70.5話 後編 彼の傍で生きること。
授業が終わった。終わってしまった。
ミネルバが見合いの返答を返すまで、もう殆ど時間がない。
俺は解散を言い渡されると、逃げるように温室へやって来た。沢山の花に囲まれていれば気持ちも落ち着くだろうと考えていたのに、けれども咲いている薔薇を見る度に彼女のことが思い出されてどうにもならなかった。
俺の気持ちを完全に無視するのであれば、正直、昴の意見に同意する。あの男と結婚するのはミネルバによって悪いことではないと。
だが結局、俺は自分の感情を完全に否定することなど出来はしない。そして何より、昼休みに恭子が放った一言が何度も何度も頭の中で繰り返されているのだ。
ミネルバは、俺が好きなんだと。
最初は、俺に気を遣った恭子の冗談かと思った。だがひなたもそれが正しいような口ぶりをし、更にあれだけ真剣な表情で訴えられれば、少なくとも恭子の中では真実なのだろうと結論付けた。
……ミネルバ自身が、どう思っているかというはっきりとした確証は持てない。恭子にしたって俺が好きだということを彼女から聞いたのか、はたまた勝手に推測したのかさえ分からないのだ。
「大吾郎」
誰もいないと思っていた温室に突然自分の名が響き、思わず触れていた赤い薔薇を手折ってしまった。
「陣……」
「どうせここだろうと思った」
珍しいこともあるものだ、陣が温室に来るなんて。
温室の入り口に立っていた陣は特に表情を浮かべる訳でも無く、いつも通りの顔でこちらにやって来た。
「何か用だったか?」
「お前、ブラッドレイのこと好きだろう」
こちらも努めていつも通りの顔を作ろうと思ったのに、やつの第一声はそんな努力を見事にぶち壊しにかかった。陣がそんな話題を口にすることさえ驚愕なのに、まるで疑問を抱かないような確信的な言葉は、俺を硬直させるのに十分すぎる威力を持っている。
一瞬、誤魔化してしまおうかとまだ僅かに動いていた思考がそう言ったが、陣相手にそれも時間稼ぎにしかならないだろうと観念した。
「何で、分かった?」
あの鋭い恭子ですらも俺の気持ちに関しては確信している様子もなかったのに。
「お前、普段教室でどれだけブラッドレイのことばかり話してると思ってるんだ」
「……そんなに話してたか?」
「どの花が気に入っただの、また成績を上げただの……佐々木も呆れた顔してたぞ」
……言われてみれば、そんな気がする。
ミネルバに花をあげるととても喜んでくれるのが嬉しくて、思わず誰かに言ってしまいたかった。だからこそ、無意識のうちに口が滑ってしまっていたのだろう。
そんな事実に気付かないほど、俺はミネルバについて話すことが日常化していたのだということだ。
「それで、行かないのか」
「行くって、どこへ」
「分かってる癖にはぐらかすな。早くしないとブラッドレイのやつ帰るぞ」
「……そうだな」
しかし俺の足は動かなかった。彼女の元へ向かったとして、それでどうする?
「好きなら言えばいいだろ。何を躊躇ってるんだ?」
「……そんな簡単な話じゃないだろ」
何しろ彼女の結婚が掛かっているのだ。俺がしゃしゃり出た所で一体何が出来ると言うのだ。
彼女が本当に幸せになれるのなら、俺は黙って見送るべきなのだ。……それが、正しいはずだ。
そう言い聞かせているのに、こいつは無神経に俺の心を踏み荒らすようなことを言ってくる。
「時間も迫ってる。後悔しないうちにさっさと行け」
「……うるせえよ」
我慢できずに、そう声が出た。怒鳴りそうになるのを堪え、陣を睨みつけながら喉を震わせる。
「他人事だと思って好き勝手言いやがって……そういうお前はどうなんだよ」
「俺?」
「ひなたのこと、どう思ってるんだ」
自分はずっとのうのうと楽な関係を続けている癖に、よく言う。
「……どうって、あいつは相棒で」
「そうやって目を逸らし続けて来たんだろ」
傍から見れば二人がどう見えるかなんて歴然で、しかしこいつらは未だに気持ちを通わせていない。普段の行動は驚くほど理解し合っている癖に、肝心なことだけ分かり合おうとしないのだ。
最近の行動を見れば、ひなたは自分の気持ちを自覚したのだと思う。弁当を作ってきたり、陣を見て顔を赤らめている姿を見れば誰だって分かる。
しかし当の相方は未だに変わらない。恋愛対象であると見る以前に、相棒、相方だという先入観に捕らわれすぎているのだ。だからこそ先へ進まない。
「お前はひなたを相棒だと言うが、だったらあいつの恋人の立ち位置は必要ないのか?」
「……」
「ただの騎士と魔術師としてのコンビなら、ひなたが他の男と結婚しても何ら問題はないよな。……陣、答えろよ」
「俺は……」
あいつと一緒にいて何年掛かってここまで来てるんだ。……いや、逆に長く居すぎた所為なのかもしれない。
ひなたがもし他の男――想像は出来ないが――を好きになったとして、万が一結婚することになったとしたら、こいつはどうするのか。
自分の気持ちに気付かないまま、彼女を見送るのか。それとも――。
そこまで考えて、気付いた。これは、陣よりも俺が答えを出さなければならないものなのではないか、と。
ミネルバが他の男と結婚する、それはひなたのことよりも遥かに現実に起こりえることだ。
彼女が答えを出す所を見たくなくて温室に逃げた癖に、彼女があの男の隣で微笑んでいるのを想像するだけで腸が煮え繰り返る。
劣等感をことごとく刺激されて、こんな俺よりもあの男の方が彼女を幸せに出来るのではないかと言い訳で頭を埋め尽くした癖に、持て余した感情が爆発しそうになっている。
見合い相手に連れられてイギリスに戻るミネルバを、笑って送ることが俺に出来るのか?
……陣にしたはずの質問が、綺麗に跳ね返って突き刺さる。
言い訳も何もかも全て捨て去って、彼女の気持ちも幸せも何も考えることがなければ……俺は。
ただ、彼女の元へ行きたいと思った。
「大吾郎」
「何だ?」
「……ありがとな」
先ほどの質問からの答えではないが、こいつの中では巡りに巡って答えに辿り着いたのだろう。だからこその礼だ。
むしろ、今まで意地を張っていた自分を終わらせてくれたこいつに、逆に俺が感謝したい。
「大吾郎君!」
ミネルバの元へと向かおうと足を踏み出したその時、入り口から恭子とひなた、そして昴が駆け込んできた。
「お前ら……」
「これ使って!」
一番に俺達の元へたどり着いた恭子は、必死の形相で手に持っていた何かを俺に差し出して来る。
……それは、赤い石のついたイヤリングだった。
「これね、昔作った魔道具なの」
「そういえば、お前は翻訳機作ってたな」
「うん。だけど実際にはイヤリングを通して相手の気持ちが伝わるものなの。大吾郎君、これミネルバちゃんと使ってよ。そしたら本当に大吾郎君のこと好きだって分かるから! それで両想いになってよ!」
「両想いに、って……」
俺の気持ち、結局こいつらに知られてたのか?
何故知っているのだと尋ねると、ひなたが胸を張って陣に視線を向けた。
「陣が、藤原君は絶対にみーちゃんのことが好きだって断言したから」
「……陣」
「何か問題があったか?」
悪びれもなくそう返され、怒る気力も出なくなる。
俺はイヤリングを差し出す恭子を一瞥し、そして彼女の手を押し戻した。
「え?」
「必要ない」
一瞬、絶望の表情が浮かんだ恭子に、俺は軽く笑う。
「ミネルバが俺をどう思っているかなんて関係ない。俺は……自分の気持ちを伝えに行くだけだから」
「大吾郎君……!」
見直したよ、惚れ直したよ! と恭子とひなたが何故か拍手する。……おい、陣。惚れ直したとか言葉通りに受け取ってこっちを睨むな。
「それじゃ、行くから」
「ミネルバは正門で父親の車待ってるぞ。良かったな、迎えが遅れてて」
走り出そうとした俺の背中に、今まで場を見守っていた昴の声が掛かる。振り返らずに礼を言うと自分が出せる最大のスピードでこの広い学園を走り抜けた。
走って、走って。そうして辿り着いた正門には二つの人影があった。ミネルバと、彼女の父親だ。まだ車に乗る素振りは無いが何かを話しているようで、あまり顔色の思わしくない彼女の姿が目に入ってくる。
「ミネルバ!」
二人が重大な話をしていようと、俺は構わずそう叫んでいた。身勝手なのは承知だ。弾かれたように振り向いたミネルバの前まで全力で走り終えると、俺は先ほど手折った赤い薔薇を一輪、彼女に差し出した。
「好きだ」
「え、」
「ミネルバ、お前が好きなんだ。あの男よりも幸せに出来るかなんて分からない。だけどこのままお前を黙って見送ることなんて、俺には出来ない!」
「大吾郎……」
「この薔薇を、受け取ってくれないか」
俺と薔薇に交互に視線を送りながら、ミネルバは花にも負けないくらい真っ赤になって言葉を失った。……期待しても、いいのか?
俺にはとても長く感じられた数秒の後、彼女は震える手で俺の手から薔薇を受け取った。
「花言葉まで、受け取ってもよろしいのですか」
「勿論だ」
「嬉しい……やっと、わたくしが一番欲しかったものが」
『ミネルバ』
はっとした。夢みたいな気持ちが、彼女の名を呼ぶ低い声によって一気に現実へと引き戻される。
そうだ、慌てていて何も考えていなかったが、この場にはもう一人初めから居たのだ。
『お父様……』
『……一応聞くが、見合いの返事は』
『お断りします』
潤んでいた瞳を擦り、ミネルバは毅然とした表情で父親へと向き直った。この間から見ていたような眉の下がった元気のない顔ではない。ようやく調子を取り戻した彼女を見て、俺は自然と笑みを浮かべていた。
ミネルバの父は無言で彼女を見下ろし、そして『分かった』と短く返事をする。
『前に言ったな。望むものがあるなら実力で勝ち取れと』
『はい』
『この名門学園で一組上位、更に諸外国の耳にも入る国王杯で準優勝。……お前は十分に義務を果たした。ならば好きにすればいい』
『ありがとうございます!』
彼は淡々とそう述べると、静かな瞳でミネルバを見つめた。彼が何を思っているのかはほぼ初対面の俺には分からない。だけれど、彼女に対して決して冷たい感情を抱いているのではないことは、確かだった。
話は終わったと、そのまま車へ向かおうとした父親を不意にミネルバは呼び止めた。
『お父様』
『何だ』
『わたくしは……卒業しても日本に残ります』
『……何?』
え、とつい言葉が出てしまう。例え見合いの結果がどうであれ、彼女は卒業後はイギリスに帰ると言っていたのに。
ミネルバが日本へ戻るか、俺がイギリスに会いに行こうかと考えていた矢先の発言だった。
眉を顰めた父親にもミネルバは怯まず、真摯な眼差しを向けて一言一言はっきりと言葉にする。
『この国が好きなんです。大好きな人達が沢山いるのです。その人達を守れる人間になりたい、だから――』
「この国で、日本で騎士になります」
まるで母国――イギリスと決別するように、ミネルバは英語を日本語に変えた。
俺は、傍にいる彼女の手を強く握った。この国に居てくれるというのなら、このまま俺の傍に居てくれるというのなら、俺も、この手を離さない。
痛いほどの沈黙と視線が、ミネルバと俺に突き刺さる。しかしそれは不意に終わりを告げた。
『お前が騎士になるというのなら我が家にとっては好都合だ。例え日本であろうとブラッドレイの名に恥じぬ騎士になれ』
『お父様……』
『お前の母親の実家に寄っている時間はもうないな。私はこのまま空港へ向かう。お前は……その男にでも送ってもらえ』
彼女の父は、突き放すような冷たい口調でそう言った。
好都合という言葉に、結局家のことしか考えていない人間なのかと思いかけた。しかしミネルバに向けていた目が唐突にこちらに向いた時、その考えは即座に霧散することになる。
『藤原大吾郎』
「は、はい!」
思わず日本語で返事をしてしまったが、彼は意に介す様子もない。ただ俺を品定めするように眺め、そしてぽつりと消え入りそうな言葉を残してすぐさま車に乗り込んだ。
言葉を返す間もなく、ミネルバの父親は早々に車を発進させ学園から去って行った。
『娘を、頼むぞ』
最後に呟かれた言葉は、酷く情に満ちたものだった。
前半と後半のタイトルが質問と答えになっています。
なんかこの連載のタイトルがまるでみーちゃんの為に付けた感じになっていますが偶然です。




