70.5話 前編 彼女の幸せ、とは。
朝、他の生徒よりも早く学校へ行き温室の植物をチェックする。それが俺の日課だった。
先輩が卒業してからは基本的に一人でこの温室を任されている為、責任は重大だ。水やりや温度管理は機械がしてくれるものの、花の成長を細かくチェックするのは全て手作業で行わなければならない。
今日も今日とて朝日を浴びる草花の手入れをしている。しかし、俺の意識はずっと別の所にあった。
昨日は、確かミネルバがお見合いをすると言っていた日だったはずだ。今日の昼は全員の予定が空いていた為一緒に昼食となるから、その時の話題はきっとそれだ。
お見合いの結果がどうなったのか、それが気になって昨日は折角の休みだったのに関わらず碌に寛ぐこともできなかった。
ミネルバはたまに演習場に寄った帰りにこの温室にも足を運ぶ。そして俺が苦労して育てた花々を見てはキラキラと笑顔を見せる彼女を見て、こちらも嬉しくなるのだ。
その気持ちが変化していったのは、果たしていつからだっただろうか。
手のかかる妹のように見ていた彼女が花を渡す度に目を輝かせる姿を見て、俺の気持ちもいつの間にか変化していったことに、後になって気が付いた。
花は好きだ。花言葉だって他の人よりもずっと知っている。だがミネルバがどの程度花言葉に詳しいかは分からなかった。だからこそ最初のうちは好きでもない男から愛の意味を込めた花を贈るのは、もし花言葉を知っていたら困るかもしれない、と軽い気持ちで選ばなかった。
しかし、自分の気持ちを自覚していくに従って、余計にそういう意味の花を贈れなくなってしまっていた。彼女が花言葉を知っていようがいまいが、愛情の意が籠った花を嬉しそうに受け取られたら、勝手に勘違いしてしまいそうだったから。
「……お、薔薇が咲いたな」
休日前は蕾だった薔薇が綺麗に花を咲かせている。去年もこの時期に薔薇が咲いて、そして温室にミネルバを誘ったのだ。
「綺麗ですわね」と温室を回りながらとても楽しそうに薔薇を見ていた彼女。金の髪に傍に咲いていた真っ赤な薔薇はとても映えていて。
しかし、薔薇に伸ばした手は途中で止まった。
赤い薔薇の花言葉なんて小学生でも知っている。一瞬、そのまま告げてしまおうかとすら思ったが、結局口からはため息しか出てこなかった。その日に差し出した花は、あれだけ咲き誇っていた薔薇ではなく、隅に隠れるように咲いていた別の花だった。
気が付けば遠くで予鈴がなっている。俺は手に付いた土を落として魔術科の校舎へと足を速めた。昼になれば嫌でもお見合いの結果が分かる。
相手の男がミネルバが我慢できないほど酷い人間だったら良い。そうすれば彼女はいつものようにすっぱりと断るだろうから。
幸せを願う花を贈った癖にそんなことを考える俺は、最低なやつだ。
昼になり、陣と共に弁当を片手に集合場所のテラスへと向かう。陣のやつは何も持っていない。今日もひなたの弁当らしく、あいつが二人分の弁当を持ってくるのだろう。
……こいつ、結婚したら絶対に亭主関白になりそうだ。まあひなたはひなたで陣のことをよく振り回しているのでお互い様とも言えるが。
お見合いの結果はどうなのか、そう思いやや緊張しながらテラスへ足を踏み入れると、そこには騎士科三人組みと恭子、そして知らない男性が二人彼らに向き合っていた。
いや違う、よく見てみれば男性と向き合っているのはミネルバ一人だ。
男性二人はどちらも日本人ではなく、西洋風の顔立ちをしている。二人のうちの一人は俺達よりも少し上と言ったくらいの年齢で、明るそうな印象を受ける。そしてもう一人は対照的に落ち着いた雰囲気で、年も四十か、五十くらいだろうか。白髪が混じった髪をしっかりとセットし背筋を伸ばした姿は紳士という言葉が相応しいと思う。
どことなくミネルバに似た印象をもつその男性は、恐らく来日すると言っていた彼女の父親なのではないだろうか。とすれば、隣にいる男も何者なのか何となく理解してくる。
嫌な予感を抱きながら陣に続くように皆の元へ辿り着くと、ミネルバがこちらに気付いた。彼女はまるで俺に助けを求めるかのように非常に困った表情を浮かべている。
『ミネルバ、友人か』
『はい』
不意に彼女と向き合っていた父親らしき男性が、英語で彼女にそう問いかけた。突然だったが短い言葉だったので何とか聞き取ることが出来た。
「わたくしの父ですわ」
『はじめまして、藤原大吾郎と申します』
『あっ、君は!』
紹介されたミネルバのお父さんに頭を下げていると、突然そう声が上がった。先ほど聞いた低い声ではなく、もっと若い男の声。顔を上げてみればもう一人の若い男性が俺の目の前まで来ていた。
金髪を輝かせ爽やかな笑顔を浮かべる男はまさに王子様と言った見た目で、自他ともに認める平凡な俺の劣等感を遺憾なく刺激してくる。
『日本語の方が良いか……』と独り言を呟いた後、その男は少し間を空けて聞き慣れた言葉を話し始めた。
「君は確か、国王杯で彼女と組んでた魔術師の子だよね?」
「は、はい。御覧になっていたんですか?」
「うん! そこの子達と戦ってたよね。君のあの魔術、本当にすごかったよ」
「ありがとうございます……」
「招待されたからどんなものかなーと軽い気持ちで来たんだけど、想像以上にレベルの高い試合が見られて驚いたよ。……それに、彼女を見つけることが出来たしね」
ぽん、とミネルバの肩に手を置きながらそう言った男を見て、俺は無意識のうちに歯を強く噛み締めていた。何気安く触ってるんだ、これだから欧米人は! と偏見すら抱いてしまう。
昴がやったところで何とも思わないのに、この男にだけそう考えてしまうのは、やはりミネルバへの好意が透けて見えているからだろうか。
『そろそろ時間だ』
『え、もうですか?』
『飛行機の時間が迫っている』
『そうですか……ミネルバ、良い返事を期待してるよ』
『……あの』
『さっさと来い』
『あ、待って下さいよ!』
ミネルバのお父さんが急かすようにそう言い、お見合いの相手らしき男は名乗る間もなく、こちらに軽く挨拶だけ言い残して足早に去って行った。
……残された俺達は暫し沈黙し、そしてほぼ同時にため息をついた。
「嵐が去ったな」
昴のその言葉が妙にしっくりきたのは、恐らく俺の心の中が大荒れだったからであろう。
ぎこちなさを残しながらも各々お弁当を用意し、そして食べ始めた所で俺は我慢できなくなって隣のミネルバに疑問をぶつけた。
「あのさ、さっきの人ってやっぱり……お見合いした人、だよな」
「……ええ、そうです」
「みーちゃんの婚約者候補とか言ってたよ。何か忙しいのに学園での様子を見たいとかなんとかごねたらしくて」
「父はまだ滞在しますけど、あの人はお忙しい方のようなのです」
忙しいならわざわざ来なければいい。心の中で毒づきながらも、忙しい合間を縫ってミネルバに会いに来たのだから、本当に彼女のことが好きなのだな、と感じた。
感付かれたのだろうか、先ほどの男は見せつけるかのように俺と話しながらミネルバの肩に手を置いた。まるで、牽制するように。
「見合いは、どんな感じだったんだ?」
「悪い方ではないようですわ。終始気を遣って下さいましたし、碌に話題も出せないわたしくに色々話を振って下さいました」
そう話しつつも、ミネルバの表情が思わしくないように見えるのは、俺の願望だろうか。
「……ねえ、ミネルバちゃん。絶対に、受けなきゃいけない訳じゃないんだよね? 断れたりするよね?」
恭子が、俺が最も聞きたかった言葉を尋ねてくれた。ちらちらと俺の方を窺うようにしているが、まさか恭子に俺の気持ちがばれていたりなんてしないよな……?
弁当も喉を通らずにただ質問の答えを待っていると、ミネルバは俯いて「多分」と曖昧な言葉を告げた。
「多分……って、断れないかもしれないってこと?」
「父は、お前が決めろと言いました。ただ……先方から急かされているようで今日中に決めろと」
「今日中!?」
人生が掛かった選択には些か短すぎやしないか。
「みーちゃん、早く断っちゃいなよ! お父さんにだって自分で決めて良いって言われたんでしょ」
「そうだよ、あの人何か慣れ慣れしかったし、はっきり言っちゃった方がいいよ!」
「おいおい、お前ら何でそんなに否定的なんだよ。そんなに悪い人に見えなかったし、それに同じ国のやつだろ? ミネルバが卒業してからイギリスに戻るんなら、向こうの人の方が良いかもしれねーじゃん」
怒涛の勢いで畳み掛けてきたひなたと恭子にも驚いたが、何よりも昴の言葉に頭を思い切り殴られたかのような衝撃を受けた。
そうか、ミネルバは卒業すればイギリスに帰ってしまう。ずっと日本にいるのではないのだ。
茫然とミネルバを見る。昴と恭子が何やら口論しているようだが、内容など頭に入って来ない。じーっと彼女を見ていた俺にミネルバは怪訝そうに「どうか、なさいました?」と首を傾げている。
「……イギリスに、帰るんだよな」
「ええ」
「戻っては来ないのか」
「……分かりません。ですが、もしあの方と結婚すれば、日本に戻ることはないと思います」
ミネルバの視線が俺を射抜くように捉える。その瞳の真意を量ろうとするが、しかしその前に視線は逸れてしまった。
「結婚、する気があるのか?」
「父はその方が都合が良いと言っていました。あちらの会社と繋がりを得られればブラッドレイの地位も更に盤石なものになるだろう、と」
「なんだよそれ」
くしゃり、と持っていたパンが潰れた。
ミネルバの父親があまり彼女にとって優しい人物ではないことは、以前聞いたことがあった。しかしだからと言って、家の為に娘を差し出しても良いと考える人間だとは思っていなかったのだ。
自分で決めろと言いながらこうして圧力をかけて、ミネルバが断ったとしても本当にそれを受け入れるのだろうか。
「……わたくし、先に戻っていますわ」
言葉が途切れたタイミングを計ったのか、黙り込んだ俺から視線を逸らしてミネルバはテラスから立ち去ってしまった。思わず伸ばした手は、しかし躊躇う気持ちが混じり空を切る。
茫然とミネルバを見送ってしまった俺に、先ほどまで昴と口論していた恭子が怒気をまき散らしながら俺の名前を呼んだ。
「大吾郎君! このままだと、ミネルバちゃんあの人に持って行かれちゃうよ!」
「……そう、だな」
あの押しの強そうな男なら、ミネルバは断れずに結婚するかもしれない。
だが、それが不幸になると決まっている訳ではない。
先ほどまでは目の前に彼女が居て冷静に考えられなかったが、実際の所、悪い話でもないのだろう。
年は近く、国も同じ。国王杯に招待されるほどの立場の人間で、容姿も申し分ない。そして何より、ただの政略結婚ではなく、ミネルバのことを想っている男だ。
これだけ好条件な見合い相手など中々いないだろう。そう思えば彼女の父親だって、家だけの為にあの男と見合いをさせた訳ではないと思う。ミネルバが幸せになれる道も考えて決めたのだと、そう感じた。
ならば俺達が彼女の意思も確認せずに妨害するのはおかしいのではないか。昴は割とあの男のことを好意的に見ているようだし……そもそも、あれだけ見た目の良い男なのに、どうして女子勢であるひなたと恭子が真っ先に反対しているのだろうか。
「大吾郎君は、ミネルバちゃんのこと何とも思ってないの?」
「恭子、何を……」
やはり、恭子にはばれているのか?
手を強く握り震わせている恭子は、こちらを睨み付けるように直視すると大きく息を吸い込んだ。
「ミネルバちゃんは! 大吾郎君のことが好きなの!」
「……は?」
一瞬、頭が真っ白になった。
「ちょっと恭子ちゃん!? 勝手に言ったら……」
「だってもう時間がないんだよ!? このままミネルバちゃんが気持ちを殺してあの人と結婚するなんて、絶対嫌なの!」
「……恭子、一体何を言って」
「ねえ、大吾郎君はミネルバちゃんのことどう思ってるの? 教えてよ!」
泣きそうなくらい真剣にこちらを見つめる恭子に、俺は。
――結局、何も言えなかった。




