60話 お母さん
彼女は水瀬秋乃と名乗った。不知火のおじさんのお姉さんで今は結婚して不知火の家を出て暮らしているのだという。
車内は終始無言で非常に重苦しい空気が流れている。不知火の車に乗る時はいつも、私が話して陣と佐伯さんが相槌を打ってくれるのだが、こんな雰囲気では流石に私も口を開けるほどの度胸はなかった。
幸運だったのは秋乃さんの家が学園から然程遠くない場所だったことだ。思ったよりも早く到着して車から降ろされると、不知火程大きくはないがそれでも如何にも上流階級に相応しい豪邸へと連れて行かれた。
リビングへと通されると秋乃さんは私達を待たせてどこかへ行ってしまう。その間に私はすかさず陣の服の袖を引っ張った。
「ね、ねえ陣、さっきのって、どういう意味?」
「……それは」
「私が来る前に何か言われたの?」
そうとしか考えられない。それ以前にあった陣はこんなにも余所余所しくはなかったし、私に対しても遠慮がなかった。それなのに今の彼は一切私と目を合わせようとせずに俯いている。
何の話だったのか、と私が彼を問い詰めようとした時、ちょうど秋乃さんが帰ってきてしまってそれは叶わなかった。彼女は無言で私に一冊の分厚い本を差し出している。
「これは、アルバム?」
うちでよく見るやつだ。彼女に促されてページを捲ると、そこにはいくつかの写真が張り付けられている。その中でも沢山映っているのは、秋乃さんの若い頃らしき女性とどこかで見たような目が覚めるような美しい女性、そして彼女に抱かれている赤ん坊だ。
「この人は……」
「不知火由紀……あなたの本当のお母さんよ。そしてこの赤ちゃんはあなた」
「え……」
不知火、由紀さん。確か以前亡くなったという陣のお母さんで、そして……私の生みの親。よく考えてみれば写真に写る彼女は司お兄ちゃんに似ている。いや、実際にはお兄ちゃんが彼女に似たのだけれど。
「……」
「優一から生まれた時の話は全てしたと聞いたわ。でも、由紀の話は聞いた?」
優一って誰だろう、と一瞬思ったのが隣に伝わったのか、陣がこそっと「父さんのことだ」とフォローしてくれた。そうか、おじさんのことか。昔おじさんと秋乃さんが言い争っていたのを見たことがあったので仲が悪いのかと思っていたが、それほど酷い訳ではないらしい。
私は春休みに聞いたことを改めて頭の中で反芻したものの、そういえば不知火のお母さんのことについては殆ど耳にしなかった気がする。
私が首を振ると、秋乃さんは思いつめた表情で私から視線を逸らして窓の外を見た。
「由紀は元々、最初は私の友人だったの。明るくて元気な子でね、すごく頑張り屋だった。そんなあの子が優一と結婚して、そしてひなたが生まれて……あの内紛から、全てが可笑しくなった」
そこまで言って、彼女は窓の外から視線をこちらに戻した。私と陣を見据えて、そしてはっきりと言葉を口にする。
「私は最初から子供達を交換するのは反対だった。どんな理由があろうと親元から引き離すなんておかしいって、今でも思ってる。ひなたを不知火に戻せ、陣を鳴神に返せって何度も優一と口論になったわ。……そして、それを繰り返しているうちに、あの事件が起こった。由紀が、殺されてしまった」
「俺の、所為なんだ」
「え」
「母さんが死んだのは、俺の所為みたいなんだ」
「どういう、こと」
不知火のお母さんが殺されたという事実に衝撃を受けていると、更に追撃するように陣の言葉が被さってくる。
混乱しながら陣を見るが、彼は俯いていて表情を窺うことは出来ない。
「……母さんのことはおぼろげにしか覚えていなかったし、いつどうして死んでしまったのかも分からなかった。父さん達に聞いても絶対に答えてはくれなくて、俺には言えない何かがあるんだとずっと思ってた」
「……あの子は、あの日陣と二人で出掛けていた」
当時二歳だった陣を連れたお母さんは、買い物に行く途中で銀行へ寄っていた。そしてそこで非常に運の悪いことに銀行強盗に出くわしたのだという。二人は他の利用客と一緒に人質に取られていたのだが、緊迫した状況からか強盗犯の怒号に驚いたのか、陣が泣き出した。鳴き声で強盗犯に目を付けられた陣は彼らに更に恫喝され、そして最悪の事態に陥った。
陣が、魔力暴走を起こしたのだ。身を守る為か相手を攻撃する為か、とにかく魔力を其処ら中に放出して周囲を破壊した陣。
お母さんはすぐに魔力暴走を抑え始めたのだが、こんな小さな時でも陣の魔力は非常に膨大だった。彼女も魔力は高い方だったが一人では暴走を鎮めるのはぎりぎりのラインだったのだ。
そして何とか暴走を鎮めたのと同時に、この混乱に乗じて警察が突入してくる。しかし強盗犯はただでは捕まらなかった。警察を呼び込むきっかけになった陣を恨んだのか、道連れにするように爆発の魔術を使ったのだ。
犯人は死亡。そして――
「陣を庇った由紀は魔術の直撃を食らって殺された。結界を張るような魔力はもう彼女には残ってなかったの」
そう話終えた彼女は、静かな瞳の奥に炎を滾らせて顔を上げた陣を強く射抜いた。
「勿論、悪いのは犯人で陣の所為ではないことは分かっています。……分かっていても、それでも、どんな理由があろうと由紀が死ぬきっかけを作ったあなたが許せなかった。私から親友を、司とひなたから母親を取り上げた。あの子は、他人の子供の為に犠牲になったの」
「……それは違います!」
私は堪らなくなって思わず声を張り上げてしまった。
酷く深刻な話の中、とても口を挟める空気ではなかった。対峙する二人は表情は違えど互いに苦しみでいっぱいで、実の母親とはいえ殆ど実感がない私がしゃしゃり出てはいけないと思ってしまった。
けれど、これだけは聞き捨てならなかったのだ。
「佐伯さん、言ってましたよね。私と陣は四人の子供だと、二人とも鳴神であり不知火であると」
「……はい」
「私はお母さんのことは全然知らないけど、これだけは言えます。お母さんにとって、陣は他人の子供なんかじゃない、自分の子供だったんです。だから陣を守る為に命を掛けられた。陣が、大事だったから」
「ひなた……」
お母さんだけではない。おじさんも、そして恐らく司お兄ちゃんもこの事件を知っていて陣に接しているのだ。彼らの陣への愛情が嘘だとは絶対に思わない。血縁関係などなくても、陣は本当に不知火の子なのだ。
私がそう言い終えると、秋乃さんは言葉を失って俯いてしまった。私なんかよりも、彼女の方がずっとお母さんのことをよく知っているはずだ。先ほど見たアルバムには陣と一緒に映っている物もあった。陣を抱いて幸せそうな顔をするお母さんを見れば、どれだけ陣を愛していたか、私でも窺えた。
「……私がどれだけ止めても、あの子は大丈夫だと笑っていた。離れてもひなたは私の子だし、血の繋がりがなくても陣は私の子だって。そんなこと言っていたの、今まで忘れてた」
陣への憎しみや由紀が亡くなった悲しみが勝ってそんなこと、ずっと忘れていたと秋乃さんは自嘲気味に微笑み、そして彼女は少しだけ躊躇った後、陣に頭を下げた。
「ごめんなさい、陣。身勝手な理由であなたに酷い言葉を沢山言ったし、それに魔術で傷付けようとした。……だけど、駄目なの。どんな理由でも、私はまだあなたを許せそうにない」
「……構いません。俺が母さんが死んだ原因であることは間違いないんですから。恨まれて当然です」
「陣……」
「ひなた、お前にも言っておく。俺を恨みたいのならそれでいいんだ。ひなたから母親を奪ったのは間違いなく俺だから」
「……そういうこと言うのもう禁止!」
暗い表情で私にそう言う陣に、なんだか色々と耐え切れなくなってしまった。
「『俺の所為』って言葉もう言っちゃ駄目!」
「けど」
「そうやってうじうじしてるのを天国のお母さんに見られたいの? 私がお母さんだったらしゃきっとしなよって背中叩いてるよ! お母さんがくれた人生なんだから、もっと前向きに生きて、お願い」
絶対にお母さんだってそう望んでるはずだ。娘の私が言うんだから間違いない! と大見得を切ると、陣は困惑したように狼狽えた後、「……努力する」とぽつりと呟いた。
「……佐伯」
「はい」
「ひなたは、由紀にそっくりね」
聞こえてきた言葉に振り返る。
陣を励ます私を見ながら秋乃さんは、泣き笑いのような表情でそう言った。




