を自分で選んだんだから」
正直、昴がここに来るまで彼の所為だとはこれっぽっちも考えたことがなかった。それだけ彼が重傷だったということもあるが、はっきり言ってこの怪我と昴との因果関係まで考えている余裕などなかったのだ。
そして、考える余裕の出来た今でも、彼を恨む気持ちはない。
ひょっとしたら、手術が両目とも失敗していたとしたらそんな気持ちが芽生えた可能性もなくはないが、今の私は片目とはいえ見ることが出来る喜びに浸っており、恨むという気持ちは出てこなかった。
一生何も見えないかもしれないという恐怖が無くなった。それだけで十分幸せなのである。
しかし私がそう口にしても、昴は一向に表情を変えることはない。
「違う、俺があの時勝手な行動を取らなければこんなことになってなかった……!」
「昴、いい加減怒るよ?」
「お前の気が少しでも休まるなら、どれだけ罵倒されても構わない」
「そういうことじゃなくて!」
ああもう、どう言えば分かってくれるだろうか。昴が背負うオーラがむしろどんどん暗くなっていく。
「俺の所為で死んだ母さんが、幽霊になってまで俺を憎んでいた。だからこそ、その怪我は俺が受けなければならないものだった!」
「違う、昴のお母さんは……」
「俺が代わりに……俺の目がその目の代わりになっていたらっ!」
がたん、と彼の言葉と同時に病室の扉が開かれた。
音に気を取られて昴から扉へ視線を移すと、そこには無表情の陣が立っていた。いつもならノックをするはずの扉を無動作に開き、彼は昴を視界に入れる。
「藍川」
「陣、俺……」
僅かに眉を顰めながら、しかし無表情のままつかつかと昴の目の前までやってきた陣は、座っている彼を見下ろして一言「駄目だ」と口にした。
「ひなたの目の代わりになるのは俺の役目だ。お前には絶対に譲らないぞ」
真顔で堂々と言い切った陣に、私も昴もぽかんと彼を見上げた。そんな私達に陣は「何か可笑しなことを言ったか?」と首を傾げるばかりだった。
どうやら病室へ入る直前の言葉だけ聞いて思わず反論したらしい陣。陣の言葉は勿論嬉しいのだが話の流れ的にはちょっとずれていた。
陣の乱入で何となく毒気が抜かれてしまった昴をどうにか宥めることに成功し、彼の母さんが最後に言っていた言葉を伝える。昴のことを恨んでおらず、ましてや死んでなお彼を想っていたお母さんの気持ちを話すと、昴は次第に唇を噛み締めて声を上げずに泣いた。
私達はそんな彼をただ静かに見守っていた。
病室を抜け出した昴を看護師さん達が引き摺って行った後、妙に静まり返った病室で私は陣に向き直る。
「陣、こんなことになったけど、私まだ騎士を諦めないよ」
「片目が見えなくても、か? 騎士ならば視野が狭くなるのは命とりだ」
「分かってる。確かに無理かもしれないけど、でもやってみる」
陣の怪我は治療魔術もあってか随分回復してきている。退院も近いし、病院を出れば特別に魔術師の再試験を受けさせてもらえることになっている。
彼は魔術師になるだろう。
「遅くなるかもしれない。大分置いてけぼりになっちゃうかもしれないけど、私頑張って騎士になって見せるから。だからそれまで……待っててくれる?」
陣の隣を、相棒の騎士の場所を、空けていてほしい。
そう告げると、彼は何を言っているんだとばかりに肩を竦める。
「俺の相棒は、お前だろ」
お前の左目になるのは俺だ、と陣はそっと、私の眼帯に触れた。




