51.5話 後編 新たなる門出
図書館の傍にある休憩所まで歩くと、彼は私を座らせて自動販売機へと向かう。そしてややあって戻ってきた彼は私の前のテーブルに冷えたオレンジジュースの缶を置いた。
「俺の奢りだ」
「……ありがとうございます」
「それで、どうしたんだ? お兄さんに話せるなら話していいんだぜ、妹よ」
「誰があなたの妹ですか!」
言われた言葉に思わず声を上げると、怒鳴る元気があってよかった、と笑われてしまった。
大吾郎はお節介焼きだ。こうやって人の事情にもよく首を突っ込んでくる。けれど、何故か彼はそれを拒絶させない何かがある。他の人間だったら大きなお世話だと言いたくなることも、大吾郎は人を不快にさせずに他人のスペースに入ってしまう。
そういえば以前ひーちゃんも落ち込んでいた時に彼に相談したと言っていた。大吾郎は人の警戒心を解くのが上手いのだ。
私は、大吾郎をしばし見つめて、そして口を開いた。
「……ただ、二組に落ちただけですわ」
そう、突き詰めればそれだけのことなのだ。彼らに頼ってもらえないと自信を無くしたのも、置いて行かれると不安になったのも、結局は目に見えて実力の差を突きつけられたからだ。
それだけ言って黙り込んだ私に、大吾郎はよしよしというように頭を強く撫でた。子ども扱いしないでほしいと思うのに、言葉だけの同情よりもずっと心地よかった。
しばらくそのままでいたが、不意に大吾郎が私の頭から手をどけて思い出したかのように尋ねた。
「ミネルバはさ、どうして日本に留学することにしたんだ? イギリスでも騎士の学校はあるだろ?」
「……わたくしは、騎士になりたかった訳じゃないの」
「ん?」
「わたくしは、ただ日本に戻りたかっただけ」
本当は話すつもりなどなかった。だってこんな話をしたら呆れられるに決まっている。幼い頃の、それも名前も正確に分かっていなかった子に会いたいが為に日本へ来たなんて。
けれど私は、話してしまっていた。自分の中だけで留めるのがいい加減辛くなってしまったのだ。ひーちゃん相手ならば決して口にはしなかったが、彼ならば大丈夫だと、何故かそう思った。
「こんな理由で騎士科に在籍しているなんて、最低かもしれません……」
騎士を本気で目指している生徒が聞いたら激怒するかもしれない。そんな気持ちで騎士科に入ったのかと。
「この学園ってさ、受験倍率すごかっただろ」
いっそ騎士科を止めるべきだろうか、とすら思ったその時、大吾郎は何の脈絡もなさそうな話題を突然切り出した。
首を傾げた私に構わずに、彼はそのまま話を続ける。
「物心ついた頃から英才教育を受けているやつも大勢いるし、皆何が何でもこの学園に入ろうとしている。そんなやつらでも殆どの人間が落ちてるんだ。初等部でそうなら中等部からの編入なんて想像も出来ないくらいの倍率だっただろ?」
「ええ……募集は数名、としか書かれていませんでしたし」
「だろ? 元々どんなきっかけだろうと、ミネルバは友達に会いたいっていう気持ちでそれだけの狭き門を潜り抜けて頑張ったんだ。大丈夫、騎士科にいるのだって、お前が認められた証拠だよ」
だから、お前がここにいるのは何にも間違っていない、と大吾郎は柔らかく微笑んだ。
私は茫然と彼の言葉を頭の中で巡らせながら、イギリスでの日々を思い出していた。
そうだ、ひーちゃんに会いに行こうと決意を固めてから入学試験の日まで、本当に全力でやってきた。勉強も今まで以上に取り組んで、寝る間も惜しんで剣術の修行に明け暮れていた。そうして、この学園に入学できるほど頑張ってきたはずだ。
けれどひーちゃんに再会してから、あの頃のように必死になったことがあっただろうか。再会したことに満足して、努力を怠ってきたのは私自身だ。
これでは二人に置いて行かれるのも当たり前だ。彼らはそれぞれ、強くなろうと努力し続けているのだから。
あの二人に追いつくことが出来たら、彼らの事情を聞く勇気が持てるだろうか。また、彼らの隣に堂々と立てるようになったら、私は……。
「大吾郎」
「何だ?」
「わたくし、もう一度頑張ってみようと思うのです」
こうして口に出して宣言しなければ、私は弱いから立ち止まってしまうかもしれない。
彼の目を真っ直ぐに見てそう告げると大吾郎は「そうか」と一言相槌を打ち、そしておもむろにテーブルの上に置いていた花束から一輪引き抜き、それを私に差し出した。
「じゃあ頑張るみーちゃんに俺からのプレゼントだ」
「……みーちゃんって呼ばないでください」
口ではそう言い返したが、私は差し出されたスイートピーを大事に受け取った。
「ただいま帰りました」
純日本家屋の引き戸を開けてそう声を掛ける。私は幼少期に滞在した時と同じく、母の実家で暮らしている。
私の声に気が付いたのか、おばあ様が台所から出てきて迎えてくれた。
「おかえりなさい。みーちゃん今日は遅かったのねえ……あら綺麗な花ね。どうしたの?」
「……貰いましたの」
「みーちゃんは美人さんだからモテモテなんだねえ」
「そういうプレゼントではありませんわ!」
勘違いしているおばあ様にすぐさま否定の言葉を返したが、彼女は照れ隠しだと思ったのかまともに取り合ってはくれず流されてしまった。
おばあ様に花を預けて自室へ歩き出した私は、しかしすぐに再び声を掛けられて立ち止まる。
「そういえば、お父さんから電話があったわよ。みーちゃんに用があったみたいだから、後で掛けなさいね」
「……はい」
来た。いつかは来るとは思っていたが、実際にその時がやってくると気が重くて仕方がない。イギリスの家まで成績表が送られ、それを見たのだろう。
あの男と話すのは嫌だが、今日でなければもっと憂鬱になるに決まっている。大吾郎は、私がここにいてもいいとそう言ってくれた。彼の言葉に勇気を貰って、私は一呼吸置いてから電話を手に取る。
長い電子音の後、日本語に慣れた耳に久しぶりに英語が聞こえてきた。
「ミネルバか」
「はい、お久しぶりです」
「用件だけ言う。さっさとイギリスに帰ってこい」
「お父様、待ってください」
「私は言った筈だ。我が家に恥じない成績を残せ、と。これ以上留まってブラッドレイの名前を貶めるつもりか」
「お父様!」
そう言われることは予想していた。だが実際に耳にすると悔しくてたまらない。
私は唇を噛み締めて父の言葉を遮るように強く言った。
「お願いします。もう一度、もう一度だけチャンスを下さい!」
私は、ここにいたい。
何かを言いかけた父は私の言葉に一旦口を閉じ、そして冷静に言葉を放つ。
「具体的にどうするつもりだ」
「後期にもう一度クラス替えがあります。その時に必ず良い成績を残してトップのクラスへ入ってみせます! だから……」
「必ず、か。……その言葉に偽りはないか」
「はい!」
強く返事を返すと、父は考えているのかしばらくの間何も聞こえなくなった。ドキドキと、自分の鼓動の音だけが大きく響く。父とこんなに会話をしたのは本当に久しぶりのことだった。
随分と長く思えた沈黙の後、ようやく聞こえてきたのは「分かった、二度はない」という低い声であった。
「私は、お前が義務を果たすのであれば何も言わん。望むものがあるのなら、実力で勝ち取ってみせろ……私のようにはなるなよ」
「え?」
最後に聞こえた言葉に戸惑っている間に電話は切られていた。私は受話器を置いて、父の言葉を反芻しながら部屋へと戻る。
私のようにはなるなって、どういうことだろうか。
父のことを殆ど分かっていない私が考えても、答えは出なかった。
次の日、私は今まで避けていた一組の教室の前に立っていた。
「ひなた、昴!」
気合いを入れて思い切り彼らを呼ぶと、二人は驚いてこちらを向く。
「みーちゃん!」
ひーちゃんはがたんと椅子を揺らして立ち上がると、大急ぎで私の元へ来てくれる。彼女の後ろには昴が、楽しげな表情を浮かべて遅れて歩いてきた。
「わたくし、決めましたの」
「決めたって?」
「わたくしは必ず、あなた達に追いついてみせますわ。だから……」
私は仁王立ちをして二人を見据え、はっきりと宣言した。
「その時はあなた達がわたくしに隠していること、全部聞きに来ますからね!」
覚悟しておきなさい! と言い放つと、私は彼らの反応を見ることなく踵を返す。
言ってしまった。心臓は驚くほど活動的だが、後悔はない。
「みーちゃん」
二人の反応を見るのを怖がっていた私の背後に、声が投げられた。恐る恐る振り返ると、そこには笑顔のひーちゃんがいた。
「待ってるから!」
彼女の言葉に、私は力強く頷いた。
みーちゃん視点でした。
ちなみに前編のタイトルである「優しい思い出」と後半のタイトルである「門出」は両方スイートピーの花言葉です。
藤原君に持たせる花は季節で可愛い花を選んだのですが、なんとなく花言葉も合っていたのでこれにしました。




